騎士団部隊長様が、酔った勢いで片想いの子に酷いことをしちゃった件について
ラブコメです
いろんな意味で品がないかもしれません
――頭が痛い。
いつになく酷い頭痛で目を覚ましたアーノルドは、低いうめき声と共にベッドから上体を起こした。
いつもきれいにセットしている赤髪はぐしゃぐしゃに乱れており、変な方向に曲がった前髪が視界を遮っている。
カーテンのように鬱陶しいそれを手で払いのけた彼は、はたと動きを止めた。
(……ん? 俺は昨夜、何をしていたんだった……?)
彼は決して、朝に弱くはない。目覚めはいい方だし、今日のように頭痛で目が覚めるなんてことも今まで一度たりとなかった。
だが今朝は頭痛がするだけでなく、妙に体がだるい。今気がついたが、普段はきっちり着ているはずのシャツは前が全開状態で、ズボンも半分脱げかけている。
辺りを見ると、仕事着用の上着がソファの背もたれに掛かっており、ネクタイも一緒に添えられていた。いつもならちゃんとハンガーに掛けておくのに――というより、寝るときにはシャツに仕事着スラックスではなく部屋着に着替えるはずなのだが。
(これはいったい――っ、足音!?)
頭がぼんやりしていたせいか、反応が遅れた。
ぱたぱたと隠そうともしない軽快な足音を耳にしてとっさに立ち上がろうとした瞬間、すさまじい激痛が脳天に襲いかかってきた。
見習い騎士だった頃、先輩に叩きのめされて以来の激痛である。
「うぐっ……!?」
「おはようございます、アーノルドさ――まあ! 大丈夫ですか!?」
ドアが開く音に続き、若い女性の声。
その声を耳にし、上体を折り曲げてベッドに突っ伏していたアーノルドの全身がぎくっと強ばる。
この声の主は、知っている。
(う、嘘だろう!? どうしてここに……!?)
「まだお体が辛いのですか? 無理に起きようとならさないでくださいませ」
そう言ってアーノルドの背中に腕を回して上半身を起こしてくれたのは、若い娘。
柔らかそうな栗色の髪に、ぱっちりと大きな杏色の目。肌が白いので、鼻の周りのそばかすがくっきり見えるのがまた可愛らしい。
心配そうに見上げてくる彼女の顔を見、アーノルドの胸がつきんと優しくときめく。
朝から彼女に会えて、嬉しい。
なぜなら彼女は、アーノルドがずっと恋しく思っていた人なのだから。
……嬉しいのは確かだが。
「……ま、待ってくれジェイン。どうして君が、ここに?」
アーノルドは舌ももつれそうになりながら問うた。頭は痛い上に、片想い中の相手の登場で混乱もしてきた。
ジェインは、王城に勤める侍女である。彼女と知り合ったのは、アーノルドが騎士見習いになって王城の寮で暮らすようになった十代半ばの頃。
男爵家令嬢である当時のジェインはまだ十歳そこそこで、両親に連れられて王城を訪れた際にアーノルドと出会った。
十年前に出会った時点では、「なんか可愛い子がいるな」程度だった。
だが十年近い歳月を経て、ジェインは慎ましい可憐な花のように成長して侍女として登城した。
そんな彼女と再会したアーノルドは、瞬時に恋に落ちた。「剣と結婚したアーノルド」と言われていた彼自身でも驚くほどの、一目惚れである。
ジェインと仲良くなりたい。もっともっと話をしたいと常日頃から思っていた。
幸いにも、ジェインも幼い頃に出会ったアーノルドのことを覚えてくれていた。最初の頃は「侯爵家子息様とお話をするなんて、恐れ多いことでございます」と遠慮されまくっていたのだが、最近ではジェインも折れてくれたようで距離を縮めてくれていたところである。
(……そう、だ。それで俺は昨夜、ジェインを夜の散歩に誘おうと――)
やっと思い出した。
緊張でがっちがちになりながらジェインを夜の散歩に誘い、オッケーをもらった。あまりに嬉しかったので、その日の訓練中は見習いたちをいつもの倍以上叩きのめしてしまった。
誘ったのはいいものの、「剣と結婚した(以下略)」と言われるような人生を歩んできた彼には、まだまだ勇気が足りなかった。せっかくデートに誘えたのに、失敗したらどうしよう、嫌われたらどうしよう――と、ウジウジ悩んでいたのだ。騎士団では「剣と(以下略)」と言われ、妙齢の令嬢たちからは「深紅の貴公子」と黄色い声を上げて羨望の眼差しで見つめられる彼の、隠されたヘタ……弱気な部分である。
そう、そして不安な心に苛まれたアーノルドは、少しでも心を大きくしようと酒の力を借りることにした。ジェインとの待ち合わせ時間の前に、ちょっとだけ飲もうと思ってもらい物のワインを取り出し――
(……どうしたんだっけ?)
