湖の呪い
パトリシアの心は高揚していた。
セージ湖の湖畔に立つと、満月の光が水面に映り、まるで銀の鏡のように輝いていた。
貴族学院の女子寮から馬車でやってきたこの場所は、噂通りの神秘的な美しさだった。
「満月の日の月の出の瞬間、セージ湖を覗くと10年後の自分の姿が見える」。
そのロマンティックな噂に、パトリシアは胸を躍らせていた。彼女の未来は輝かしいものに決まっている。第3王子エドワードの婚約者候補である自分が、王子妃として玉座に座り、愛らしい子を抱いて勝ち誇る姿――それこそが、パトリシアが夢見る未来だった。
「ボートは4人乗りだから、残念だけどローズは乗れないわね。」
パトリシアは振り返り、わざとらしく微笑んだ。
ローズは湖畔に立ち尽くし、荷物を抱えたまま呆然としていた。彼女の地味な茶色のワンピースは、美しい湖畔の前では、さらにみすぼらしく見えた。
パトリシアは内心でほくそ笑んだ。子爵令嬢のローズは、所詮は自分たちの従者。こんな機会にまで連れて行く義理はない。
ソフィーとメアリーもクスクス笑い、パトリシアの意図を察して同調した。
「ローズ、荷物見ててね。置いてかれないように気をつけなさいよ!」
ソフィーの軽い口調に、ローズの表情が一瞬曇ったが、すぐに俯いて頷いた。パトリシアは満足げに背を向け、ボートに乗り込んだ。
ボートにはパトリシア、ソフィー、メアリー、そして無口な船頭の4人だけが乗った。
船頭は年老いた男で、湖の噂を信じていないような、どこか冷めた目つきをしていた。
パトリシアはそんなことにはお構いなしだった。
彼女の心は、湖が示す未来への期待でいっぱいだった。
ボートがゆっくりと湖の中心へ向かって漕ぎ出すと、水面は星々の光を映し、まるで別の世界への入り口のようだった。
周囲には、同じように未来を覗こうと集まった貴族たちのボートがいくつも浮かんでいた。笑い声や興奮した囁き声が水面を渡り、湖畔はまるでお祭りのような賑わいを見せていた。
「ねえ、パトリシア様、どんな未来が見たい?」
メアリーが目を輝かせて尋ねた。彼女の声は無邪気だが、パトリシアには少しうるさく感じられた。
「決まってるわ。エドワード王子と結婚して、王子妃として輝いている姿よ。子供を抱いて、みんなに羨ましがられる未来!」
パトリシアは胸を張って答えた。
彼女の想像の中では、金の冠を戴き、豪華なドレスに身を包んだ自分が、エドワード王子の隣で微笑んでいる。ソフィーは少し羨ましそうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り繕った。
「私は素敵な旦那様と結ばれてる未来が見たいな。子供は…そうね、2人くらい?」
ソフィーの声はどこか不安げだった。メアリーは相変わらず子供の数を数えながら笑い、ボートの中は一見和やかな空気に包まれていた。
だが、パトリシアの心の奥には、ほんのわずかな不安が芽生えていた。
ローズが話していた、湖にまつわる古い言い伝え。
「満月の日にセージ湖には近づくな。魔物が現れ、魂を奪う」。
あの子の祖母の迷信だと言い聞かせていたが、湖の静けさはどこか不自然で、満月の光は冷たく感じられた。パトリシアは首を振ってその考えを振り払った。
馬鹿らしい。こんな美しい湖が危険だなんて、ありえない。
「もうすぐ月の出よ! 準備して!」
メアリーの声に、パトリシアは湖面に目を向けた。
時計は夜7時を指し、満月の光が湖全体を青白く照らし出していた。湖面は鏡のように滑らかで、まるで時間が止まったかのようだった。
