かくしてレニくんの没落は始まった
鳥かごに閉じ込められて、さっぱり出してもらえないまま1時間が過ぎた頃のこと。
部屋に戻ってきた友人の果音ちゃんが、
「レニくんはようせいさんだからトイレいかないよね?」
と訊いてきたものだから、つい
「うん」と答えてしまった。
果音ちゃんは今をときめく女子小学生だ。毎日悩みもなくふんふん鼻歌を歌いながら学校に行って勉強し、帰宅後は仲良しの桜楽ちゃんといろんなことをして遊んでいる。TVゲームやアイドルごっこ、少女漫画の真似やお絵かき。外に出てバトミントンをすることもある。
妖精の僕がどうして果音ちゃんのお部屋にいるのかというと、妖精は人間のような大きい生き物の生体磁場を使って、体調をセンシングしなければならないからだ。これを怠ると自在に飛ぶことができなくなって、風にさらわれ、流れ流れて低気圧のど真ん中、あるいは海の上なんてこともありえる。噂によると妖精の八割強は溺死でお陀仏になっているらしい。大きな生き物に看取られて天寿を全うするのは難しいことなのだ。
何故って、生き物には機嫌というものがある。機嫌がよい、リラックスしているときは脳内電波がポンポンポンと穏やかに規則正しく出るので磁場が安定する。逆に機嫌が悪かったり変に興奮しているときはザキザキザキと切り裂くような電波が出て、磁場がめちゃくちゃになってしまう。羽がビクビク勝手に動いて、頭は痛いし体はしびれるし、とっても辛い。人間の大人はたいてい機嫌が悪いので、僕らは子どもの側にいることが多い。
「ほんとう?」と果音ちゃんは首をかしげる。
「さらちゃん言ってたよ。ようせいさんはケーキを食べる、ケーキを食べるってことはトイレにもいく。でないと世界を動かしているエントロピーのほうそくとようせいさんのそんざいがむじゅんしてしまうって言ってたよ?」
「果音ちゃんエントロピーって何か知ってる?」
「しらない」
「矛盾は?」
「しらない。さらちゃんむずかしいアニメ見るの好きだから、いつもそんなことばかり言ってるの。マミさんががいねんになるとか。がいねんってなんだろうね?」
「特定の波形を持つ電波の塊だよ。ブロックみたいに組み合わせるといろんなことができるけど、たいてい磁場にいい影響を与えないからあんまりものを考えちゃダメだよ。分かるかな?」
「わかんない。ねー、レニくんはトイレにいかないんだよね?」
「うん」とつい答えてしまった。
僕は乙女か? 妖精だってトイレに行くと言ってしまえばいいものを。トイレに行くのを認めたくないと思うこの気持ちはなんなんだろう。まさか、恋?
「そうだよねー、トイレにいったらネコちゃんワンちゃんといっしょだもんね。トイレにいくようせいさんなんてただのペットだよー」
「ぐはっ」
なるほどそうだったのか。この気持ちの正体は犬猫なんかと一緒にされたくないと思う高知能生物としてのプライドだったのか。
「か、果音ちゃん、トイレの話なんか置いといてさ。そろそろ説明してくれてもいいんじゃない? なんで僕、お昼寝から起きたら鳥かごに入れられてるのかな?」
僕は話題をそらしがてら、深く考えたくなかった「なんかよくわからないうちに鳥かごに閉じ込められている」という状況に向き合うことにした。
ステンレス製のかごは固く冷たく、どんなに力を込めても出られそうにない。かごの中にはペットボトルを逆さまにしたような水入れと、山盛りのプチケーキが入っている。他には何もない。ベッドすらない。
「あのね、さらちゃんがね、レニくんがほんとにトイレにいかないのかたしかめたいんだって」
「え? どうして?」
「ようせいさんがエントロピーのほうそくに反したそんざいだとしたら世界のほうかいを食いとめることができるかもしれないの」
「果音ちゃん、それってどういう意味なの?」
「わかんない。とにかくレニくんがトイレにいかないことが世界をすくうためにひつようなことなんだって」
「えー……」
「だから、3日ぐらい鳥かごに入っててね。ごはんいっぱい入れておいたから、だいじょうぶだよね?」
「いやでもね果音ちゃん、こんな狭いところに3日も閉じ込められたらストレスで僕死んじゃうかもしれないよ」
「ごはんもお水もよういしたのに死ぬの?」
「確率の問題だけどね。まあ死ぬんじゃないかな。どちらにしてもこんなところに閉じ込めるなんてしちゃいけないことだよ」
「だってごはんとお水があったらこまらないでしょ?」果音ちゃんは算数の問題でつまずいているクラスメイトを見るときのような冷たい目で僕を見つめてくる。――なんでこんなかんたんなことがわからないの?
「妖精はごはんとお水だけじゃ生きられないんだよ?」僕は辛抱強く説明することにした。「もっと穏やかな気持ちを持った大きな生き物と一緒にまったりとくつろいで……」
「ごはんとお水があるのになにが気に入らないの? せっかくたいへんしてよういしたのに、おこるの?」
「怒ってないよ。怒ってないけど――」
「もういいもん」
だんだん拗ねてきた果音ちゃんの周囲の磁場が乱れてくる。ザキザキザキ――。頭が痛い。割れそうに痛い。
「か、果音ちゃ……機嫌なおして……わかった……わかったから……」
「じゃあ3日ぐらいそこにいてね。おトイレしないってわかったら、出してあげるからね」
――まじで?
