逃げた
私には何が起きたのか分からなかった。
そこは一般道から畑と畑の間に入って行くT字路で軽トラ一台が倒れるくらいの幅の道だった。
その曲がり角を曲がったはずがりんごの木で死角になっていた何かにぶつかり前輪が宙を舞った。
どうすることもできずに勢いはそのままにスローモーションで自転車は数メートル横転を繰り返し畑に突っ込み私は本能的に手をつきアスファルトの上で滑って停止した。
全身に痛みが走った。
そして掌と膝の擦り傷の痛みが強く残った。
何故こうなったのか手で傷を抑えながらゆっくり振り向くと男の人が仰向けになって倒れていた。
傷の痛みは無くなった。
血の気が引き両手で口を覆って慌ててその人の元へ駆け寄った。
「大丈夫ですか!大丈夫ですか!」
無反応だった。
「嘘…やだ」
目立った傷もなく出血も見られないが目は閉じたまま。
男の服は無地の白いTシャツ一枚にポケットが沢山ついた薄い茶色の長ズボンを履いていた。今の衝撃でなのか所々汚れて穴も開いている。
しかし男をよく見るとそれは違う気もした。
髪の毛は乾燥したワカメのようで前髪は鼻付近までは伸びていて顔がよくわからない。
下から顔を覗き込むと、頰、もみあげ、顎の下まで髭が栄えていた。長さは大したことないがその面積と髪の毛に葵は大きな不潔感を抱いた。以上のことから普通の生活を送ってないことは推測できた。
正直、街で見かけても絶対に近づきたくないがそんなこと言ってられない。
このまま立ち去ってこの人が還らぬ人になってしまったら殺人犯になってしまう。
確かにぶつかった感覚はあった。時間に余裕がなくて急いでいたことも事実。こんな狭い道をスピードも落とさずに安全確認もせず曲がったことを悔やみ、家に電話をした。
電話を切りアスファルトの上で腰を下ろすと同時に涙が頬を伝った。
すぐに聞き慣れた軽自動車の吹かしたエンジン音が聞こえてきて私と被害者のいる曲がり角の手前で急停車した。
飛び出してきた両親に目をやることなく泣いたまま被害者に寄り添った。
「バカヤロー!何やってんだ!」
こんなに怒鳴られたことは久しくなかった。
涙はさらに大粒になった。
「ちょっと!それどころじゃないでしょ!葵は大丈夫なの?」
溢れる涙を手で拭いながら頷いた。
舌打ちをしたお父さんは男の顔に顔を近づけた。
「おい!あんた!大丈夫か!」
お母さんは後ろで前かがみになり様子を見た。
「どうする?救急車呼ぶ?」
「いやちょっと待て」
お父さんは一瞬男の眉間にシワが寄ったのを見逃さなかった。
「あ」
そして指が微かに動いたことを葵が確認し、鼻をすすりながら指をさした。最悪のシナリオは回避できた安心感からか涙も止まった。
「大丈夫か?」
ついに眠たげな目がゆっくり開いた。
「ん…」
「あー良かった良かった!」
お母さんは私を抱き締めながら喜び、お父さんは肩の力が抜け大きく深呼吸した。
「立てるか?」
「…ら…へ…」
かすれた声が二文字だけ聞こえた。
「らへ?」
3人は顔を見合わせそれぞれ首をかしげた。
「は…ら…へ…た…」
お父さんは上半身を起こしお母さんと肩を貸して立たせ車まで歩かせた。
自力では立てないものの大きな外傷はなく衝突のショックと空腹で気絶していたらしい。
男を後部座席に座らせ母親が隣に寄り添った。
全員乗ってしまうと自転車が積めないため私は歪んだ自転車を押しながら歩いて帰ることとなった。
なんてことをしてしまったのか。
南海はもちろん伊織とABCには申し訳ないが今日は行けなくなってしまった。
南海にキャンセルのメッセージを送ったが今は理由はとても話す気にはなれなかった。
それだけではなくどこの誰かもわからない不潔な男を家で事故のお詫びをしなくてはならない感じだ。
潰れそうなほどの気の重さに溜息は止まらなかった。
定位置に自転車を停めいつものただいまはなくして家に入った。
