ツメトギ
猫が爪を研ぐ行為には、色々な理由があると言われている。
まず、爪を鋭く保つため。
これは地面と高所を頻繁に行き来する猫の習性からも、爪を鋭く保つのは滑り止めとしての意味が大きい。
2つ目は、マーキングをするため。
猫の肉球には臭腺という臭いを分泌する器官があり、爪を研ぐ行為を行うことによって肉球の臭腺の分泌液を擦り付けている。
3つ目は、リラックスや気分転換などのため。
猫だからと言って、ストレスが無いわけではない。
猫たちにも猫たちなりのイライラや緊張のある世界で生きている。
4つ目は、何かの気を引こうとしているため。
飼い主の近くや見えるところで爪を研いだりするのは、遊んで欲しいなどの自己アピール。
大半の人が猫を飼い始めてまず最初に教えることは、トイレと爪トギの場所だ。
初めて子猫ちゃんを買った時は、トイレしか教えなかった上に、元々暴れん坊だったのかあらゆるモノをズタボロにした。
専用の部屋を用意したら多少被害が減ったものの、やはりそこら中をボロボロにしている。
初めの子が大きくなり、多少なりとも大人しくなってきたので新しい子をお迎えした。
この子は大人しくてとても賢かった。
だが、すぐに家から脱走しようとするので、できる限りゲージに入れておくしかなかった。
そのゲージすら抜け出そうとするので、困った子だ。
一度でも飼い始めると、次から次へと増やしてしまう人の気持がわかる。
本当にかわいいからだ。
あと、家に帰ると誰かいるのは嬉しいものだ。
そうそう、飼っている子の名前は、アイとメグだ。
最初の子がメグで、次の子がアイだ。
本当はアイコとメグミという名前だったんだけど、一緒に暮らしていく内に省略してしまうのはよくあることだ。
大人しいメグと、やんちゃなメグを引き合わせるのは少々緊張したが、いざ対面させてみるとなんてこと無い。
すぐに打ち解けて一緒ご飯を食べる仲にまで進展した。
余程気が合ったのか、事あるごとにアイとメグは一緒に居たがった。
相変わらずメグは暴れん坊なので専用の部屋から出すことは出来ないが、アイに対しては大人しくなるみたいだ。
そんなアイも、毎日メグの部屋の前で「入れてくれ」とおねだりをしてくる始末だった。
最近、暑さのせいかメグの様子がおかしい。
突然暴れだしたり、いつも以上に部屋の壁をガリガリ引っ掻いている。
心配なので様子を見ようと近づくと、すぐに逃げられてしまう。
それでも近づこうとすると、盛大に引っ掻かれてしまう。
おかげで生傷が絶えない。
昔からよく暴れる子だったので、少し様子をみてみようと思う。
これがいけなかった。
様子を見ようと考えた次の日から、仕事が忙しくなってしまい、メグを気遣う余裕がなくなってしまった。
1週間後に仕事が一段落したので、メグの様子を確認してみたが、落ち着いた様子だった。
私が顔を見せると、安心したのか眠りについた。
私は起こしては可愛そうだと思い、そっとご飯を置き、その場を立ち去った。
次の日、アイが早朝からないている声で目が覚めた。
私はどうしたのかと思い寝室から階下に降りると、メグ
が冷たくなっていた。
アイの傍を離れたくないかのようにアイが悲しそうにないている。
メグと出会ってから13年になる。
私の目から涙が自然と溢れてきた。
私はメグの亡骸を、実家の裏山に埋めてあげた。
山林に埋めるとイノシシやタヌキなどの野生動物が掘り起こしてしまうと聞いていたので、実家で使用していた重機を使って深めに埋めてあげた。
これで掘り返されてしまうことは無いだろう。
キチンと向き合えなくなってしまう様な仕事は辞めようと決心し、私は転職した。
転職先は、前職の資格を生かした都内の企業だった。
私は実家を出て、都内に引っ越しをした。
もちろん、アイは連れて行く。
実家になんか置いておけないからだ。
新しい就職先ではパソコンを使った作業で、在宅勤務がメインだった。
これでいつでもアイの事を見てあげられるのはありがたい事だ。
私はアイとの生活を楽しんだ。
アイは本当に賢い子だ。
私が呼ぶと傍までやって来るし、仕事中などは大人しく待っている。
ご飯もよく食べてくれるのが何よりも嬉しい。
ただ、脱走癖が未だに治らないのは困ったものだ。
