告別
時刻は二十時を廻っていた。雨風は鳴りをひそめつつあった。
「シズちゃんは相変わらずか」
「振りまわされてばっかりだよ。妹には困ったもんだ。まぁ、口を聞いてくれるだけましかな。この間、学校の友達を連れてきて、あ、そいつは男で、彼氏ではないとは言っていたんだけど、父さんがびっくりして、シズとケンカして大変だった」
「君から見て、その男はどうだ?」
「ひどく芝居がかった物言いをしていたよ、変わったやつだった。誰しも変わっていると言われれば、まぁそうなんだけど。美術部なのに絵は描いていないっていうし、幽霊部員かと思えば、入部以来皆勤賞だそうだし」
普段の物静かな姿からは考えられないほど、伊藤はしゃべった。加奈子は時折瞼を開けては彼を見つめ、そのつど微笑を浮かべ、目を閉じた。
「・・・シズも来たがっていた。母さんも仕事を休もうかしらって、冗談っぽく言っていたよ」
と、伊藤が言った。遠雷の轟が聞こえた。雨脚がふたたび強まり、雨粒が窓ガラスを打ちつけ始めた。
「コーヒーは飲まないの?」
伊藤が言った。
「ミルクも砂糖も入れない、熱くて濃いのが好きだったろ?」
「昔ほど飲まなくなった。あの頃は苦みを美味いと感じていたんだが、今は苦いだけだ。君の言葉じゃないが、味覚が変わってしまったらしい」
「それなら、僕もいつかコーヒーを美味いと感じる日が来るのかもしれない」
「好きじゃないのか?飲み物はコーヒーがいいって言ってたから用意したんだが。遠慮せず、好きなものを頼めば良かったんだぞ。家には酒とコーヒーと紅茶しかなかったから、買いに行く手間がはぶけたとは思ってはいたが」
伊藤のコップには冷めたコーヒーが半分ほど残っていた。
「飲もうか?」
伊藤は首を横に振った。
「一人で飲むよ。・・・それよりも、これだけは聞いておきたかった。街を出て、どうするの?」
伊藤が訊ねた。
「アメリカに行く。師匠の兄弟子の元で修業ってわけさ」
加奈子が答えた。
「いつ帰る?」
「分からない。帰らないかもしれない。この部屋も人手に渡るだろう。帰るところもないしね」
加奈子は杯を傾けた。
「・・・・・うちに来ればいいじゃないか。昔みたいに。母さんも父さんもシズも、みんな歓迎するよ」
伊藤が言った。
「ありがとう、君は変わらないな。いつも私を喜ばせてくれる。考えておくよ」
と、加奈子が言った。加奈子はコップに酒を注ぐと、一口で飲み干した。
「アルコールは恋に似ている。最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ」
「・・・誰かの格言?」
「チャンドラーだよ、レイモンド・チャンドラー。ロング・グッドバイという小説に出てくる、飲み助の台詞さ」
「よく分からないや」
「私にもよく分からない」
「時間、分かるか?時計を売ったのは失敗だった。手元に残しておけば良かった」
伊藤はポケットから携帯をとり出した。時刻は二十一時を廻っていた。
「携帯は?」
「解約した」
伊藤は時刻を告げた。
「今から帰っても、家に着く頃には22時過ぎになるな。泊まっていかないか?まだ、話をしたい」
加奈子が言った。
「そちらがいいのであれば」
「一緒に寝るか、昔みたいに?」
加奈子は悪戯っぽく笑った。伊藤は何も言わず、コーヒーを飲んだ。
⁂
二人は話し続けた。もっぱら加奈子がしゃべった。伊藤は加奈子の言葉にしばしばうなずいた。
「アルコールは不思議だ。寡黙な男を饒舌にさせるし、饒舌な女を寡黙にもさせる。私は静かな方が好きさ、夜も酒も男も」
「それもチャンドラー?」
「手製だよ。できたてほやほや、半熟さ。ハードボイルドにはほど遠い」
加奈子が言った。
「ロング・グッドバイの台詞も分からないし、その言葉もよく分からない。飲めば、分かるかな」
