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希望する人間と猫たちを船に乗せ、私達は一路、エンデルーゼを目指すことにした。ネズミのことは気になったが――そう、どうやっても船にはネズミが紛れ込むのだ――船にはたくさんの猫も乗っている。猫たちと協力してネズミを頑張って駆除した。
皆は「心配のし過ぎだ」と言ったが、探したらけっこうな数が紛れ込んでいた。こんなことだろうと思ったのだ。
そう、人間が航海を始めてから、ネズミのせいで滅んだ動物は少なくない。大袈裟な、とは思うかもしれない。けれどネズミは知能が高く、適応力に優れ、食欲旺盛だ。在来種がネズミへの防御手段を持たない孤島に上陸した場合は、野生生物を食い荒らす。人間が持ち込んだ捕食者のせいで、絶滅の道を辿った動物は少なくない。
けれど、猫を載せていれば、ネズミ対策になる。実際に、中国から日本に仏典を運ぶとき、仏典をネズミから守るために、猫を船に乗せていたという話もあるくらいだ。
早々に動いたせいか、私達の中で、ペストが蔓延することはなかった。多少危険な人間もいたが、私が対処したので、無事、隣国のエンデルーゼに到着した。
グランバリエを捨てたようで少しだけ心が痛んだが、沈む船に最後までいるつもりはない。危険性も説いたし、忠告もした。それでも、聞く耳を持たなかったのはあちらだ。これ以上、私達ができることはなにもなかった――そう思うことにした。
くたびれた私たちをエンデルーゼの国王陛下も叔母も歓迎してくれた。私たちは何があったかを、事細かに説明した。そうして、私は前世の知識も交えて、今後の危険性を説いた。信じられないと言わんばかりの顔を二人はしていたが、私達に部屋を用意してくれた。
私が話している間、ずっと陛下と叔母は思案顔をしていた。時折お二人の口から聞き覚えのない『ヒロイン症候群』、『悪役令嬢症候群』という言葉が飛び出てきた。その言葉に背筋が冷えた。
ヒロイン?悪役令嬢?まさか、ここは何らかの小説、もしくはゲームの世界なのだろうか?WEB小説などでよく異世界転生の話は読んだが、まさか自分が体験することになるとは……。
いや、つい最近まで、シンデレラらしき、世界にいたかもしれないのだから、今更か……。
しかし、症候群?とは何だろう?と思って、『ヒロイン症候群』『悪役令嬢症候群』が何かを調べて目が飛び出るかと思った!どちらもめっちゃ痛い。私もどちらかに分類されるのかと思うとちょっと泣きたくなる。
けれど、これは朗報でもある。この国には、私と同じ転生者がいるのだ。それならば、その人たちと協力してより良い対策ができるのではないだろうか?ペストの対策なら抗生物質が必要だが、私はそんなものを作れない。もしかしたら作れる人が転生しているかもしれない。
私は陛下と叔母に時間をいただき、転生者と思しき人たちのところを回った。
私と母は国を捨てるにあたって、秘術を国外に出す決意をしていた。各国にはその国の王族にのみ伝わる魔法がある。それは攻撃魔法かもしれないし、治癒魔法かもしれない。本来は、国外に出すことも無ければ、よっぽどのことがない限り、臣下にも見せない。
秘術の内容は秘されていても、その存在は秘されていない。秘術は外交の切り札――戦争の抑止力にもなるし、通商条約などを結ぶ際に有利に働くこともある――になるのだ。それほど、秘術とは大切なもので、国外に出すものではないのだ。
恐らくグランバリエはそう遠くない未来、亡びる。少しだけ胸が痛むが、ペストのせいで滅びた王朝なんていくらでもあり、グランバリエもそのひとつだというだけだと自分に言い聞かせる。
しかし、国が滅びるのは仕方が無いが、秘術もともに消えるのはもったいない。グランバリエの秘術は病気や毒を浄化できるものだ。浄化魔法は中々貴重なもので、グランバリエ以外で見たことはない。まあ、結構な魔力を使うので、そんなに大量の人を癒せるものではないのだが……。
それでも、この秘術はこの世界のためになるだろうし、何よりも金になる!私たちが生きて行くために利用させてもらおう。
同じように考えた人間もいるようで、いつの間にか秘術が漏れていることも実は珍しくもない。なんなら、逆輸入した王家もあると聞く。王家の人間の方がその血ゆえか、秘術をうまく使えるので、逆輸入しても王家の人間が使うと、とんでもない威力を見せるそうだ。
母と私はエンデルーゼに秘術を伝えようと思っている。ただ、念のため、わが国の第一王女であったアビゲイル叔母様に相談してからにするつもりだが。
最近では魔法を使える人間は少なくなっている。残念ながら、私の母と叔母もその素養がなかった。
辛うじて魔法を使える人間でも、威力は弱い。一応、王族の端くれである私ですら、一日に癒せる人間は数十人程度だ。なので、秘術を広めてもほかの人間が使えるようになるか否かは不明だ。けれど、子供や小動物だけでも――実際にネズミを狩ってくれる猫たちにもペストは発症するのだ――癒せるのならば、役立つことはあるだろう。
調べたところ、思ったよりも転生者が多いようで色々な発明品が出回っていた。助かったのが、グレイ侯爵令嬢が石鹸を広めてくれていたことだ。ペストの予防には衛生管理が重要だ。