だが、カワイイ事には変わりない。
私はメグの分までアイに沢山の愛情を注いだ。
外では少し気の早いセミがなき始めている。
もうすぐ、7回目のメグの命日だ。
メグとの生活を思い出してしまうので、実家を出てから一度もお墓参りをしていなかった。
もう7年も経つ上に、いつまでグジグジしているのだと考え、久しぶりに実家に帰ろうと決心した。
実家は今も昔もあまり変わらなかった。
どうやら最近まで近所のお年寄りが手入れをしてくれていた様だ。
私は手入れをしてくれていた方にお礼を述べようと思ったのだが、去年の春に亡くなられたそうだ。
元から過疎化が進んでいた地元だ。
子どもはもう一人もおらず、老人ばかりが細々と生活しているだけだそうだ。
これから徐々に人が居なくなり、最後には誰も居なくなっててしまうだろう…
私は寂しくなるなと思ったが、早々に都内に出て行った奴が何を言ってんだ。と一人、苦笑いを浮かべた。
その後、メグのお墓参りに行った。
普通のお墓とは違うので、辺りには草が生い茂り鬱蒼としていた。
私は一度実家へと戻り、納屋からナタと草刈り鎌を取り出した。
ナタを使い枝を落とし、錆で切れ味の落ちてしまった鎌を必死になって振るった。
汗だくになりながら作業をして、昼過ぎまで掛かってしまったがなんとか周囲を綺麗にする事が出来た。
私は上々な成果に頷き、少しの間手を合わせた後に実家へと引き上げた。
実家は内観も昔と変わらなかった。
私は玄関、居間、台所、寝室と見て回った。
回っていると、メグとの思い出が蘇ってくる。
私は鍵のかかった部屋の前で立ち止まる。
ここは私が大人になってから改築した書斎という名の秘密基地兼、メグとの思い出の部屋。
ガチャリと鍵を開けて部屋の中に入る。
ムワッとした、ホコリとカビの充満した臭いに、私は激しく咳き込んでしまう。
私はとりあえず電気を付け、換気扇を付ける。
ここはメグとの思い出の場所。
部屋の壁は、メグが引っ掻いたり暴れて出来た傷が所狭しと付いている。
多少暴れん坊だったけど、長年一緒に暮らしてきた。
今でもメグとの日々が鮮明に思い起こされる。
仕事は基本的に在宅勤務だし、月に1回ある定例会議に顔を出せば良いだけなので、実家でも十分仕事が出来そうだ。
そうと決まれば善は急げだ。
私は秘密基地の部屋に再び鍵を掛けると、車に飛び乗り都内の自宅へと帰路を急いだ。
実家へと戻る為に荷造りをしていると、公園で近所の男子小学生が子猫ちゃんをいじめているのを見つけた。
私は小学生を叱りつけた。
いじめられていた子猫ちゃんは、恐怖で震えていた。
私は抱きしめた。
子猫ちゃんはまだ震えている。
私は震えが止まらない子猫ちゃんを、抱きしめ続けた。
長く感じたが、実際は3分くらいだろうか、震えは止まっていた。
私は子猫ちゃんをそっと抱きかかえ、実家に連れて帰ることにした。
視線を感じたので振り返ると、いじめていた小学が不安そうな目で私を見つめていた。
そんな顔をするなら、初めからいじめなければ良いのに
私は車に乗せると荷造りを早々に済ませて、実家へと車を走らせた。
実家に着いてからも、いじめられていた子は震えていた。
きっと人間が怖くて仕方ないのだろう。
私は優しく声を掛ける。
「大丈夫だよ、心配ないよ。」
それでも、恐怖で震えていた。
とんでもない怖い思いをしたに違いない。
私はめげずに声を掛け続ける。
「怖くないよ、大丈夫だよ。」
優しく声をかけるが、少しでも近づくと部屋の隅にうずくまって震えている。
優しく接していたら、いつか通じ合うと信じている。
早く仲良くなって、遊びたいものだ。
日記はここで終了している。
「クソ野郎が…」
オレは床に黒い模様がまばらに広がっている部屋の中で、そう吐き捨てる。
オレがいるのは、廃村となった集落にある崩れ掛けた一軒の平屋の中だ。
裸足の女性と女の子が交番に駆け込んで来たのが全ての始まりだった。
「助けてください、監禁されているんです。」
女性は悲痛な表情でオレにそう告げた。
オレは余りにも突飛押しのない女性の発言に、頭が回らなかった。
「まずは、落ち着いてください。」
そんな言葉しか出なかった。
「もう大丈夫ですので、何があったのか詳しく話してください。」