居間では男が物凄い勢いでカレーライスを食べていた。髭にはカレーやご飯がこびりついていて食べ方まで汚かった。
その正面に両親が並んで座っていた。
お父さんはともかくお母さんよくあんな近くで見ていられるなぁ。
「お、帰ってきたか。こっち来い」
先ほどの怒鳴り声の面影はなくいつも通りの声のトーンでお父さんが呼んだ。
「おかえりなさい。手当てしてあげるから洗って来なさい」
「うん」
しみる痛みを我慢して傷口を洗い流しタオルで拭いてから居間に行きお母さんの隣に座った。
男は最後の一口をスプーンでかき集めているところだった。
「あーんまい!生き返った!」
「本当にうまそうに食うよな!」
「こんな物で良かったらいくらでも食べてください。おかわり持ってきますよ」
「え?いいんですか?」
「もちろん」
お母さんは食べ終えた皿を持ちキッチンへ向かった。
男は短い袖で口周りの食べかすを拭いた。
とてもじゃないが見ていられなかった。
「あ」
ようやく気付いたようにこっちを向いた。乾燥したワカメで片目はほとんど見えない。
「大丈夫だった?」
下を向いたまま頷いた。
「はい」
「いやぁ本当に娘のせいでこんなことになっちまって申し訳なかったなぁ」
お父さんはあぐらをかいたまま膝に両手をつき頭を下げた。
ちょうどお母さんが二杯目のカレーを持って来てテーブルに置き正座して頭を下げた。
「ごめんなさいねぇ」
「ありがとうございます。いえいえーなんかこんなおいしいカレーいただいちゃって逆に申し訳ないです。それとは関係ないんですけど…実は2,3日何も食べてなくて」
男は笑ってごまかした。
要はもうそういう人って確定ということだ。
「おうよ。好きなだけ食べていけ!」
お父さんが敬語を使わないように男はよく見ると意外に若そうだ。30代っていうところだろうか。
男の顔をよく見ると顔の大部分は髪の毛と髭で隠れてはいるものの皴は見当たらず声だって男性にしては高めで子供っぽい印象を受けた。
「おい、おめぇもしっかり謝れ」
腕を組み少し厳しい顔でこちらを見てから男を顔で指した。
勇気を出して男を見ると男はスプーンを置き目が合ったがたまらずそらしてしまった。
「さっきは…先ほどは本当にすみませんでした」
男は小刻みに首を振り両手の掌を葵に向けた。
「ううん、こっちこそ空腹でふらっふらで。ごめんねなんか家までお邪魔しちゃって。何かお礼できればいいんですけど何もなくて」
男は頭を掻いて言った。
やめて、何が落ちるかわからないんだから。
「いいのよお礼なんて。危ない思いをさせてしまったんだから。本当に無傷でよかったです」
「娘さんの方が重症ですよ」
救急箱を棚から取りお母さんが患部を消毒し絆創膏を貼りさらにその上にガーゼを巻いてくれた。
「自業自得です。お風呂まで巻いときなさい。あ、お食事中ごめんなさいね」
「ほんとな、お前自転車しばらく禁止だからな」
無視してお父さんが見えないお母さんの隣に座った。
一杯目と同じペースで二杯目を食べた男はこれまた二杯目の麦茶をごくごくと大きな音を立てながら飲みほした。
「あー、麦茶までうまい」
「飲んでけ飲んでけ」
優しい目で父親が言った。
「もうお腹いっぱいです。本当に本当にありがとうございました」
男は深々と頭を下げた。
乾燥したワカメがまとまってお辞儀をする。ホラーだ。
そしてテーブルに手をつき左右に揺れながらゆっくりと立ち上がった。
初めて見た立ち姿は予想よりも大きかった。
襖の淵に頭が当たりそうでこれはお父さんよりも15㎝ほど大きいことを意味した。
「行くのか?送るぜ」
男は目が泳いで頭を掻いた。
「あー…ありがたいんですけどね…遠回しに言うと家がないっていうか…」
全く遠回しではないことにあきれて笑いそうになった。
「そうか」
そうかで納得するか?