パトリシアは身を乗り出し、期待に胸を膨らませて水面を覗き込んだ。ソフィーとメアリーも隣で同じように湖を見つめ、船頭だけが無言で櫂を動かしていた。
最初に映ったのは、パトリシア自身の顔だった。金髪が月光に輝き、いつも通りの美しい自分がそこにいた。だが、その顔が徐々に揺らぎ、湖面に別の光景が浮かび上がった。パトリシアの心臓が高鳴った。未来だ。きっと、輝かしい王子妃としての自分が――。
しかし、湖面に映ったのは、彼女の期待とはまったく異なるものだった。どす黒い影。まるで闇そのものが形を成したような、輪郭のぼやけた人影が湖面に浮かんでいた。その影はゆっくりと動く。パトリシアは息を呑んだ。影の顔で、真っ赤に輝く二つの光が、じっとパトリシアを見つめていた。恐怖が彼女の全身を駆け巡った。
「何…これ…?」
声が震えた。
ソフィーとメアリーに目をやると、彼女たちも湖面を覗き込み、凍りついたように動かない。だが、パトリシアには彼女たちの様子を気にする余裕はなかった。湖面の影が、ゆっくりと手を伸ばしてきたのだ。
黒い、細長い影の手が、水面から飛び出し、パトリシアの腕をつかんだ。
「いやっ!」
パトリシアは叫び、ボートを揺らした。
だが、影の手は驚くほど強く、彼女を湖の中心へと引きずり込んでいく。
冷たい水が足首を這い、ドレスの裾を濡らした。
パトリシアは必死に抵抗したが、力はまるで及ばなかった。
影の赤い目が、彼女の心を覗き込むように輝いていた。
「パトリシア…パトリシア…」
湖の底から、誰かの声が響いた。低く、怨念に満ちた女の声。パトリシアの身体が水面に沈む瞬間、彼女は気づいた。
その声は、3年前に非業の死を遂げた王妃のものに似ていたことに。
次の瞬間、パトリシアの姿はボートから消えていた。湖面は再び静寂を取り戻し、まるで何も起こらなかったかのように満月の光を映していた。
「パトリシア様!?」
ソフィーの叫び声が湖に響いた。彼女が振り返ったとき、ボートの席は一つ空になっていた。メアリーも慌てて周りを見回したが、パトリシアの姿はどこにもなかった。船頭は櫂を止め、暗い顔で湖を見つめた。
「またパトリシアか…。やっぱり、湖の呪いだ。」
彼の呟きに、ソフィーとメアリーは顔を青ざめさせた。
「呪い? 何!? 何なの!?」
ソフィーが叫ぶと、船頭は重い口を開いた。
「王妃様が死んでから、セージ湖の伝説は変わっちまった。この湖は、王妃様が愛した避暑地だった。なのに、側妃の策略で王妃様は殺され、湖の言い伝えもねじ曲げられた。今じゃ、若い娘たちが『未来が見える』なんて噂を信じて集まってくる。だがな…この湖は、パトリシアって名前の女だけを呑み込む。」
船頭の声は低く、まるで湖そのものが語っているかのようだった。
「側妃の名前も、パトリシアだった。王妃様の恨みが、同じ名前の者に及んでるんだ。この辺りの人々はそう恐れてる。」
ソフィーとメアリーは恐怖で震え、互いに抱き合った。
湖面は静かだったが、その静けさはまるで何かを隠しているようだった。船頭は無言で櫂を動かし、ボートを岸へと戻した。
湖畔に残されていたローズは、ボートが戻ってくるのを見て駆け寄ったが、パトリシアの姿がないことに気づき、目を丸くした。
「パトリシア様は…?」
ローズの声に、船頭は首を振った。
「湖に呑まれた。もう戻らねえよ。」
その夜、セージ湖は再び静寂に包まれた。満月の光が水面を照らし、まるで何もなかったかのように輝いていた。
だが、湖の底には、王妃の怨念が静かに息づいているかのようだった。
パトリシアという名前の女を、永遠に呑み込み続けるために。