金木犀
伊藤が五才の時である。大山加奈子という一人の少女が父親に連れられて、彼の街に越してきた。
二人は出会って幾日も経たぬうちにうちとけた。夏が来れば、山や川に赴き、冬が来れば、互いの家に泊まりに行く仲になった。引っ込み思案な伊藤を加奈子がしばしば遊びに誘い出した。
伊藤が十五の時、加奈子の父親が死ぬ日まで、二人の日常は続いた。父親の死をきっかけに、加奈子は伊藤を避けるようになった。
そのまま三年が過ぎたある日、加奈子は街を去ることになった。知らせを聞いた伊藤は、三年ぶりに彼女のアパートを訪ねた。
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伊藤がアパートを訪れた時、時刻は十八時を回っていた。
家具や調度品の類は処分されており、部屋は閑散としていた。テレビも、本棚も、テーブルも、ベットも、クローゼット代わりだったラックもすでになく、カーペットすらも取り払われていた。
二人は手製のテーブルに、向かい合って座っていた。テーブルは雑誌や文庫本を積み重ねたものの上にランチョンマットを敷いただけの簡素なものである。二人はそこにコップを置いていた。伊藤はコーヒーを、加奈子は日本酒を、各々のコップに注いでいた。
六畳間の洋室は静けさに包まれており、雨の音だけが聞こえる。
伊藤がコップを手にとると、加奈子が顔を上げた。
「いくつになった?」
「十八」
と、伊藤が答えた。加奈子はうなずくと、コップを持ち上げて、一息に飲んだ。
「コーヒー、飲めるようになったんだな」
加奈子が言った。
「ブラックコーヒーを飲みたいと言うとは思っていなかった。昔は砂糖をいくら入れても飲まなかったのに」
伊藤は恥ずかしそうに頭をかくと、コーヒーを口に含んだ。
「美味いか?」
「熱くて、苦い」
加奈子の顔がほころんだ。伊藤はテーブル脇の一升瓶を引き寄せると、加奈子のコップに酒を注いだ。
「僕も驚いたよ。お酒を嗜むようになっていたとは知らなかった」
「成人してから飲むようになった。コーヒーほど好きじゃない」
と、加奈子が言った。杯に唇をつけると、喉を鳴らしながら一瞬で飲み干した。伊藤は酒瓶を見た。ラベルには白牡丹とある。
おかわりは、と訊ねると、うなずいたので、伊藤はコップになみなみ注いだ。
「それにしても」
と、コーヒーを一口飲んで、伊藤が言った。
「急な話で驚いたよ、そんな素振りもなかったし」
「すまない」
加奈子が言った。
「こう見えて感傷的な方なのさ。今年はもう、庭の金木犀の咲いた姿を見ることができない。たったそれだけで、深酒をしてしまうほどね」
加奈子は窓の外を見つめた。雨は勢いを増していた。雨粒のアスファルトを打ちつける音が冴え冴えと聞こえた。
「疲れているだろう。金曜日とはいえ、部活帰りに呼び出してすまない」
伊藤は身を乗り出すと、
「来たくて来たんだ。謝るようなことじゃない」
と、声を荒げた。
「変わらないな、君は」
加奈子は頬に笑みを浮かべた。
「思えば、二人でこれだけ話すのも久しぶりだ」
加奈子はコップを手にとると、ワイングラスのように回した。アパートの前を車が通り過ぎて行った。
「君には悪いことをした。この三年間ひどい態度をとったし、ずいぶんとひどいことも言った」
コップを置くと、加奈子は伊藤を見つめた。
「年を重ねたら、昔のようにはいかなくなる。母さんが言っていたよ。・・・色々なことが起きすぎた。忙しすぎたんだ。ただ、あれこれと忙しすぎただけだよ」
加奈子の瞳は澄んでおり、どこまでもまっすぐだった。伊藤は瞳を見つめながら、
「変わってないのは、そっちも同じじゃないか」
と、言った。加奈子は目をそらすと、コップの縁に口をつけた。横殴りの雨が窓ガラスを叩いた。突風が部屋を震わせた。
「こんな晩に花は散るのだろう。金木犀が咲くにはまだ早いけど、もし咲いていたなら散ったはずだ」
加奈子の杯は空になっていた。もう一杯注いでくれ、と加奈子が言った。
「すこし酔ったらしい。柄でもないことを言ったよ」
「もうよしとく?」
「まだ飲みたいんだ」
伊藤は酒を注いだ。
「白牡丹、見覚えのある名前だ」
「家に泊まりに来た時に、いつもあの人が目の前で飲んでいたろ?あの人が―父さんが―、好きだった酒だ。母さんも好きだったらしい。・・・覚えてはいないがね」
加奈子はコップを鼻に近づけて、香りをかいだ。
「あの人は、甘い甘いと飲んでいたけど、今のわたしにはただ苦いだけ」
加奈子は酒を口に含むと、顔をしかめた。
「味覚は変わるって言うよ。いつか甘く感じる日が来るんじゃないかな」
「・・・年をとれば、来るかもしれない」
加奈子が言った。
「自分のことを話しすぎた。君の話をしてくれないか」
加奈子の言葉にうなずくと、伊藤はゆっくりと話し始めた。高校のことを、部活のことを、趣味のことを、家族のことを、あたかも三年間の空白を埋め合わせるかのように話し始めた。