「では僕はこれで」
男は目だけ笑って玄関へ向かおうとした。
「おいあんた、2,3日飯食ってねぇって言ってたけどよぉ…」
「はい?」
「2,3日風呂も入ってねぇんじゃねぇのか?」
いやそれどころじゃないでしょ!心の中で突っ込み、笑いをこらえた。
「ああ…ばれちゃいましたか」
男は苦笑いをして、私も母親もクスクス笑った。
がしかし!察した。お父さんを鋭い目つきで攻撃した。
「入ってけ」
見向きもせずにお父さんは座ったまま腕を組んだ。
男は無表情のまま振り返った。
「え?」
「母ちゃん、風呂すぐ入れるだろ?」
「ええ、大丈夫ですよ」
お母さんは笑顔で男を見た。
私は小さく溜息をしてまた下を向いた。
お父さんだってギリギリなのにソレ以外の異性と同じ浴槽を使うなんて冗談じゃない。なんでそこまでしてあげる必要があるのか。なんでそこまで親切になるのか。
お母さんにまで怒りを覚えた。
「いやいやいやいやそれはさすがに」
おでこや眼の下を小刻みに掻きながら苦笑いして否定する男をお父さんは無視し見てるこっちが幸せになる笑顔で続けた。
「タオルと着替え出しとくからな」
「そんな…」
お願いだから断って。
そんな気持ちが顔に出ないように男を見つめた。
目を閉じて眉間にしわを寄せながら考えていた。
2階へ行き来していたお母さんの足音が途絶え再び居間に現れた。
「お風呂場にタオルと着替え用意しておきましたから。うちのお父さんのですから少し小さいかもしれないですけど」
お母さんは右手でお風呂場の方向を案内した。
「一番奥のドアな」
男はお父さんとお母さんを交互に見つめ泣きそうな顔になり深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ああ」
「ごゆっくり」
男は縁に頭が当たりそうになるのを猫背になり回避しのそのそと居間を出て行った。
お風呂場のドアが閉まった音が聞こえるとついに私は異議を申し立てた。
「ちょっと!」
お父さんはテレビをつけようとリモコンを持った瞬間に私はテーブルをグーで叩いた。
お母さんはカレーの皿と麦茶が入っていたコップを持ったところで止まってこっちを見た。
「なんだよ」
「どうしたの?」
お父さんはリモコンをまたテーブルに置き私の態度に真っ向勝負するつもりで厳しい表情で見た。
お母さんは優しい口調で心配するように問いかけた。
「なんでここまでしなきゃいけないの?」
鋭い目つきでお父さんを横から見て言った。
「よく考えろ。悪いのはこっちなんだぞ?」
「それは分かってるよ。でも夕飯もお風呂も関係ないって言ってるの!」
「なんで関係ないんだ?」
「だって別の話じゃん!ぶつかっちゃったことは全部私が悪いよ。でも謝ったし怪我もなかったんだからそれで終わりじゃないの?」
興奮が収まらない私を見兼ねてお母さんは慌てて食器を置きテーブルの向かいに正座して2人の戦況を見守った。
「お前なぁ…悪いのはこっちだしそんな出てけみたいな言い方ないだろう」
「そうじゃなくて!もうそのことは終わりだって言ってるの!」
お母さんは目を閉じて腕を組み大きな溜息をついた。
まだ私の目つきは変わらなかった。
「葵の気持ちはよく分かるよ。でもお風呂とご飯ぐらいいいでしょ?」
いつもの優しい語り口調で母親が入った。
矛先はお母さんに向ける。
「やだよ!お風呂なんて家族以外入ることないし!」
「あんな格好なのは引っ掛かるけどあの人すごくいい人だとお父さんとお母さんも思うの。だって車の中で声もまともに出ないのにずっと葵のこと心配してたんだよ。ご飯とお風呂ぐらいいいでしょ?」
頭の中がぐしゃぐしゃになった。
自分は悪者なのか。
非常識者なのか。
ただ、言い返せなかった。
「もういい!」
一目散に階段を駆け上がり、自分の部屋に入った。
