喫茶店
加奈子はその五年後に死んだ。—————邦人女性、胸を撃たれ、死亡。伊藤はそれを朝のニュース番組で知った。
レストランに銃を持った男が乱入し、無差別に発砲。友人をかばった加奈子は胸部に弾丸を浴び、即死した。
十七人の男と十四人の女が殺され、撃ちあいの末に一人の薬物中毒者が射殺された、とテレビは告げた。
伊藤はその日も平生通り、ネクタイを締めて会社へ行った。帰宅後、白牡丹をコップになみなみ注ぎ、それを見つめながら、一人でコーヒーを飲んだ。
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「いらっしゃいませ」
若い女の声が彼を迎えた。夕暮れ時のカフェはひっそりとしている。カウンター席にハンチング帽を被った男が一人、奥の四人座りのテーブル席に、老人が二人座っているだけである。
室内のインテリアは全て、ビーダ―マイヤー様式のアンティークで調えられている。カウンター奥の戸棚の上のラジオから、ショパンの夜想曲が流れていた。
「どうぞお好きな席にお掛けください」
カウンターの奥から女が言った。男は女の正面の席に座った。
「ご注文はお決まりですか?」
「いつものコーヒーを」
「わかりました。当店のスペシャルブレンドをお持ちします」
女が言った。
数分ほど経って、彼の前にコーヒーカップが置かれた。
「ありがとう」
男はカップに口をつけた。
「熱くて、苦い。けれど美味しい」
女は微笑んだ。
「・・・お疲れですか?」
顔を見つめて、女がたずねた。
「・・・見えますか?」
「ええ、少しだけ。父が仕事終わりに浮かべる顔とよく似ていたものですから。」
女は口元に手をあてて、声を立てずに笑った。笑い終わると真顔になって、謝るように頭を下げた。
「れいちゃん、お代わり」
「はーい」
テーブル席の老人が言った。老人の声に、女があわただしく紅茶を淹れ出した。
紅茶のお代わりを届けた女はカウンターに戻ると、彼に白い丸皿を差し出した。皿の上には粒状のチョコレートが五つばかりのっている。
「サービスです。よろしければ、どうぞ」
女が言った。
「疲れた時は甘いものを食べませんと。コーヒーはくたびれた男の血液になる、なんて言ったりしますけれども」
「ロング・グッドバイの一節ですか。チャンドラーの?」
男は軽く頭を下げ、チョコレートを口にふくんだ。女は目を細めた。
「お好きなんですか?」
「僕はその一冊を読んだ程度です。友人がー幼馴染ーが、レイモンド・チャンドラーを愛読していまして。彼女の影響で読みました」
彼の言葉に女はなんどもうなずいた。
「父もチャンドラーが好きでした。仕事終わりにコーヒーカップをかかげて、これがくたびれた男の血液になるんだ、なんて言って、よく飲んでいました」
男は皿の上の最後の一粒をつまむと、口にほうりこみ、残りのコーヒーを飲み干した。カウンターに小銭を置いて、ハンチング帽の男が店を出ていった。
「雨、やみませんね」
窓の外を見ながら女が言った。
「今日は一日中、雨でしたね」
男が答えた。
「おかわりはいかがですか?」
「いただきます」
彼は結局、コーヒーを三杯おかわりした。女に代金を払い、小銭を受け取ると店を出た。
日は沈みつつあった。雨がむせかえるように匂っていた。