やっと物事の開始地点までたどり着いたアーノルドだが、自分を見上げてくるジェインの姿にはっと目を見開いた。
いつもジェインは侍女のお仕着せを着ている。黒いシャツとスカートに白いエプロンは、大人しくて慎ましいジェインにぴったりだと密かに思っていた。
だが今の彼女は、スカートはいつものである一方、上半身には襟元も袖もぶかぶかのシャツを着ていた。しかもそのシャツ、どう見ても男物である。というか、アーノルドの私物である。
ジェインは、アーノルドが自分のシャツを見ていることに気づいたのだろう。あっと声を上げて手を引っ込め、申し訳なさそうに目を伏せてしまった。
「す、すみません。自分のシャツは……その……着られない状態になってしまったので、申し訳なかったのですが、アーノルド様のをお借りしました。その、洗濯籠に入っていたので」
「あ、う、うん。いや、それはいいんだが」
(むしろ眼福だごちそうさまですありがとうございました)
「……なんというか、どうしてジェインがここに?」
昨夜のジェインとの待ち合わせ場所は城の使用人勝手口であり、アーノルドの部屋ではなかったはずだが。
問われたジェインは目を伏せたまま、うなだれるように頭を垂れてしまった。
「……申し訳ありません。時間になってもアーノルド様がいらっしゃらないのでお部屋にお迎えに上がったところ、その……大変泥酔してらっしゃり」
「えっ」
「先ほど片づけたのですが、ラベルを見る限りアルコール度数の大変高いものをお召しになったのですね。ソファに伸びてらっしゃったので……」
そういうことか、とアーノルドはうめく。
先ほどからがんがん痛む頭は、いわゆる二日酔いというやつなのであろう。アーノルドは普段あまり酒は飲まない質で、昨日飲んだ酒も同僚から誕生日祝いにもらったものだった。今度からはちゃんとラベルを確認しよう。
「そうか……せっかくの約束なのに、俺は酔って寝てしまったのか……すまない、ジェイン」
「い、いえ……その、酔ってらっしゃったのはいいんですが……あの」
「うん?」
「……その後のことは、覚えてらっしゃらないのですよね」
おずおずと問われた言葉に、まどろんでいたアーノルドの脳みそが一気に冷えた。
瞬きし、ジェインの顔を見る。彼女はまだ視線を逸らしており、口元に手を当てて悩ましげな表情をしていた。
(……その後の、こと?)