勢いよく閉まるドアの音が居間まで聞こえお父さんの小さな舌打ちが聞こえた。
「なんだアレ」
「お年頃なんでしょうね」
「ってかあんなに男が苦手なんだな」
「みたいね。少し経てば大丈夫でしょ。お風呂上がったらお茶くらい飲んでってもらいましょうか」
「だなぁ」
お父さんはテレビをつけお母さんは台所で洗い物と3人の夕食とお茶の準備を始めた。
私は蒸し暑い部屋のベッドで仰向けになってスマホ弄っていた。
扇風機を首振りにし頭から爪先まで強の風が行き届くよう距離を調節した。
男がカレーを食べていた時間に南海からのメッセージが来ていた。
(えー大丈夫?みんな心配してたよ。残念だけどまた遊ぼうね。学校でね)
返信を途中まで打って指は止まってしまった。やっぱり今はとても話す気になれない。
月曜日学校で会えば謝るし理由も説明する。
溜息は今日何回目だろうか。
部屋のドアがゆっくり開いた。
「ご飯よ」
お母さんは何事もなかった様にいつもの笑顔だった。
仰向けになりながら雑誌を読んだまま見向きもせずに答えた。
「…あの人は?」
「お父さんと話しながら今お茶飲んでるよ」
「まだいるんだ」
「飲んだら帰るんだから見送りましょ」
「…うーん」
渋々起き上がり階段を半分くらい降りると楽しそうなお父さんの話し声と相槌を打つ男の声が聞こえて来た。
「半端じゃねぇんだ」
父親はビールの入ったグラスを右手で持ち左手で大きめの皿に大盛りになっている枝豆をつまみ景気の良さそうな話を進行していた。
「それはそれは」
男も枝豆を食べつつお茶をゆっくり飲んでいた。
直ると思っていた乾燥したワカメはそのままで男は重度の天然パーマらしい。
「あ、お風呂ありがとう」
居間に入ると男はすぐに気付き笑顔でお礼を言った。
一瞬目を合わせ頭を少し下げた。
「あ、いえいえ」
カレーはお父さんの前にだけ置かれあとは冷やし中華が二つ並んでいた。
もちろん男から一番離れた席に座った。
「なぁ葵!」
「何?」
「さくら先生さ」
「先生がどうかした?」
「綺麗だよな」
またさくら先生の話かと軽蔑の目でお父さんを見た。
週一のペースでさくら先生は会話に登場してきた。
「はいはい」
「お母さんより綺麗なんです?」
お父さんはグラスを口に持って行きかけたところで吹いた。
「ねぇ汚い!」
「そうだなぁ…全盛期の頃も…ボロ負けかなぁ」
「何が全盛期なの?」
お母さんがポットを持ってきてポーカーフェイスで再びビールを一口飲むお父さんの隣に座った。
「ゆっくりしていって下さいね」
「あぁどうも」
全員揃ったところで松永家の食事が始まった。
何と男はカレーを二杯食べているのにさらに冷やし中華も平らげてしまった。
すごい食べっぷりで誰よりも早く食べてしまった。
好物の冷やし中華もこの日は味がしなかった。
会話はお父さんが男に常に話題や質問を投げかけ、その回答をお母さんまで親身になって聞く。そんなパターンだった。
さっさと帰ってくれるの願いテレビを見ながらそれを話半分で聞いていた。
「そういやあんた名前なんてんだ?」
「あ、聞いてなかったね!」
お母さんまでこの男に興味が湧いてきている様に感じた。
「あ、蓮です。奈川蓮といいます」
「蓮かぁ…かっこいい名前だなぁ」
お父さんは遠くを見る様な目で天井を見つめた。
「格好いいね」
母親は父親と会話に参加してない私を見た。
「うん」
「年いくつだ?」
「27です」
私はテレビを見ながらピクッと耳が反応した。予想よりも若かった。
とはいえ、さくら先生と二つしか違わないのはとても信じられない。
「若いなぁ」
「羨ましい…」
「そういえばこの家の苗字って…」
蓮と名乗る男は両親を交互に見た。
「松永だ。俺が春樹で母ちゃんが葉子、んで娘が葵」
蓮と名乗る男と私がまた目が合いお互い苦笑いして会釈をした。
