1-3
「それで、どうして貿易を中止するというのです?」
僕の問いにオフィーリアはちらりと父を見た。父は頷いてオフィーリアの代わりに口を開く。
「オフィーリアが言うには『ほどなく、グランハルトでは黒死病が流行る』そうだ」
「父上!ご自身が何を口走ったか、理解されているのですか?それのことは、想像してはなりません!」
思わず声を荒げてしまう。そう、ペストを流行らせたくないのであれば、想像してはならない。これは、一般的に知られていることで、当然のことだ。
ペストは、感染力が高ければ、罹患した人間の死亡率も高い。発症した後は数日で死亡する、恐ろしい病気だ。発熱、脱力感、頭痛などから始まり、続いて脇の下や鼠径部などが腫れる。ひどいときは、拳大まで膨らむ。また、皮膚のあちらこちらが黒ずんで、壊死を起こすこともある。これが黒死病の名前の由来だ。
医師が必死で治療するも、一度流行ると、この病気はとんでもない被害を生む。治療方法も確立されていない。つまり、予防が肝心なのだ。だから、ペストのことは想像してはいけないのだ。これは識者も提唱している説で、別に僕が非常識なわけではない。それなのに、母はまるでゴキブリでも見るような目で僕を見ている。
「確かに、そう提唱する者もいるけれど。良いこと、ルーカス。想像しないというのは、何も対策しないということで、わたくしたちが取って良い方法ではないわ。しかも、この病に関しては確実な治療方法がないも同然よ。そして、確実な治療方法を持たない私たちと違って、リアは確実な治療方法を少なくとも、ひとつは持っているわ。そんな彼女の言葉はなにものにも代えがたいものよ……黙っていられないなら出て行きなさい。さあ、リア、座って。話の続きを聞きたいわ」
母はぴしゃりとそう言うと、オフィーリアに向き直った。正直、回れ右をして出て行きたいが、ことがことだ。この場に留まり続けなくてはいけないだろう。しかし、オフィーリアの持っている確実な治療方法とは何だろうか?もし、オフィーリアが知っているならば、確かに貴重な情報だ。けれど、オフィーリアは僕の知らない何を知っているのだろうか?悪役令嬢症候群を発症している令嬢の言うことなんて、個人的にはあまり信用できないと思うのだが……。
ジョシュアはどう思っているのだろうかと思いつつ、様子を窺ったら、ちゃっかりとオフィーリアの隣に座っている。どこまでも要領の良いやつだ。僕も空いている席に座ろうかと思ったが、空いている席は母と叔母の間だ。とてもではないが、座る勇気はない。
「ええ、アビゲイル叔母様。北の大陸は危険になります。エンデルーゼから船を出すのも、グランバリエからの船を受け入れるのも避けた方が良いでしょう」
「罹患したものがいないのであれば、受け入れは問題ないのはなくて?ペストが流行れば、食料が必要になるわ。良い取引ができそうだと思うのだけれど?確かに、有害物質が蔓延しているグランバリエに行くのは危険だけれど、向こうから来るのであれば問題ないんじゃないかしら?もちろん、わが国に上陸する前に、沖合で十日以上停泊してもらう必要があるでしょうけれど」
母の発言は、理性的だった。どうやら、オフィーリアの案を無条件で全て受け入れるつもりはないようで、少しだけ安堵する。
ペストは患者からうつるか、大気中の有害物質が鼻や口、皮膚から体内に入って罹患する。だから、母が言うように、僕たちがグランバリエに行かず、罹患していない者だけがこの国に来るのならば、特に問題はないだろう。どうしても、心配ならマスクをすればいい。それなのに母の言葉にオフィーリアは首を振った。
「いいえ、アビゲイル叔母様。ペストは腐敗した空気を吸い込むから発症するのではありません。ペストはネズミが保有している病原菌が原因で起こります。ペスト菌を保有したネズミの血を吸ったノミに人が刺されることによって、発症します。つまりノミを介して人にうつるのです。もちろん、肺ペスト……いいえ、ペスト患者の咳やくしゃみで罹患する場合もあります。もし、グランバリエからの船を受け入れた場合、船に乗っているネズミがこの国へ上陸するでしょう。あまりにも危険だと言わざるをえません」
「ペストは瘴気――腐敗した空気を吸い込むことで発症するのではなく、病原菌が原因なのね?ネズミが保菌者で、ノミが媒介する、ですって?それも天啓なの?それとも、魔法で知ったの?」
驚いたように母は口にするが、その態度は僕にしたものよりもずっと柔らかい。確かに、昔から女の子が欲しかったとは言っていたが、あまりにも差がありすぎではないだろうか?