「…………は?」
「あ、いえ、いいのです。覚えてらっしゃらないなら、それで……」
「え? ……ま、まさか俺、ジェインに――」
そうして、気づいた。
ジェインはアーノルドのシャツを着ており、自分のシャツは「着れない状態になった」と言っていた。
アーノルドの服がはだけている。
ジェインは、言葉を濁している。
そしてよく見ると、どことなくジェインの顔色が良くない。眠れていないのが一目瞭然だ。
(……まさか)
さあっと体が冷えたのは、一瞬のこと。
アーノルドがなにか言うよりも早く、ジェインはくるりと身を翻してしまった。
「……ご安心ください。昨夜のことは、決して誰にも口外いたしません。もちろん、アーノルド様のご名誉を汚すようなこともいたしませんので」
「っ……! 待て、待ってくれ、ジェイン!」
布団を引っぺがしてベッドから降りたアーノルドは、急いでジェインを追う。
ドアの前で彼女の肩を掴み、乱暴だとは分かっているもののぐいっと体を自分の方に向かせた。
「俺は……俺は、君に酷いことをしてしまったんだな……!?」
必死の形相で問うアーノルドを、ジェインは静かに見つめていた。そして彼女は目を伏せ、ふるふると首を横に振る。
「……大丈夫です。他の方ならともかく、アーノルド様ですし」
「よくない! 俺は君を穢してしまったんだ! ちゃんと責任は取るから……」
「いいえ、いいえ。いいのです。あの後お風呂もお借りしましたし……大丈夫です」
ジェインはやんわりとアーノルドの申し出を断ってくるが、アーノルドの台詞を否定はしなかった。
(やっぱり俺は、酔いに身を任せてジェインを――)
アーノルドはぎりりと歯を噛みしめる。昨夜の自分をぶん殴ってやりたい。
ジェインのことは好きだ。誰よりも好きだ。
そしてきっと、ジェインもアーノルドのことを憎からず思ってくれている。
いつかちゃんと想いを口にせねばと思っていた。結婚を前提とした付き合いを申し出ねばと思っていた。そしてジェインがプロポーズを受け入れてくれるのならば、男爵令嬢である彼女が侯爵家に安心して嫁いでこられるよう、身を粉にして準備をするつもりだった。
だというのに、アーノルドは一晩で全てを粉々に砕いた。
大切なジェインを無理矢理手込めにし、優しい彼女が拒絶しないのをいいことに襲いかかり――
せめて、責任は取らせてほしかった。交際もしていない男に暴行されたのだから、今後彼女が結婚などで不自由することがないよう、全ての責任を取らせてほしかったのに。
ジェインは緩く微笑んで背伸びし、アーノルドの頭をぽんぽんと撫でた。
「……まだお疲れなのでしょう。皆が起きるまでもう少し時間がございますので、お休みください」
「ジェイン! 俺は――」
「よろしいですか、アーノルド様。昨夜のことは、これっきり。私とアーノルド様だけの秘密ですからね」
手を伸ばしたのに、するりとジェインは逃げていく。
ドアの前で振り返った彼女は、どことなく悲しそうな、無理をしているような笑顔を浮かべ、そっと立ち去ってしまった。
これは、どうするべきなのか。
アーノルドは部下たちを叩きのめしつつ、必死に考えていた。
(ジェインはああ言っていたが、やはり責任を取らねばならない。ジェインのご両親に報告して、結婚の許可をもらうしかないか……)
ジェインの両親である男爵夫妻は、明るくて気さくな人たちだった。彼女には弟もいたのだが、家族仲も良さそうである。
そんな中、アーノルドがジェインを暴行して令嬢としての尊厳を踏みにじったと知ると、彼らはどんな反応をするだろうか。いくらアーノルドの方が圧倒的に身分が高いといっても、可愛い娘、大切な姉の身を穢した男だ。許されなくても、憎まれても仕方ない。
(だが、なんと言われようと俺は許しを請わねばならない。そして、もしジェインが妊娠してしまっても世間に波風が立たないよう、妻に迎える必要がある)
いずれはアーノルドの方から申し出るつもりだった。ジェインは遠慮するだろうから、段階を踏んで、周りの理解も得ながらゆっくりと関係を築こうと決めていた。
それなのに、ジェインは望みもしないのにアーノルドの元に嫁がなければならなくなる。これまでゆっくり重ねてきた時間や想いを蹴散らしてでも、ジェインの意志を無視してでも、「責任」を取らなくてはならない。取らないという選択肢は、アーノルドにはないのだから。
「よう、アーノルド。今日はいつになく凶暴だな」
ひととおり部下たちを地に埋めたアーノルドを、同僚の青年騎士が迎えた。彼もまた十年来の付き合いで、身分はアーノルドより下の伯爵家子息だが、共に部隊長の任を与えられた仲でもあった。
彼から濡れたタオルを受け取ったアーノルドは、苦く笑った。
「凶暴……まあ、そんな気にもなるだろうよ」
「ん? よく見るとなんか顔色も良くないし……なんかあったのか?」
「いや……」
「あっはー、そういやおまえ、昨日の夜に片想いしてる子をデートに誘ったんだって、ルンルンしてただろ。さては、フられたな?」
デバガメ心を隠そうともせずニヤニヤしてくる同僚に、一瞬アーノルドはうっと呻いた。
「……いっそ、フられたかった」
「え? ……。……あ……お、おまえ、まさか……襲っちゃったとか?」
こういうときだけ勘が鋭い男である。