気まずくてしょうがない。
なんで今更名前を教えるのかは不思議だった。
「そうなんですか、松永さんでしたか。一生忘れません」
「なぁにを大げさな」
お母さんとお父さんだけ笑った。
「僕みたいなのにこんなことまでしてくれて…仲良くさせていただいて…本当に……」
蓮と名乗る男の声はみるみる小さくなっていき正座したまま下を向いた。
泣いちゃうんじゃないかと顔を見たがやはり確認できなかった。
蓮と名乗る男の様子で会話は途切れ、このお礼を最後に帰るんだろうなと感じた。
最後くらいもう一度謝ろうとタイミングを伺う。
「なぁ蓮くんよぉ。俺らずっと気になってたんだけどよ」
「はい」
蓮と名乗る男は顔を上げ前髪を左手で目からどけてお父さんを真剣な眼差しで見た。
そしてお父さんは最後の質問をした。
「何があったんだ?」
「え」
蓮と名乗る男は表情を変えずに質問の詳細説明を待った。
「数時間の付き合いだけどよ、蓮くんしっかりしてるよ。礼儀正しいし芯の通った男ってのはよくわかる。おまけにそんなに若いじゃねぇか。なんでそんな生活してるんだ?好きでやってるわけじゃあるめぇ」
私は気付くと顔だけでなく体も蓮と名乗る男の方を向いていた。
それだけは気になる。それだけは答えてさっさと帰ってほしい。
親子3人の疑問はもちろん同じだった。
「あ、無理に答えなくていいのよ、人間言えないこともあるものね」
目が泳いでる蓮と名乗る男を優しくフォローした。
「いえ、隠したいことなんて何もないですよ。ただ、怒られちゃうかなみたいな」
いろんな可能性を考えた。
こんな生活しているのはやはりそれなりの理由があるに違いない。
家を追い出されたとか物心つく頃からこんな生活を続けてきたとか。
何にしろ可哀想は可哀想だった。
見てくれだけで事情も知らず毛嫌いしていたことに少し反省した。
しかし蓮と名乗る男は奇妙なことを前置きした。
怒られるって犯罪を犯して逃亡中だなんて言わないことを願った。
「怒るわけあるめぇよ」
先程から呂律がおかしくなっている父親が言った。
私と母親は息を飲み蓮に注目した。
「…逃げたんです」
3人は数秒間固まった。
まさか私の予想が当たってしまったの?
「は?」
「え?」
3人の頭に大きなはてなマークが見えたであろう蓮と名乗る男はテーブルを見ながら続けた。
「辛いところから逃げたんです」
3人は言葉が見つからなかった。
ただのわがままにも聞こえるけど。
「僕親がいなくて親戚に育てられたんです…
~~~~~
実の母親は物心つく頃にはもういなかった。
結婚もせず子供を授かって産んだはいいもののまた新しい男と一緒に暮らすと言ったきり帰ってくることはなかった。
同じ家には2つ上の男の子も一緒に暮らしていたがよそもの同然の蓮への扱いはひどかった。
食べ物は良いものは全てあっちに食べられてしまい常におなかが空いていた。
同じことをしても怒られるのは蓮だけで暴力なんて当たり前。
嘘をつかれて何を言っても信じてもらえない。
そんな日々だったから早く中卒で働いて少しお金が溜まったらこの家を出ようと決断した。
そして中卒で働いて1年、ついに家を出る。
安いアパートを借りて何とか生活をしていた。
12年後のある夜、インターホンが連続で押される。
ドアを開けると焦った顔のバカ息子が息を切らしていた。
もう関わる気はなかったが
「お前の力が必要なんだ。助けてくれ」
と何の説明もないまま無理やり古いビルに連れて来られ事務所のような部屋に入るとスーツを着た中年の男がニヤついてこっちを見る。
バカ息子はこいつですとだけ言ってその部屋を後にした。
来たこともない場所に会ったこともない男に訳が分からない。
じゃあ行こうかとニコッと笑って立ち上がる男にどこへですか?なんなんですか?と聞くと
え?何にも聞いてないの?