昔、興味があって調べたことがあったが、中世のヨーロッパでは、とんでもない治療法が横行していたらしい。瀉血によって患者の血液を減らしたり、薪を燃やした煙で空気を浄化したりしていたらしい。
どうやら、ペストは瘴気のせいとか、腐敗した空気のせいだとか思われているらしい。
しかも、とある教徒の人は感染率が低かったらしい。それを不審に思った周囲の人間は『奴らが井戸に毒を入れたせいだ』と彼らを迫害したらしい。どこかで聞いたような話だ。人間の本質はそう簡単に変わらないものらしい。
実際は、彼らには食事や衛生面に厳しい戒律があり、それに守られたという説が有力だ。また、彼らは猫を飼っていたという説もあるそうだ。
猫、すごくない?さすが猫!可愛くて優しくて、その上、有能なんて!もう猫しか勝たないと思う。
閑話休題。確かにペスト菌の発見は十九世紀まで待たねばならない。だから、原因がなんなのかは彼らには分からなかったのだろう。けれど、私は原因が分かっているのだ。きっと役に立てることがある。グランバリエを救えなかった分、エンデルーゼでは役に立ちたい。例え、それが自己満足だったとしても。
それに、この国には初恋の人がいるのだ。できれば、彼に役立つ人間だと思われたい。
昔、叔母たちと一緒にグランバリエにやって来た彼に私は一目惚れをした。彼を『兄さま』と呼び、一緒にいたいから、頑張って追いかけまわした。彼はいつも優しくて私のことを『お姫様』と呼び、構ってくれた。
本当は彼と結婚したかったが、彼と私が一緒になっても、グランバリエにも公爵家にも益がない。だから、諦めた。けれど、もしかしたら……いや、もしかしなくても――彼は国の中枢に近いところにいる人だ――会えるかもしれない。
悪役令嬢症候群に発症した人のところを回ったが、皆好意的で協力を約束してくれた。面白かったのは『ヒロイン』よりも『悪役令嬢』の方が、話が通じる人が多かったことだ。まあ、ヒロイン症候群の人間は数が少なく、生存している人間はもっと少なかったから、判断材料は乏しいのかもしれないが。
陛下と叔母とゆっくり話ができたのは、この国に来てから五日ほど経った頃だった。アビゲイル叔母様に秘術を国外に出すことを相談したところ、賛成してくれた。秘術の話をしたことで、お二人の態度は軟化し、実に友好的に話を聞いてくれた。
途中、初恋の彼がやって来て嬉しかったのは束の間、面倒くさい事態になった。
昔のように『ルーカスお兄様』と呼び、親し気に振舞ってみたが、やけに絡んでくる。親し気に振舞ったのが気に入らないのか、それとも本人の気性か分からないが……ともかく鬱陶しい。
そんな気持ちを隠してニコニコしていたが、腹が立ってくる。
「それのことは、想像してはなりません!」
お前も阿呆かと思った。なんだ、あんた、明治生まれの日本人か何か?言霊なの?想像しなければ菌が死ぬって本気で言ってる?もし、そうなら、王太子は向いてないと思う。さっさと辞退すべきだと思う。その後、私と同じことを思ったらしき、叔母様に一喝されていた。胸が空いたのも束の間、殿下はへこたれなかった。
その後も殿下は頑なな態度を貫いていたが、陛下と叔母様はともかく柔軟な思考の持ち主だった。ペストが病原菌だと言っても伝わらないかもしれないとは思ったが、転生者の誰かが『菌』や『ウィルス』の存在を広めてくれていたおかげで割とすぐに話が通じた。
転生者たち、グッジョブだ!三日間では抗生物質を見つけられなかったが、再度探せば、どこかで見つかるかもしれない。
病原菌への抵抗力を高めるために、衛生面の強化を提案した私に反論したのは、やはり殿下だった。
「予防法としては、水を避けるべきだというのが通説です。有害物質が体内に入らないようにしなければなりません。毛穴が広がる入浴なんてもってのほかです。むしろ、油脂やパウダーで毛穴を塞ぐべきでしょう」
この言葉には、ものすごく引いた。グランバリエと違ってこの国は水が豊富だし、凍ることもない。もっと言わせていただけるなら、水魔法の普及でお風呂のお湯を溜めるのも難しいことではなくなっている。それなのに、水を避ける?お風呂に入らない?汚ギャルならぬ、汚王太子か!言われてみると、石鹸の匂いがする国王夫妻と宰相様、ジョシュア様と違って、彼からは少しすえたような臭いがする気が……。思わず椅子に座ったまま、後退る。ちょっとバランスを崩してしまったが、我慢ができなかった。
更に衛生面での予防の根拠を示すために、ジョシュア様が用意してくださった書類――石鹸普及前の罹患状況と普及後の罹患状況が知りたくて、王宮の図書室に行ったとき、偶然再会したジョシュア様が調査を請け負ってくださったのだ――にまでケチまでつけ始めた。
そんなにお風呂に入りたくないのか?と聞きたくなってしまう。お風呂を嫌がる5才児じゃああるまいし……。
それから、マスク――グレア侯爵令嬢が作ってくれたものだ――を紹介したところ、陛下は楽しそうにしていたが、王太子は胡散臭い物を見るような目でマスクを見た後、宰相が参考として用意したペストマスクに熱い視線を注いでいた。ペストマスクをいたく気に入っているようだが、何が良いのだろう?あの独特なフォルムだろうか?それとも、中に入る香料だろうか?