アーノルドは何も言わなかったが、同僚は無言を肯定と受け取ったらしく、ニヤニヤ顔を瞬時に引っ込めてこそっと耳打ちしてきた。
「……おい、まさかのまさかなのか?」
「……だと思う」
「うーむ……放置するわけじゃないんだろう?」
「当たり前だ。……だが、あっちの方はなかったことにしてほしいみたいなんだ」
いつの間にか同僚に肩を組まれ、アーノルドは練兵場からずるずると物陰まで移動していた。
周りの目を気にしなくなったところで、同僚ははあーっと大きな息をついた。
「……相手の子ってのは、おまえが前から言っていた男爵家出身の侍女だろう? 確かに、おまえとその子は傍目から見てもいい関係に見えたけど、合意なしに襲ったとなるとなぁ……。そりゃあ、次期侯爵様のおまえに襲われたとなっても隠したがるだろうよ。下手すりゃ、おまえをたらし込んだだろうって責められるのはその子の方だ」
「分かっている。それにジェインの性格からして、物事を大きくしたくないと我慢ばかりさせてしまうだろう。それくらいなら、昨夜してしまったこと全てを俺の責任として、ジェインに辛い思いは絶対にさせない」
「うんうん、それがいいだろうよ」
同僚は頷いた後、ふと真顔になる。
「……でもなぁ、おまえ昨晩の記憶がないんだろう?」
「そうなんだよ。惜しいことをし……いや、ジェインにはかわいそうなことをした」
「今本音が出たぞ。……だったらいっそう気を付けろよ。言ってしまえば、『酷いことをしてごめんなさい、ただ覚えてないけど』ってことだからな。言い方を間違えればすっげぇ失礼だし、相手もさすがに怒るだろうからなぁ」
「……忠言ありがとう。気を付ける」
アーノルドはきりっと表情を引き締めてしっかりと頷いた。
「一度ちゃんと話がしたい」と手紙を送ると、ちゃんと返事が返ってきた。ジェインらしい丁寧な筆致で、「分かりました」との返答と、日時を指定する旨が記されている。
今度こそ遅刻するまいと、正装したアーノルドは約束の時間よりもかなり早めに門の前でスタンバイしていた。近くには侯爵家の馬車を待たせており、ジェインが来たら二人っきりで話ができる場所に移動する手はずだ。そのことも全て手紙に書いており、ジェインからの了承も得ているのでジェインもある程度の心の準備をしてきてくれるだろう。
はたして約束の時間に、通用門にジェインが現れた。手紙の内容からある程度のことは察していたのかもしれない。彼女もいつものお仕着せ姿ではなく、清楚なワンピース姿だった。
「お待たせして申し訳ありません、アーノルド様」
小走りで駆けてきたジェインがぺこっと頭を下げるので、アーノルドは首を横に振った。
「いいや、前回は俺が君を待たせたくらいだから、気にしないで」
なるべく優しい声で言うと、ジェインはほっとしたように顔を上げてくれた。
……よく見ると、うっすらと化粧をしている。彼女は普段からすっぴん派だったはずなので、今日のためにメイクしてくれたのだと思うと、そんなことできる立場ではないと分かりつつも心の中がぽっと温かくなった。
待たせていた馬車の方に案内するときも、ジェインは落ち着いていた。彼女は「自分であがれます」と主張したのだが、馬車に乗る際にアーノルドはジェインの手を取って丁寧にエスコートした。今はただひたすら、ジェインを大切にしたかった。
馬車に揺られて向かった先は、人気のない静かな公園。王都に複数存在する公園の中でも、恋人たちの語らいの場として人気のスポットである。それが分かったからか、隣に座るジェインの耳が真っ赤になっていた。
「さ、どうぞ、ジェイン」
「あ、ありがとうございます」
乗ったときと同じように、ジェインの手を取って馬車から降りる。公園はいい感じにすいており、ぽつぽつと灯りが灯る散歩道はどこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。
アーノルドは手近なベンチにジェインを座らせ、自分も彼女の隣に腰を下ろした。
「……ジェイン」
「はい」
「この前の話――続き、してもいいか?」
ぴくっとジェインの体が震える。だが大きな反応はそれだけで、ジェインはこっくり頷いた。ただし、隣に座るアーノルドの顔を見ようとはしない。
彼女から諾の反応をもらえただけでも十分なので、アーノルドはジェインの横顔に語りかけた。
「君はこの前、あの夜のことはこれっきりだと言っていた。だが――俺は、君に乱暴をはたらいたことを『これっきり』で終わらせたくないんだ」
「……。……どうしてそこまでして、気になさるのですか?」
困ったようなジェインの声が返ってくる。彼女は前を向いたまま、うつむいた。
「本当に、たいしたことではないのです。それよりも、このことが皆に知られれば私よりずっと、アーノルド様のご名誉に関わります」
「俺の名誉なんてどうだっていい! 言ってしまえば君が被害者なんだ。君は俺を一言も責めず、責任を取ることさえ拒否している。だが、俺は君の尊厳を踏みにじったままにしたくないんだ」
「尊厳なんてこれっぽっちも傷ついておりません」
ジェインははっきりと口にした。彼女らしくもなくかなり厳しい物言いである。
(これっぽっちも……いや、ここでショックを受けている場合じゃない!)