興奮状態なのか、女性は大きく肩で息をしながらこれまでの事を語り始めた。
自分はアイコと言う名前だということ
十数年前に誘拐されたこと
家に連れ込まれるとそこには少し年上のメグミという女性が居たこと
そのメグミが死亡すると都内に連れて行かれたこと
最近になってこちらに戻ってきたこと
その際にこの女の子も連れて来られたこと
スキを見て男を刺して逃げてきたこと
などを一気に話した後、アイコと名乗った女性は何かの糸が切れたかのように大きな声を出して泣き始めた。
オレは無線ですぐに県警本部に、今聞いた話を報告した。
小一時間程で応援の人員が乗った車輌が複数台来た。
女性と女の子を婦警に託すと、オレは駆け付けた警部補に事の顛末を全て話した。
警部補はまさかこんな田舎で…と驚愕したが、すぐに女性が語っていた現場の家へと人員を向かわせた。
オレは引き続き交番での勤務を命じられた。
『連続少女誘拐監禁事件』
過疎化の進んでいた限界集落と、都内に渡って起こった拉致監禁及び死体遺棄事件。
被害者は3名。内1名は死亡。
“スギウチ・アイコ”さん24歳(保護当時)
“未成年の為、氏名非公表”11歳(保護当時)
“タチバナ・メグミ”さん25歳(死亡時)
加害者所有の山で白骨化した姿で発見される。
加害者は会社員の“ハシグチ・コウヘイ”57歳(死亡時)
発見場所は、被害者の一人であるタチバナ・メグミさんの遺体が遺棄された地点の直上
加害者の身体には、腹部への刺傷と全身に及ぶ人間の爪によって付けられたと思われる無数の引っ掻き傷
被疑者死亡。
世間に公表された事件の概要だ。
だが、本事件には続きがある。
事件から数年後の夏のある日
オレは加害者の家の中を歩く。
玄関、居間、台所、洗面所、寝室。
よくある田舎の平屋だが、1つだけ他とは違う場所がある。
それはこの寝室にあるタンス。
2段目の左奥にある突起を押し込む。
タンスを横から押すと、駆動部が錆びているのかギチギチと音を立てながらスライドしていく。
「ここか…」
そこには扉が存在していたが鍵が掛かっている。
「……」
オレは被害者の一人であり、事件後は友人として付き合いのあるアイコさんから渡されていた鍵を取り出し使用した。
ガチャッと鍵が解除され扉が開くと、そこには地下へと続く階段が現れた。
オレは事前に用意していた懐中電灯を取出し明かりをつけた。
長い間閉鎖されていたからか、とてもカビ臭い。
首から掛けていたタオルを口に当てながら階段を降りると、少し広めの空間に辿り着いた。
その空間は夏とは思えない位にひんやりとしており、少し肌寒いくらいだった。
床にはホコリを被ったおもちゃや、綺麗に調えられた寝具などが置かれていた。
「ここでアイツは女の子を監禁していたんだな」
一通り見て回ったが、家具や玩具が転がっているだけだった。
「何かわかるかと思ったが…」
オレは諦めて上への階段へ向かった
ピチョン…
どこからか水の滴る音が聞こえる。
地上の建屋が朽ちて久しいことあり、どこかで水が滲み出ているのだろう。
ピチョン…ピチョン…
先程とは違う方向から音がする。
ピチョン…ピチョン…
また違う方向から音がする。
ピチョン…ピチョン…
どうやらクローゼットがある奥の方から聞こえる様だ。
もしかしたら、まだここ以外にも隠し部屋があるのかも知れない。
そう思いクローゼットに近付く。
ピチョン…ピチョン…
水が滴る音は、確実にこの裏からだ。
オレはクローゼットを横から押してみる。
クローゼットはゆっくりと動き始める。
ピチャ…ピチャ…
夏だからか、少し微温い水が肩に触れる。
いや、いくら夏だからって水が微温い訳がない
オレは自分の肩に手をやり指先に付いた液体の色を確かめる。
液体は透明で、やはり水の様だ。
ふぅ…と安堵する。
水が染み出している場所を照らして見る。
そこには大きな岩が鎮座しているが、小さな傷やヒビがありそこから水が滲み出ているようだ。
だが、よく目を凝らしてみると、自然に出来た傷ではない。
「どうみても不自然過ぎる。」
一部の傷から液体が滲み出ているようだ。
「なんだか文字として読めそうだな」
冗談半分で独り言を呟く
「タ、ス、ケ、テ」
「助けて」
これは監禁されていた女性によって付けられた傷だ。