しかし、『天啓』だって?母は先ほどから僕の意見を一蹴しているが、僕よりもオフィーリアの方が怪しい意見を述べている。『ネズミが保有している菌がノミを介して人に感染する』なんて聞いたことがないと思っていたが、『天啓』なんてとんでもないものがオフィーリアの言葉の根拠なのか。あまりにも自信満々に言うから騙されるところだった。
オフィーリアは悪役令嬢症候群ではなく、『ヒロイン症候群』ではないだろうか?このヒロイン症候群は悪役令嬢症候群の派生形の症候群だ。『悪役』がいれば『主人公』もいるものなのだろう。
ヒロイン症候群の症例は以下のようなものだ。悪役令嬢症候群に似通った部分が多々ある。
・『自分こそが、この世界のヒロインだ』と口走る。
・愛されてしかるべきだと思っており、そのような言動が目立つ。
・未来の出来事をあたかも見てきたかのように語る。
・身分の低い令嬢がほとんどのせいか、礼儀作法がなっておらず、貴族の令嬢としては不適格。
・なぜか、王太子や宰相の子息、騎士団長子息など、国の要人にストーカーの如くつき纏う。
・なぜか、接点が皆無なはずの身分の高い人間の情報に詳しい。
・『誰かに虐められた』など貴族の令嬢にあるまじきことを告げ口するが、大半は捏造。
・特別な力を持っていると喧伝する。
・神に愛されていると思っており、お告げを聞く人間が多い――これを『天啓』と呼ぶ――。
オフィーリアが『天啓』などと口走るならば、絶対にヒロイン症候群だ。悪役令嬢症候群よりも発症例は低いが、発症したら、悪役令嬢症候群よりも厄介だ。実際に、三年前、僕たちの前にとある男爵令嬢が現れたが、これがまた、ひどかった。はっきり言うと、やべー奴だった。
『あなたの気持ちは分かるわ』、『辛かったのね』と顔を合わせれば――そもそも、顔を合わせるのも異常な事態だ――まるでオウムのように繰り返す。いや、僕たちの何を知っているんだ?正直言って僕はお前のことは全く分からないけどな、常々そう思ったものだ。
なぜか、僕やジョシュアに愛されていると思い込んだ彼女は『ドレスを贈れ』、『ファーストダンスを踊れ』と僕たちにつき纏い、果ては王宮にまで忍び込んできた。しかも、彼女はどこまでも自分が正しいと信じ込んでいた。正直、恐怖だった。彼女はここじゃないどこかを見ていて、こちらを見ているはずなのに、目が合わない。
しかも、天啓を受けたと大騒ぎするも、何ひとつ当たらない。外れまくった。更にハーパーに虐められたと泣きついても来た。彼女曰く「ハーパーは嫉妬している」そうだが、そんなわけがあるはずがない。ハーパーとはもう何年も会っていないし、彼女は僕に係り合いになりたくないと思っているはずだし、なによりも下位貴族である男爵令嬢と高位貴族のハーパーに接点なんか何もない。もちろん、冤罪だった。
正直、僕はがっくりときた。ハーパーの言う『運命の相手』を期待していたわけじゃない。いや、少しはどんな人間だろうという興味があったことは否定はしない。けれども、これはない!
