湖への旅立ち
金曜日の朝、パトリシアがローズを呼びつけた。
「ローズ、馬車の手配、ちゃんとやってよね。地元のあなたなら、いい御者を知ってるでしょ?」
パトリシアの口調は命令的だった。ローズは頷き、故郷の知り合いに連絡を取ることを約束した。
ソフィーとメアリーも同調し、
「パトリシア様にふさわしい馬車じゃないと困るわよ」
と笑いながら言った。
ローズは内心で苛立ちを感じつつも、笑顔で応じた。彼女たちに逆らうことはできない。
ローズは早速、故郷の知り合いに手紙を書き、馬車の手配を進めた。彼女の心は複雑だった。
セージ湖に行くのは楽しみだが、祖母の警告が頭を離れない。
エドワードとの未来を知りたいという気持ちもあるが、湖に何か恐ろしいものが潜んでいるかもしれないという恐怖もあった。パトリシアたちの軽薄な態度とは裏腹に、ローズは湖の噂にただならぬものを感じていた。
日曜日の朝、ローズは茶色のワンピースに袖を通した。鏡に映る自分は、地味だが落ち着いた雰囲気の少女だった。貴族のお忍びで出かけるのだから、目立たない服装が賢明なのだ。
パトリシアたちとの待ち合わせ場所に向かうと、予想通り、彼女たちは華美なドレスで現れた。特にパトリシアのドレスは、金糸の刺繍が施された豪奢なもので、お忍びにはあまりに目立ちすぎる。ローズは勇気を出して提案した。
「パトリシア様、森の中なので、もっと動きやすい服が…。私の紺のワンピースをお貸ししましょうか?」
パトリシアはローズを睨みつけ、差し出したワンピースを叩き落とした。
「こんな地味なの、恥ずかしいわ! 私が誰だと思ってるの?」
ソフィーとメアリーがクスクスと笑い、ローズは顔を赤らめた。彼女たちの嘲笑を無視し、ローズは馬車の手配を確認するため、急いで広場に向かった。
馬車が到着すると、御者はローズの知り合いの老人だった。彼はローズに微笑みかけたが、パトリシアたちが乗り込むと、眉をひそめた。
「嬢ちゃんたち、セージ湖に行くのは本当にいいのかい? 満月の夜は危ねえって、昔から言われてるぜ。」
御者の言葉に、ローズの胸が締め付けられた。
だが、パトリシアは笑い飛ばした。
「迷信なんて、どうでもいいわ。早く出発して!」
ソフィーとメアリーも同調し、馬車は夕暮れの森へと進んだ。
馬車の中は、パトリシアたちの弾んだ声で賑やかだった。
「パトリシア様、湖で王子様との未来が見えたら、どんな気分かしら!」
メアリーが目を輝かせて言うと、パトリシアは得意げに微笑んだ。
「当然、王子妃として輝いている姿よ。エドワード王子は私を選ぶに決まってるわ。」
ソフィーは少し羨ましそうな顔をしたが、すぐに話題を変えた。
「私は素敵な旦那様との未来が見たいな。婚約者が決まってないから、ちょっと不安だけど…。」
ローズは窓の外を見ながら、彼女たちの会話を聞いていた。恋の話を聞くたび、彼女の心はチクリと痛んだ。隣の領地のユリウスは、彼女が密かに想いを寄せる相手だ。だが、噂が本当ならば、今夜にも自分の恋は叶わないと知ることになるかもしれない。
馬車が森の奥に進むにつれ、木々の隙間から差し込む満月の光が強くなってきた。ローズは子供の頃、セージ湖で遊んだ記憶を思い出した。湖畔の柔らかい草、透き通った水、そして王妃の優しい笑顔。
王妃はローズを可愛がってくれて、湖畔で一緒に花を摘んだこともあった。あの頃の湖は、ただ美しかった。だが、今、湖の噂は変わり、不穏な空気を帯びている。ローズは御者の警告を思い出し、背筋に冷たいものが走った。
「この馬車、ちょっと揺れるわね。ローズ、もっとマシなのを選べなかったの?」
パトリシアの不満げな声が響いた。
ソフィーとメアリーも賛同し、「パトリシア様にふさわしくないわ」と口々に言った。
ローズは謝りながら、内心で苛立ちを抑えた。
彼女が手配した馬車は、決して粗末なものではない。だが、パトリシアたちには関係ないのだろう。
やがて、馬車はセージ湖の湖畔に到着した。
「綺麗…。」
満月の光が湖面を青白く照らし、まるで鏡のような美しさだった。
ローズは荷物を抱えながら、湖を見つめた。
子供の頃の思い出と、祖母の警告が交錯する。湖の周囲には古い石碑が点在し、風化した文字がかろうじて読めた。
「汝、月夜に湖を覗くな」と彫られた石碑を見つめ、ローズの心はざわついた。
パトリシアたちは興奮した様子で湖畔に降り立ち、ボートの手配を始めた。
ローズは彼女たちの後ろに立ち、湖の静けさに言いようのない不安を感じていた。
この湖が、どんな未来を見せるのか…。それとも、どんな恐怖を隠しているのか。
その時はまだ、誰にも分からなかった。