○
日が暮れてからもうどれくらい経っただろう。
「あっ、あっ」
もう漏れる。ダメだ。死にそうだ。
「果音ちゃん、果音ちゃん!」
いくら呼びかけても果音ちゃんはぐっすりと眠りこけている。鳥かごに隙間はなく、鳥かごの中にトイレはない。
「なんで僕がこんな目にあわないといけないんだ! 助けて! 助けてよ! 妖精だってトイレに行くよ! トイレに行かせてよ!」
――返事なし。
もうダメだ。漏れる。死にたくなったが、死んでもどうせ体が緩んで漏れてしまうことだろう。
「この僕が……齢40に届こうかというこの僕が……」
そんなことはあってはならない。しかしそうなるしかない。世界を支配しているエントロピーは絶対なのだ。
「ひ……ふひ……」
あまりのことに引きつけを起こしてしまったせいで、少しだけ便意が収まった。このまま3日間痙攣し続ければいいんだろうか。
「あーあ、見てられんなぁ、妖精はん」
気がつくと、鳥かごの檻の向こうに一匹のハエの姿があった。体は黒く目は赤い、由緒正しきイエバエだ。
「な……ん……」
「返事する余裕もないんでっか。ほんならまあワテの話だけ聞いといてもらえます? あんたこれから漏らしますやろ。そしたらその漏らしたもんもらおう思いますんや」
「……ふ……ざけ……」
「仲間30匹ぐらいで綺麗に掃除したりますさかい、後には何にも残りまへん。きれいきれいのさらさーてぃーですわ。そやから果音ちゃんにはトイレしたてバレませんで」
「……」
――渡りに船だ。
ハエなんて汚いし不気味だし付き合ってもいいことなんてないと思っていたが、この極限状況ではこれ以上頼りになる奴もいない。
「た……たの……」
「ただし」イエバエは揉み手をしながらもったいぶってくる。
「あとでワテのお願い、1つなんでも聞いてほしいんですわ。白紙委任状っちゅーやつやね。果音ちゃんに汚物を見られるよりはマシでっしゃろ?」
「なん……でもぉ……?」
「恥ずかしいの嫌なんやろ? 高知能生物はん。プライド一つでそこまでトイレを我慢できる、なるほど妖精はんは聞きしに勝る誇り高い種族でおまんなぁ」
「……く……弱みに……つけこむのか……」
「そらワテらはそういう概念ですからな。筆頭のベルゼブブ様が堕天してこのかた、ずっとこうやって糊口をしのいできたわけですわ。さあ、どうします。あんたが漏らすのは確定事項。妖精の汚物を見てしまった果音ちゃんはショックで機嫌が悪くなり、あんたは羽をもがれたまま空に捨てられる。これが2つめの確定事項や。ワテと契約したら、2つめだけは防ぐことができまっせ?」
――まさしく、悪魔の誘いだった。
僕に選択肢などない。もはやこれは生きるか死ぬかの問題なのだ。妖精なんて子どもの機嫌一つでどうとでもなってしまうか弱い生き物なのだから……。
「……わか……たよ……」
「ほんなら漏らしなはれ」
催促するイエバエは、いつの間にか30匹ほどに増えていた。鳥かごを取り囲み、揉み手をしながら、無数の複眼をギョロつかせてニヤニヤと僕を視姦する。
「あ……ああ……」
臨界だ。
――どうし、ようもない。
「ああああああああああああああああああああああああああ」
懸命に音を悲鳴でかき消そうとしたが、
「ふふ」「ええ音しまんな」「けけ」「身ぎれいにしてる妖精もひとかわむけばこのザマ」「おーおー、派手にやっちゃってまあ」「明日からどんな気持ちで生きていくんだろうねぇ」「よかったねぇ一生消えない思い出ができたね」
ハエたちの雑言が、磁場から羽と背中の神経を伝って体を突き刺してくる。
自分でも嫌になるぐらい、何もかもがはっきりと聞こえた。
○
「ね、さらちゃん、ようせいさんはほんとにトイレにいかないんだよ」
「すごいわ。これで世界は救われる。エントロピーがもたらす絶対零度の終焉から救われる鍵こそが妖精なのよ」
果音ちゃんは4日目に桜楽ちゃんを部屋に呼んできて、水もプチケーキも空っぽになった鳥かごの中を見つめて喜び合った。磁場もすっかり安定を取り戻して、快適だ。
「さあ、もう分かったろ。そろそろ鳥かごから出してくれよ」
「うん。いま出してあげるね」
果音ちゃんがようやくかごの鍵を開け、僕は久方ぶりに娑婆に戻ることができた。
「いいかい二人とも、人間だろうと妖精だろうと、自由意志を持つ生命体をこんなふうに閉じ込めちゃいけない。それはその生き物を奴隷にするってことなんだ。分かるね?」
「わかんない」
「いいから世界の崩壊を防ぐために協力しなさい」
この子たちは……。
いや、間違っているのは妖精という種族なのかもしれない。自分よりもはるかに巨大な生き物の側にいなければいけないという、存在論的な理不尽さ。この生命としての仕様を塗り替えないことには、妖精に安息の日々が訪れることはないのだ。
そして再び、夜が来る。
「待ってたで、レニはん」
屋根裏にあるハエの住処に招かれて、僕ははだかで立たされていた。
「なんやもじもじして、どうやらワテの口が忘れられんかったみたいやな?」
思い出すだけで体がびくりと引きつってしまう。
「尻についたのも舐めな尻隠さずや」と言いくるめられ、檻の隙間からおしりを突き出して、
ブラシ状の口でペロペロされた途端に、僕の何もかもが、変わってしまった。
変えられて、しまった。
「ワテが何をお願いするか、もう分かってるな?」
「……はい」
僕はおかしくなってしまった。
もう、あのびっしりと毛が生えたブラシ以外、何も目に入らない。
あんなに小さな磁場の振動なのに、逃れようがない。
なんて魅惑的な――。
三題噺「虫・妖精・魅惑的なトイレ」ジャンル「王道ファンタジー」了