第40話 お湯の中で
バシャアアア
桶に入れた湯がイリーネの身体に掛かり、床に流れていく音がする。
それを岩の陰で息を殺して耳を澄ませる僕。
け、決して覗きをしているのではない。
何とかしてイリーネにバレずにここから出て行く方法を必死になって考えていた。
「ふぅ~、さっぱりしたぁ~」
イリーネが立ち上がり、ひたひたと湯船に向かって歩く音がする。
そしてふちに腰かけるとゆっくりと足から湯に浸かっていった。
「んん……久しぶりの湯船……気持ちいい……」
イリーネは肩まで浸かるとそう呟いた。
僕とイリーネの距離は、およそ4メートルほどだ。
結局僕は、出口まで超スピードで移動することを諦めていた。
今はただ、イリーネがこちらに来ないよう、祈るしかない。
パシャパシャとお湯をもてあそぶイリーネの無邪気な声が聞こえる。
ここで僕はひとつ重大なミスに気が付いた。
さっきからずっと岩に張り付く姿勢で身動きひとつしていない。
つまり、身体の大半は湯に入っておらず、寒さで体が小刻みに震え始めていた。
このままでは風邪を引いてしまう。
僕はゆっくりと湯船の中に身体を沈めていくが、その途中で唐突にイリーネが立ち上がった。
その水音に驚いて僕はバランスを崩してしまう。
バシャン!
「え?」
イリーネがこちらに注目しているのがわかる。
聞き耳を立てているのだろう、僕は不自然な体勢でぴたりと止まった。
「だ、誰か入ってるのかな……今日は貸し切りって聞いてたけど……」
イリーネはゆっくりとこちらに向かって歩き出した。
このままでは鉢合わせしてしまう。
僕もイリーネの対極になるよう、じわじわと岩の周りを移動する。
岩の裏を恐る恐る覗き込むイリーネ。
そして誰もいないことを確認する。
「いない……よね……」
イリーネは安堵のため息を着くと、元の位置に戻っていった。
僕も見つからないよう、再び元の位置に戻ろうとするが途中、岩の感触にむにゅっと違和感を感じた。
よく見ると僕が手を置いた岩の一部に、5センチほどの大きさのトカゲが数匹、たむろしていた。
そのうちの1匹が僕の手から腕を這い上がってくる。
「う、うわあっ!」
バッシャァァァン!
「ひゃあぁ!!」
僕の叫び声と水音に驚いたイリーネが悲鳴を上げる。
「な、なに!? なに!? なにかいるの!?」
僕は仰向けに潜った湯から顔を上げると、そこには目を丸くしたイリーネが僕の前に立っていた。
髪をまとめたタオル以外は何もつけていないイリーネの、産毛も生えていないような真っ白な肌が目に焼き付いてしまう。
「あ、あ、あ、アルノー様ぁ!?」
「い、イリーネ! あ、あの……」
「ひゃぁぁぁぁぁ!」
ドン!
バシャアァァン!
イリーネの突き押しで僕は再びお湯の中に沈められた。
慌てて湯から顔を上げ、イリーネに謝る。
「あ、あの、イリーネ」
「あ、あ、アルノー様、入っていらしたのですね……気付かずに申し訳ありません!」
イリーネは限界までお湯に浸かった状態で僕に背中を向けている。
そして首だけをこちらに向けて僕を見た。
「あ、アルノー様、み、見ましたか……?」
「えーと、うん、ごめん……」
イリーネは顔を真っ赤にしてぶくぶくとお湯に沈んでいった。
しばらくしてイリーネはお湯から顔を出すと、僕のほうを見てくすくすと笑った。
「普通はこういう時って、男の人は『見てない』って言うんじゃないんですか?」
「あ、うん……でも僕はイリーネの前では正直でいたいから……」
「そ、それじゃあ、アルノー様の身体も見せてくださいよ……それでおあいこです!」
「え"……」
イリーネにここまで恥ずかしい目に合わせたんだ、確かに僕も少しくらい恥ずかしい目に合うべきなのかもしれない。
僕は意を決して、イリーネの前でお湯から立ち上がった。
「わ、わ、わ、全部じゃなくていいです!」
慌ててイリーネが手をこちらに広げたまま目を背ける。
僕は前の部分を隠したまま、イリーネのその仕草に笑ってしまった。
改めて腰まで湯に浸かった僕を見て、イリーネは頬を赤らめた。
「あ……」
不意にイリーネが僕の身体の一部分を注視した。
上半身に無数に刻まれた傷や火傷の跡だ。
「ああ、これ? 時間が経てば目立たなくなると思ってたけど……やっぱ残っちゃったな」
「これって、旦那様やニクラス様にやられたのですか?」
「まあね、物心ついた頃、しばらく反抗してたことがあってね、徹底的に痛めつけられたよ。結局なにをしても地下から出してくれなくて、そのうち諦めちゃったんだけどね」
僕はなるべく何事もなかったかのように言った。
傷が残ったことは残念だが、逆に傷を見るたびに悔しさを思い出すことができる。
これらの傷跡は復讐心を維持するのに役立っているとも言えた。
「アルノー様、お辛く……ないですか?」
イリーネは首まで湯に浸かったまま、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
僕はドキドキしながらイリーネから目を背ける。
「う、うん、僕は大丈夫だよ。生きる目標もある……し……ね……」
言い終わる前に、イリーネに背中から抱きしめられた。
背中に感じる柔らかい感触に、僕のドキドキはピークに達した。
すーっと僕の意識が遠くなっていく。
「わ、私には、アルノー様を慰めることしかできませんから……その……お辛くなったら、何でも言ってください……ね」
前に回されたイリーネの腕が、僕のお腹の傷に触れる。
首筋にイリーネの吐息が掛かる。
僕の意識が保ったのはそこまでだった。
「あ、アルノーさま? アルノー様!?」
僕はブクブクとお湯の中に沈んでいった。
のぼせた頭の中でイリーネの豊かな胸の感触だけは鮮明に残っていた。
いかがでしょうか。
一部でもこの物語が良いと思われましたら、「ブックマーク」や「評価」を是非ともお願いいたします!(評価は広告下の【☆☆☆☆☆】をクリックすることで行えます!)
本作品を最後まで楽しんで頂けるよう、全力で頑張りますので、是非ともよろしくお願いいたします!