ハーパーよ、こんなやべー奴に僕が惚れると本気で思ったのか?しかも、こんな奴の言葉を信じて君を断罪すると本っ気で思ったのか?本当にそう思ったなら、正直、しんどい、としか言いようがない。結局、男爵令嬢は不敬罪で毒を煽ることになったが、彼女は最期まで変わらなかった。
オフィーリアも『ヒロイン症候群』か……。『悪役令嬢症候群』の方がまだましだ。絶対に、彼女を信用してはならないだろう。彼女の知っている『確実な治療方法』だってどこまで信用できたものか……。僕だけは絶対にオフィーリアを疑ってかかろう。
しかし、何故両親はオフィーリアの言葉を疑わないのだろう?例の男爵令嬢の時に一緒に怖い思いをしたじゃないかと詰め寄りたい。
僕の視線に気づかないのか、オフィーリアは僕のことを意にも介さず、言葉を続ける。
「予防も大事です。もちろん『ペストのことを想像しない』などという抽象的なものではありません。身体を清潔に保つというのがそれです。幸い、この国にはグレア侯爵令嬢が広めてくださった『石鹸』がありますので、それを使うと良いでしょう。特に手洗いは特にこまめにしてください。外出した後は必ず手を洗うことをお勧めします」
「まさか、それを信じるおつもりですか?予防法としては、水を避けるべきだというのが通説です。有害物質が体内に入らないようにしなければなりません。毛穴が広がる入浴なんてもってのほかです。むしろ、油脂やパウダーで毛穴を塞ぐべきでしょう!」
大声をだしたせいか、座っていたオフィーリアの身体がふるりと揺れ、身体が傾いた。長旅をしてきて、疲れているだろう女性に対してとるべき行動ではなかったかもしれない。けれど、通説を全く無視している彼女の言葉を何の根拠も無しに受け入れられない。
そうは思うものの、青ざめた顔をしているオフィーリアを見て少しだけ申し訳なくなる。まだ、顔が青いのに、オフィーリアは気丈にも先ほどジョシュアから受け取った書類を僕に見せてくれた。その指先は少し震えていた。
「これは石鹸の頒布後と頒布前の病気の罹患状況です。石鹸を使うようになって、病気になる人間がグッと減ったことがお分かりになるでしょう」
書類をめくってみたが、確かにオフィーリアの言う通り、石鹸が広まった後は殆どの病の罹患者が少ない。まさか、偽造したのではないかと、ジョシュアを見た。僕の思っていたことが伝わってしまったのか、目が合ったジョシュアは今までにないほど、冷たい目をした。
「私の仕事が信用できないと仰せですか?私は今まで、この国のために尽力してきたつもりです。馬鹿にしないでいただきたい。……殿下が本気でそうお思いなら、いつでも私を切っていただいて結構」
「すまない。今のは僕が全面的に悪かった」
素直に頭を下げたが、ジョシュアはまだ頭に来ているようで、僕の方を見もせず、静かにため息をつくだけで何も言わなかった。
「ルーカス、長年そばに仕えてくれる人間が信用できないのであれば、お前は王に向いておらん。確かに無条件で他者を信用せよとは言わんが、これと決めた人間を信用しなければ、誰もお前にはついて来んだろう。お前の今の態度はジョシュアを傷つけた。挽回するのは容易ではない。……ジョシュア、愚息がすまなかったな。お前が望むなら、ルーカスから離れることも許可しよう」
ジョシュアの代わりに口を開いたのは父で、あろうことか、国王たる父まで頭を下げた。確かに今の僕の態度は褒められたものではなかった。再度「すまない」と言ったら、ようやくジョシュアは僕の方を見た。
「挽回してください。次はありません」
「ありがとう」
礼を言うと、少しだけだが目元が緩んだので、ホッとため息をついた。それも束の間、僕の頭にいきなり固い物がぶつかってきた。驚いて飛んできた方を見たら、我慢できなかった母が僕に扇を投げつけていた。
「いい加減になさい、本当に次は追い出すわよ」
母の低ーい声が響く。けれど、オフィーリアの言うことは全て通説を否定しているモノばかりだ。もしかしたらオフィーリアは通説を知らないのかもしれない。それなら、余計に黙ってはいられない。けれども、ここで追い出されてしまっては監視の目がなくなってしまう。僕は渋々と頷いた。僕が不満に思っていることが伝わったのか、母は、ふんっ、と鼻息を荒くしながら、再度扇を投げつけてきた。
なぜ二本目があるのかとびっくりしたが、母の隣でニヤニヤしている叔母の手には扇がない。そうか、これは叔母のものか。肩を落としている僕にジョシュアが近づいて来た。慰めてくれるのかと思いきや、ジョシュアは落ちている扇を拾うと、軽く埃を払った後に母と叔母に恭しく差し出した。仕方が無いとはいえ、僕にはひと言もなかった。
そんなギスギスしている空気の中でもオフィーリアは怯まず話を続けている。さっき、僕に怒鳴られて震えていたのは気のせいだったのだろうか?ヒロイン症候群の患者は本当にやべー。
「また、病気の方に近づくときは、マスクをつけると良いと思います」
僕のことを完全に無視しながら、オフィーリアは四角い布に横から紐が出ていて、それが輪になっているモノを取り出した。こんな心もとないものが本当に役立つのだろうか?
