永訣
夜が明けた。雨は降り続いていた。伊藤が目を覚ました時、加奈子はすでに起きていて、キッチンでコーヒーを沸かしていた。
伊藤は窓に額をつけながら、道路を眺めた。用水路からあふれ出した雨水がアスファルトの上を流れていた。
キッチンからコーヒーメーカーのくぐもったような音が聞こえたので振り返ると、加奈子が姿を現して、伊藤にコーヒーを渡した。
ゴミを捨てに行ってくる、と加奈子が言って、伊藤はうなずいた。朝飯はいるか、と訊ねられ、伊藤はいらないと答えた。
加奈子は雑誌と本をビニール紐で括ると、小脇に抱えて部屋を出て行った。伊藤は壁にもたれかかかって、背中を見送った。アパートの外階段を一段ずつ下りていく音が聞こえた。
伊藤は身体を起こすと、窓の外を見つめた。音がやむとアパートの右手から加奈子が姿をのぞかせた。傘はさしていない。雨は細く、音もなく降っている。
加奈子は道路の中央あたりで足を止めると、振り返って、伊藤に向かって右手を振った。伊藤も手を振り返した。
十分程経って、加奈子は帰ってきた。八時十三分の電車に乗ると伊藤に告げ、タクシーを呼んだ。迎えの車が来るまで、二人は雨を見ながらコーヒーを飲んだ。霧雨は糸をひきつつあった。
コーヒーを飲み終えた頃に車は来た。駅までの道中、会話らしい会話はなかった。加奈子が幾度か時間を訊ね、伊藤がその都度答えただけである。ダッシュボードには車用時計がつけられていて、時間を訊ねる必要はなかったが、加奈子は伊藤に何度も時間を聞いた。
朝の駅は閑散としていた。十五六の制服姿の高校生と、くたびれたスーツを着たサラリーマンがちらほらと見えるばかりであった。
二人は改札口で別れた。伊藤は自動切符売り場の近くの柱にもたれ、加奈子を見送った。加奈子は改札口の手前まで来ると、振り返った。
目が合って、伊藤は軽く手を挙げた。加奈子は立ち止まると、伊藤の元に駆け寄り、彼を抱いた。右手を彼の頭にまわし、かき抱いた。加奈子の肩に伊藤の顔はうずまることになった。
肩は濡れていた。雨の匂いがした。加奈子の匂いのようでもあった。この匂いは加奈子のものなのか、雨のものなのか、伊藤は分からなくなった。
伊藤は震える手を加奈子の腰にまわした。
加奈子が先に手を離した。加奈子は、さよなら、とつぶやくと、伊藤に背を向けて改札口へと去った。振り返ることはなかった。