「そんなことはないだろう。これから先、君の人生にも関わることなんだ!」
「なぜですか? 別に……その、あのことを誰にも口外しなければ、全く問題ないことでしょう」
「問題ある! だから俺は、君へ一生をかけて代償をしなければならない」
「い、一生の代償!?」
裏返った声を上げて、ジェインが振り返る。アーノルドも驚くくらいの豹変っぷりである。
「滅多なことを言わないでください! その、どうしても責任とおっしゃるのならば、少々代金をいただくくらいで……」
「代金? ……ああ、それなら俺の向こう数十年分の給金で――」
「そんなわけないでしょう!」
「そんなわけあるだろう! 俺が君にできるのは、君が望むだけのものを差し出すか、妻として迎えるかしかないんだ!」
血を吐く思いでアーノルドは叫んだ。
こんなはずではなかった。
恥ずかしがり屋なジェインに合わせて、ゆっくりゆっくり歩み寄っていくはずだったのに。
ジェインに酷な選択を迫るしかできない自分が、憎らしい。
……だが。
「……へ? 妻?」
ジェインはこれでもかと言うほど目をまん丸に見開き、アーノルドを凝視していた。もともと目はぱっちりしている方なので、見開かれた杏色の目にアーノルドの顔がくっきり映り込んでいるのがよく見えた。
「アーノルド様が、私を?」
「あ、ああ。君が了承するならすぐにでもご両親の元にご挨拶に伺わねばと……」
「え、えええ!? なんでそこまでするのですか!?」
「そ、そういうものだろう!? 酔いに任せて君の体を蹂躙した俺は、誠意をもって償わなければならない! もし子どもができてしまったならば、君を未婚の母にさせることにも――」
「待って! ちょっと待って!」
言葉の途中で口をふさがれてしまった。
アーノルドの口を両手でふさいだジェインは、顔を真っ赤にしてアーノルドを睨み上げてくる。
「だ、誰に子どもができるんですか!? み、未婚の母ってなんのことですか!」
「へ?」
「私、まだ誰ともそんなことはしておりません! ええ、聖女神様に誓って!」
「……ええ?」
今度はアーノルドが呆然とする番だ。
(え? でも俺はあの夜、ジェインを……あれ?)