ペスト医師が患者に接するときに使うマスクは顔全体を覆う。香料を入れるために、鼻のあたりにまるで鳥の嘴のようなものが伸びている。この嘴の先には香料や薬を入れる。強烈な匂いのする物質がペストの予防に役立つと言われている。それなのに、この布切れでは、どこに香料を入れればいいのか分からない。布に塗り込めるのだろうか?それはちょっと辛いだろう。わが国の薬は、アヘン剤や毒蛇のエキス、ヒキガエルの粉末などを使用しているのだから。
ここで異論を口にすれば今度こそ追い出されるだろう。しかし、どうにも気になる……。
「ふむ、これはどのように使うものなのだ?マスクには香料を詰める必要があると思うのだが……どうだね?」
僕の代わりに父が質問してくれたので、少しホッとした。オフィーリアは微笑んで、手元の布を装着した。輪のところを耳にかけて、鼻と口を隠すようにつけるようだ。オフィーリアはその状態で話し始める。
「先ほど申し上げましたように、ペストはノミを媒介して罹患します。なので、空気洗浄のために香料を入れる必要はありません。また、罹患した人間の咳やくしゃみなどの飛沫感染でもうつることがあります。このマスクで口を覆えば、ある程度の予防はできます。これはペストだけでなく、他の感染症にも使っていただけます、一日使ったら洗ってください。また、目からの感染を防ぐためにも、ゴーグルも併用するとより良いです」
「ふむ、確かにこれならば簡単に量産できそうだ。しかも別途、薬や香料を作らないのも良い」
父はそう言ってマスクで口を覆った。そうして、なにが楽しいのか、ほっほっ、と笑った。
「できれば、各家は猫を飼った方が良いと思います。できれば一家に一匹。幸い猫はたくさん連れてきました」
「いや、それは猫の世話を押し付けたいだけだろう!」
僕がそう叫んだ瞬間、トッ、と軽い音がした。また、扇を投げられたかとひやりとしたが、音の先には綺麗な毛並みの黒猫がいた。こんなところにどうして?と思って猫を見たら、口になにやら咥えていることに気づいた。よくよく見ると、それは毛がふさふさした丸いもの――つまり、ネズミだった。黒猫はすたすたとオフィーリアの前に行くと、ネズミをぽとりと落とした。そうして、褒めてくれと言わんばかりに「なぁ~ん」と甘えた声を出した。
オフィーリアは黒猫に微笑んだ後、ごにょごにょと小さく何かを呟き、黒猫に向かって手を伸ばした。オフィーリアの手からキラキラした光が出て猫を包む。恐らく、あれは何かの魔法だろう。オフィーリアも魔法を使えるのか。それならば、中々に稀有な存在だ。しかし、彼女が使った魔法は猫を一匹包めるくらいの光しか出なかったので、そこまで大きな魔法ではないのかもしれない。
最近では魔法を使える人間は減っている。例え、使えたとしてもそんなに大掛かりな魔法は使えない。先ほどのオフィーリアのような、小さな魔法が殆どだ。そう、竈に火をつけたり、コップ一杯の水を出したり、そよ風を起こしたりがせいぜいだ。
魔法使いと呼ばれる存在もいるにはいるが、一国に一人いるかいないかだ。しかも、魔法使いに依頼するには結構な金額が必要になる。
「良い子ね、たま。よくやったわ」
オフィーリアは優しく話しかけると猫を抱き上げた。そうして、落ちているネズミを見て「あらあら、尻尾は食べちゃったのね」と猫を撫でた。猫はオフィーリアの手が気持ちいいのだろう、目を細め、そのうち、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
オフィーリアは足元から、金属でできた、長細いものを取り出した。それは五十センチくらいの長さでU字型のようになっている。オフィーリアはそれを使って器用にネズミを拾った。
「このように猫はネズミを捕ってくれます。愛らしいし、役に立つなんて猫って素晴らしいと思いません⁉」
おかしな金属でネズミを掴んだまま、オフィーリアは目を輝かせた。オフィーリアの手の中の猫は不安定な体勢だろうに暴れることなく、オフィーリアの手の中に納まっている。その顔はどうだ、と言わんばかりに誇らしげだ。僕の視線に気づいたのか、オフィーリアは赤くなって俯いたが、すぐに気づいたように、説明を始めた