と説明が始まった。
バカ息子はここで借金をして返せなくなったと。
紹介するところで働いて返せばいいと。
保証人は蓮になっているとバカ息子は説明したと。
ここで働いて借金を返せばまた自由になれる。
何せ逃げれる雰囲気ではなかった。
渋々車に乗ると来た事もない山奥へ。
そしてボロボロの小屋の前で車を停められて、その小屋から出て来た親方らしき人物の指示に従うよう言われ金貸し屋は帰る。
その小屋には蓮の他に5人住んでいたがどいつもこいつもやる気も愛想もない連中だった。
仕事は重労働。道路やトンネルの補修工事だったが仕事になると親方は人が変わったように作業員に怒鳴り散らす日々が続いていた。
ひどい生活だった。
部屋はかび臭く、暖房も冷房もない。
シャワーは1週間に一度。
食事は朝と夜の2回、カップラーメンだけ。
ここがどこかも知らされず下山は許されない。
そして待ちに待った給料日。
20万円と書いてある封筒に入っていたのはなんとたったの2万円。
慌てて問い詰めると食費、光熱費、家賃を引かれていると。
計算すると借金を返し終わるのに60年。
そしてその一週間後、親方を含め自分以外全員クスリをやっていることが発覚。
まともな奴は1人もいないしいつまでもタダ働きをさせられる。
逃げるしかない。
見張りは常にいる。
逃げるなら仕事中、トイレに行くと言って逃げるしかない。
そしてついにそれを実行した。
道を歩くと必ず車で追いかけて来られ捕まる。
山奥を草木の中をひたすら同じ方角に進んだ。
すぐに叫び声と自分の名前が山中に響いた。
逃げる音で気づかれてしまい数十メートル先の同じ部屋の連中と目が合ってしまう。
しかし山では崖があったり渡れないほどの川があったり直線的に逃げることができずついに回り込まれて挟み撃ちされてしまう。
…殺される。
殺されるくらいならと反射的にとった行動は大きい木の棒と石での応戦だった。
木の枝は親方の頭をかすめ出血し倒れこむ。
石を残りの全員に命中倒れこむ。意識のない奴もいた。
ダメージは分からないがそのまま逃げることに成功した。
3日後、ついに山を抜け出し出た町がここだった。
アパートも差し押さえられている可能性があるから帰れない。
~~~~~
気づけば私も身を乗り出して話を聞いていた。
なんて壮絶な人生だったんだろう。
まるでドラマや映画の世界みたいだった。
この人は逆にもし今日の事故がなかったらどうなってしまったんだろう。
なんかまるで私が助けたみたいだ。
冷静になって考えると浮かんだ一つの疑問をお母さんが代弁した。
「それって…警察に…」
蓮は下を向いてゆっくり顔を横に振った。
「もしかしたら俺が逮捕されるかもしれないんです。でもああするしかなかった。だからいいんです。あとは誰にも迷惑かけずに死ぬだけだって。でも結局皆さんに迷惑かけてしまいましたね」
「何言ってんだよ」
まぁお父さんに同意して小さく頷いた。
「そんな経験してたなんて…信じられねぇよ」
父親の声のトーンが少しずつ大きくなっていった。
横目で見るとなんだか嬉しそうだった。
「蓮くん!気に入った!あんたさえ良ければ好きなだけ家にいろよ!」
蓮を見て固まった。
思い切りテーブルに頭突きしたいのを我慢して。