「……俺、君を組み敷いて暴行したんじゃないのか?」
「まさか! アーノルド様がそんな強姦魔のようなことをなさるはずないでしょう!」
「違うのか!? っ……だが君は、あの夜に俺が……」
「そ、それは――」
真っ赤な顔のまま、ジェインはさっと目を逸らす。
「……言わないと、だめですか?」
「ああ。俺が強姦魔じゃないのなら、いったい俺が君に何をしたのか知らねばならない」
「……その……」
「うん」
ジェインは、悩んだ。かなり悩んだ。
悩んだ末、ぼそぼそっと告げる。
「……あの夜、私がお部屋にお邪魔したとき。……アーノルド様はソファに向かった私を見て、その――」
「……うん」
「……吐かれましたの」
「……うん?」
はかれた、の意味が一瞬分からず、アーノルドは数秒停止した。
掃かれた。
履かれた。
測れた。
「……吐いた?」
「はい……たぶん、お酒をお召しになって眠った後、いきなり目を覚まされたからでしょう。あまりにも苦しまれているのでベッドまでお連れして、服も緩めました」
ジェインは心底申し訳なさそうに告白する。
……そうして、合点がいった。
ベッドに寝ていたアーノルド。
はだけられていた服。
なぜかソファの背もたれに掛かっていた上着やネクタイ。
シャツを着替えて登場したジェイン。
ジェインが「風呂を借りた」意味。
「アーノルド様の名誉に関わるから」と、頑なにあの夜のことを秘密にしようとしていたジェイン。
別のことを想定しているというのに、アーノルドとジェインの話が妙にかみ合っていたこと。
「……」
「……アーノルド様?」
「…………申し訳ないッ!」
「アーノルド様!?」
アーノルドは土下座した。そう、土下座である。とても美しい土下座のポーズである。
「俺はっ……! 俺は、あろうことか君に向かって……!」
「いいんです! お召しになったお酒はとてもアルコール度数も高かったので、体調を崩されても仕方のないことです!」
自分の足下に土下座したアーノルドをうんうん言いながら引っ張り上げつつ、ジェインは震える声で続けた。
「……やっと仰せになる意味が分かりました。アーノルド様は、その、お酒に酔って私に暴行したと思われたのですね。だから責任を取る……つ、妻に迎えると……」
「……そうだ」
「す、すみません。あんな風にはぐらかしたりせず、きちんとお話ししていればこのようなことにならなかったのですね」
「違う! 酔ったのも勘違いしたのも君に……その……大変なことをしてしまったのも、俺の責任だ!」
「ですから、私はシャツの洗濯に利用したお金さえいただければと……」
ジェインの言っていた「代金」とは、クリーニング代のことだったのだ。確かに、クリーニング代で騎士の給料数十年分出すと言われれば誰もが却下するだろう。
その後、ジェインの必死の取りなしでアーノルドの土下座モードは解消された。結婚を申し込むつもりで着てきた一張羅が、既に砂まみれである。
ベンチに座り直したアーノルドはある程度頭も冷えてきたので、改めてジェインに頭を下げた。
「……申し訳なかった、ジェイン。この前の夜のことも、勘違いして君を困らせたことも」
「本当にいいのですよ、アーノルド様」
同じく落ち着いてきたジェインも慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、アーノルドの手の甲を優しく撫でてくれる。
「お互いの誤解も解けましたし、ね?」
「そう、だな。……ありがとう。クリーニング代はもちろん出すし、他に君から何か俺に言いたいことがあれば何でも受けるよ」
「言いたいこと?」
ジェインはぱちくり瞬きする。そして暫し考えた後、ぽんと手を打った。
「それじゃあ……私からアーノルド様に、二つお願いが」
「ああ、何だ?」
「ひとつ、これからお酒を飲むときには、アルコール度数などをきちんと確認なさりますように」
「あ、ああ。それは俺も思っていた」
「お願いしますね。あと、ふたつめ」
そこでジェインはアーノルドの顔をのぞき込み、ふふっと笑った。
「……責任とか代償とか、そういうのを全部なしにして――いつか、私を迎えに来てくださいね」
「……は」
アーノルドは、思わず呼吸を止めてジェインの顔に見入った。
ジェインの言葉の意味が分からないほど、アーノルドは鈍くない。
「……待っていてくれるのか? こんな俺の言葉を?」
「ええ。ただ、今度はちゃんとあなたの言葉を聞かせてくださいね?」
「……ああ、もちろんだ。君を迎えに行ける準備を万端にしてから――必ず」
「ええ、待ってます」
ジェインが笑う。アーノルドも、ふっと頬を緩める。
愛する人に捧げたい言葉は、
「責任を取るから」ではなく、
「愛しているから」でありたいから。
侯爵家嫡男であるアーノルドが、周囲の反対やあらゆる圧力を叩きのめし、皆の理解を得た上で男爵令嬢を妻に迎えるのは、もう少し先の話。
彼はその後父親の跡を継いで立派な侯爵となったが、可憐な妻には一生頭が上がらなかったという。
お酒はほどほどに