ところどころに赤い血のようなものや、壁を引っ掻く時に付着したであろう指の肉片と思われるものが怪しく光を反射している。
「ナ、ソ、デ、ワ、タ、シ、ダ、ケ」
「なそでわたしだけ?」
いや、これは傷をつけた人の書き方の癖なのだろう。
「なんで私だけ」
懐中電灯が声と合わせるかの様に点滅をする。
倉庫から引っ張り出して来たので、やっぱり電池が弱っていたみたいだ。
オレはスマホを取り出し、カメラを起動する。
長年使い過ぎたせいか、カメラを起動しないとライトが点いてくれないのだ。
「ア、イ、ッ、ユ、ル、サ、メ、イ、ニ、ク、イ、ニ、ク、イ」
「あいつ許さない憎い憎い」『ニクイ』
三文字目のッが多少読みづらいが、これは加害者への恨み言だろう。
オレは周囲の壁を照らして読めそうな傷を探してみたが、どれもこれも単なる傷だった。
文字として読めそうな傷を全て読み上げると、この部屋を出るべく階段へと向かった。
ピチョン…ピチョン…
相変わらず水の滴る音が響く
こんなに水漏れしているようでは、この建物の倒壊も近いな。
ピチョン…ピチョン…
今度は側面からも漏れ始めた様だ。
ピチョン…ピチョン…
こんなに次々と水が滲み出ているということは、もしかしたら今すぐにでも倒壊してしまうのではないだろうか?
そう考えると、自然と歩みも速くなってしまう。
ピチョン…ピチョン…
地下室から出るための階段の前で、オレは一度振り返った。
この建物で行われていた悲劇の中心であるこの地下室を忘れないために…
ピチョン…
地下室を出ると、非応答着信が次々と通知される。
どうせ上長のお小言だろうと辟易しながら、折り返しの電話を掛ける。
「すみません、ちょっと電波の入らないところにいました。」
田舎なので、電波が入らないことが頻繁にあるので、電話に出なかった時の言い訳には絶大な効果を発揮する。
「いや、別に構わんが。一応お前にも伝えておいてやろうと思ってな。」
「なんでしょうか?」
「スギウチ・アイコさんが事故で亡くなられた。」
「そんな…」
「詳しい情報は、まだ我々にも入って来ていないのでわからないが、どうやら仕事中の不慮の事故だった様だ…」
「そう、ですか…」
オレはその後、電話で何を話し何を聞いたかはあまり覚えていない。
建物の外に出ると、どうやら通り雨があったようだ。
通りで地下室の水漏れが凄かったわけだ。
オレは雨によって気温が下がったのか肌寒さを感じながら、晴れ渡った青空の下大きく背伸びをした後に帰路についた。
後日、アイコさんの事故の詳細が風の噂程度だが判明した。
彼女は事件後、カウンセリングを受けながら勉強を頑張り、見事に難関の大学に合格し大学院まで行った。
卒業後は研究員として大手薬品会社に就職。
彼女は殺虫剤の研究をしていた。
事故は深夜に起こったらしい。あくまで予想である。
警備員の証言によると、閉業後の一回目の定時巡回の際には特に異常は見られず。
研究室の一室の電気が点灯していたが、研究に没頭してしまい徹夜で残業という事が研究員にはよく見られていたのでいつもの事かと思い、一言声を掛けて防災センターで何かあっても良いように待機していた。
異常を発見したのは、午前4時の定時巡回の時。
研究室の電気が点いていたが、この時間帯になると寝落ちをしている場合が多いため、確認としてノックをしてみるが返事がなかったので入室した。
本來は警備員の研究室へ入室は、情報機密の意味もあり禁止されてるが、寝落ちした研究員を起こすなどの行為は黙認されていた。
当の警備員も寝落ちだろうと思い入室したが、泡を吹いて倒れているスギウチ・アイコさんを発見し、すぐに通報したが既に事切れていた。
捜査・鑑識の結果としては、新商品として開発していた殺虫剤が研究室内で暴発し、室内を殺虫成分が充満したことによる窒息死。
殺虫成分によるものか、遺体の肺の内側は出血によって血がこびり着いていた。
通常、こういう事故に対処するための換気システムがあるはずだが、何故か使用された形跡はなく、異常も見つからなかったそうだ。
遺体は窒息死ということもあり、苦しみから体中を掻きむしった後が多く見られた。
その中でも一番深く引っ掻かれた傷は、ユルサメイとも読める傷だったそうだ。