伊藤が言った。
「試しに飲んでいい?」
伊藤は一升瓶に手を伸ばした。加奈子はその手を制した。
「よしといてくれ。饒舌になった君の姿を見たくないし、最後の夜だ、酔っていない君と話をしたい」
と、加奈子は言った。伊藤は分かった、とつぶやくと、うなずいた。
布団を部屋に運び終わった時、時刻はすでに0時を廻っていた。
寝具は二階に住んでいる大家の老夫婦に借りた。加奈子が借りにいった。老夫婦は夜分遅くの訪問にもかかわらず、加奈子の来訪を喜んだ。加奈子を幼い頃から知っており、孫娘のように接してきたからである。
加奈子が布団を二つ貸してほしいというと、客は男か女かと聞いてきた。男だと答えると、かなちゃんに男ができたと亭主が泣き出し、加奈子は弁明しなければならなかった。
別れ際に、朝は時間が合わないだろうからと言って、老婦人が幾枚かの紙幣をティッシュにくるんだものを、彼女に渡そうとした。加奈子は固辞した。しかし、老婦人は加奈子以上に強情で、結局押し切られる形になった。
部屋は空けておく、と老夫人が言った。そちらの迷惑になる、と加奈子は答えた。
うちの人が望んでいる、と老婦人は言った。加奈子は深く頭を下げた。
彼氏と同棲するなら、もっと大きい部屋を選ばないとね、とも老婦人は言った。加奈子は赤面し、そんな関係ではないと否定したが、老婦人は茶目っぽく笑うだけであった。
布団を運びきるのに、部屋から部屋へと加奈子は二往復しなければならなかった。伊藤が手を貸そうとしたが、客人は座って待っていろ、と言って、聞く耳を持たなかった。
一時を廻って消灯した。
畳の縁ほど布団を離して、二人は寝た。伊藤はキッチンで寝ようとしたのだが、加奈子が許さず、布団を並べて寝ることになった。
昔は同じ布団で眠った仲じゃないか、と加奈子が笑うと、いつの話だ、と伊藤は顔を赤くした。
二人は布団に横になってからも話を続けたが、次第に声が小さくなって、黙りがちになった。夜の静けさが部屋に訪れつつあった。
「今日はありがとう」
加奈子が言った。
「こちらこそ」
伊藤が答えた。
「来てくれるか、ずっと心配だった。怖かった」
「怖いだなんて、らしくない」
「言ってくれるね」
加奈子が言った。加奈子は伊藤の方を向いて寝ていたが、身体を仰向けると、天井を見上げた。
「さよならを言っておきたかった。直接会って、別れを告げたいと思えるような人はほとんどいなくなってしまった。君ぐらいのものだろう。君だけにはさよならを言いたかった」
「・・・さよならを言うには早すぎるよ、かな姉さん」
「懐かしい名で呼んでくれた」
「暗いから、顔がよく見えないから言えたんだ。気恥ずかしくないからね」
「それなら、電気は初めから消しておけばよかった」
加奈子が言った。
「三年会わないでいるうちに、かな姉さんは大人になってしまった。言ったって詮無いことだけど、そんなに早く大人にならないでほしかった」
「君は私の父さんかい?」
加奈子は笑みをこぼした。
「・・・そう見えるだけさ。大人になりきれていないから、君を呼んだんじゃないか」
「よく分からないよ」
伊藤が言った。
「・・・もう寝よう。夜もふけた」
加奈子は左向きに寝た。
「おやすみ」
「おやすみ、かな姉さん」
加奈子は伊藤の方をしばらく見つめた。暗く、顔は見えなかったが、朧気ながらに身体の輪郭が分かった。
目を閉じると、すぐに眠った。息は荒く、深かったが、やがて静かになった。伊藤は身体を起こすと、加奈子の寝姿を見守った。
おやすみ、とつぶやくと、加奈子に背をむけて眠りについた。
参考文献 ロング・グッドバイ レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳 早川書房