この三日間歩き回った際に、ペストマスクの中の薬を作っている人間に会った。彼に中身を聞いたところ、『死体からとった物質』や『あへん』、『蛇の肉』、『毒蛇の肉やエキス』、『ヒキガエルの粉末』などを入れるとのことだ。この薬を作るのも大変で『毒蛇』を捕ろうとして死んだ人もいるそうだ。しかも、薬のせいで体調が悪くなった人間も少なくないらしい。
確かにちょっと引くようなものまで入っている。ペストマスクは確かに顔全体を隠すので、ペスト医師のプライバシーは守られる。しかも目のところはゴーグルのようになっているから、飛沫の防護に関しては良いだろう。けれど、この少々奇妙なマスクを着け続けるメリットはそんなにないと思う。現代のマスクに、ゴーグルで十分だとおもうのだ。
それなのに、殿下はペストマスクにものすごく熱い視線を送り続けている。ペストマスクのなにがそんなに彼の心をつかんでいるのだろうか。もしかしてアヘン中毒なの?と疑いたくなってしまう。
私ができれば猫を飼った方が良いと提案したら「猫の世話を押し付けたいだけ」だと怒鳴り出した。確かに猫たちが安心して暮らせる場所がほしいとは思っていたが、世話を押し付けたいわけではない。叔母様の好意で猫たちと暮らせる広い屋敷も手配してもらったし――叔母様も猫好きだ――ともに長い航海を乗り越えた猫たちと私たちの間には絆も芽生えている。決して邪魔にはしていない。
どうして、私達が猫を持て余しているなんて結論に至ったのだろうか?本当に残念な殿下だ。
けれど、そんな頑なな殿下の心を解くきっかけとなったのは。世界で一番かわいい私のたまだった。たまはネズミを私の前に持ってくると愛らしく鳴いた。どうやら、私にくれるつもりらしい。我慢ができなかったようで、ネズミには尻尾がなかった。本当は全部食べたいところを本体は私にくれようとするのだから、たまは本当に優しい。
たまの浄化もしたいし、せっかくだから、陛下と叔母様に秘術を見せようと思って、浄化魔法をかけて見せた。陛下と叔母は期待に満ちた目で、殿下はつまらないものを見るような目で見ていた。
けれど、たまの可愛さが伝わったのだろう、ようやく彼の口から建設的な意見が出てきた。そうそう、たまは可愛いでしょう?と言いたくなるのをぐっと我慢して説明を続ける。
ようやく分かってくれたのかと思ったが、今度は『秘術があるのならばペストは怖くないのではないか』なんて馬鹿なことを言い出した。さっきはものすごくつまらないものを見るような目で見ていたくせに……。
しかし、ペストに罹った人間をすべて救うなんて、そんな魔法使いみたいなことが私にできると本気で思っているのだろうか?彼は私を貶したいのか持ち上げたいのか、よく分からない。
残念ながら私はどこまでも貴族の令嬢でしかないのだ。
しかし、王太子っていう職業は、面倒くさい人間しかなれないものだろうか?確かに地球でもペストの原因がペスト菌だと分かるまで、治療法は色々と迷走したらしい。今初めてペストの原因が『ペスト菌』だと説明しても信じられない気持ちは分からないでもない。
けれど、彼の提唱する説は何の効果も無いか、むしろ逆効果だ。
従来の治療方法ではペストの蔓延を抑えられないことはこの国の歴史にも残されている。だからこそ、陛下と叔母様は私の意見に耳を傾けてくれているのだ。
国主が私の案を採択しようとしているのだから、少しは黙っていてほしい。奴がいちいち、つっかかってくるから、話が進まない。何度「そうしたいなら、お前だけその方法をとっていろよ」と言いたくなっただろう。私、頑張って我慢したと思う。
しかし殿下はどこか歪で、頑なで面倒くさかった。アビゲイル叔母様は『婚約者ができない』と嘆いていたが、あれならば仕方が無い。多分、殿下も、そして私も春は遠いだろう。