「これはトングと言います。ネズミや野生動物の死骸は素手では触らないようにしてください。その死体から感染することもあります」
「君の説明を聞いていて思ったんだが……。君の言う通り、ネズミが菌を保有していて、ノミが媒介するなら、危険なのは猫もじゃないのか?君の猫はネズミを食べてしまったようだが、それは大丈夫なのか?」
ジョシュアが用意した袋にネズミの死骸を入れていたオフィーリアは僕の質問に、初めて笑顔を向けた。
「ええ、ルーカスお兄様の仰る通りです!たまの心配までして下さってありがとうございます!仰る通り、猫や犬もペストに罹ります。そして犬や猫が媒介して罹患することもあります。けれど、先ほど私が魔法を使ったのをご覧になったでしょう?あれはグランバリエの秘術の『浄化の魔法』なんです。だから、先ほど、たまを浄化したので、大丈夫です」
秘術という言葉に僕は息を呑む。この世界には魔法がある。魔法は僕たちの日々の暮らしを助けてくれる。つまり、殆どは生活魔法だ。
けれど、魔法の中には奇跡のようなものがある。大けがをたちまちのうちに癒してしまうものや。泉を作るもの、結界をはるものや、とんでもない程の風や炎を生むものなどだ。大体において、それほど強い魔法を知っている者は国を興し、王となった。彼らは自分の地位を脅かされないように自分たちの魔法を秘匿した。秘術は国の宝で、防御の要でもあるが、失伝してしまっている国も少なくない――もちろん失伝してしまっていることは公表されないが。わが国にも秘術はあるが、グランバリエのものほど価値が高いものではない。
確かにオフィーリアは王太子の婚約者候補だったが、秘術まで習っていたのか!よくもまあ、グランバリエは秘術を体得した人間を国外に出したものだ。しかも、浄化の魔法には値を付けられないほど貴重なものだ。あぁ、だから両親はオフィーリアの言うことを聞いていたのか。
しかし、オフィーリアが本人の申告通りに浄化の魔法を会得しているなら、この話し合いは不要だろう。なにか裏があるんじゃないだろうか?僕は嘘を見過ごさないように、彼女の顔色を窺う。
「それなら、ペスト患者が出ても問題ないんじゃないか?」
僕の質問にオフィーリアは悲し気に首を振る。
「いいえ、この魔法は魔力をとても使うのです。私の力では、数十人程度が限界です。小動物になら、数百匹はいけるとは思うのですが……。浄化魔法は身体全体にかけないと効きません。この秘術をこの国の方にお伝えすることはできますが、人まで癒せる人は少ないでしょう。けれど小動物を癒せる人ならば割と見つかると思うので、猫たちは大丈夫だと思います」
なにやら溺愛している彼女の猫が無事ならばいいのだが……と思って、絆されかけていた自分に気づく。いやいや、彼女は悲し気な顔をしていることが気になったわけじゃない。彼女の有用性に気づいただけだ!……そうに違いない。
「そうか、それは良かったけれど……、グランバリエの秘術を公開しても良かったのかい?」
僕の言葉に、母と叔母、オフィーリアは息を呑んだ後にうなだれた。三人は暫くうなだれていたが、暫く経つとオフィーリアだけが頭を上げた。そうして、父と僕、宰相とジョシュアを真っ直ぐ見つめた。
「王妃様と母と、三人で話しました……。グランバリエはもうおしまいでしょう。ならば、この魔法も失われてしまいます。それは人の世にとっては損失でしょう。できれば、この国に役立てていただきたいのです」
そう言ったオフィーリアは実に美しかった。彼女の緑色の瞳が輝いていて、思わず見とれた。あぁ、そうか。父や宰相が彼女を信じたのは秘術ですら公開する、彼女の在り方を信じたからに違いない。
「ルーカスお兄さ……ルーカス殿下は私が悪役令嬢?とかなんとか仰っていましたが、『悪役令嬢』でも『ヒロイン』でもなんでも構わないのです。私には情報があって、誰かを救う術を知っている、それならば動くのは当然です。だからといって対価を求めるつもりはありません。どうか、信じてはいただけませんか?」
オフィーリアの声も、瞳もどこまでも、まっすぐで、清らかだった。ハーパーとも男爵令嬢とも全く違う彼女の在り方はとても眩しく映った。それなのに、自分の猫を褒めるときの笑顔は無邪気で、どこかアンバランスで、魅力的だった……。何故か、心臓がどきりと鳴った。