喝采を享ける訪い人
(前日譚)
世の若輩共の処分場とやらの実在を耳にして、こうして私――飛鳥のみなは独り古城の門戸を叩いた。円環体の取っ手を文字通り扉に打ちつけると、空しくコンコンという反響音が返ってくるだけで、誰何する声も聞こえない。これを拒絶ととるか容認ととるか。
「まぁいいや……とにかく暫くはここに逗留させてもらわないと」
私は鍵のかけられていないのを半ば確信して門扉をこじ開ける。
「うわっ、なんだこの天井っ」
と這入ろうとした瞬間、極度に低い天井に頭をぶつけそうになる。木製の玄関扉は所謂観音開きで屋外に向けて開くのだが、門扉の全長よりも天井の方が低いために、外側から見ると石造りの内壁が矩形の看板となって露出しているのだった。
そう、石彫の看板――『旄倪堂』という名称がそこに力強く刻まれている。しかしこんな変哲な呼び名、どこの日本人が命名たのだろう……?
「ヴェラ……? そこにいるの?」
私が扉の前で突っ立っていると屋内の薄闇から、突然幼気な男の子が襤褸をまとって現れる。布きれの上からでも分かるくらいに痩躯で、殊勝な顔つきが何ともいじらしい。
「あっごめんなさい、人違いでした」
「私は飛鳥のみなっていうんだけれど……電信が届いてはない? 今夜はここに宿泊させていただくという旨で」
「いえ、そんな近代的なモノはここには……。あぁ、もしかして今朝届いた書簡のことでしょうか」
「たぶん、そう……内容は如何?」
「残念ですがぼくたちは文字が読めないので――これです」
そう言って衣嚢から取り出されたのはアルミ製の小さな筒で、蓋を外すと中から丸められた紙片がぽすんと出てくる。
「伝書鳩?」
「ご明察です――これが読めますか?」
言って彼は広げた紙片を示してみせる。そこには横書きでこう書かれていた。
「暗号……かなぁ……」
即座には意味が理解らなかったが、十秒ほど凝視していると最後の相似形の記号に明確な違和感を感じて、氷解。
「なるほどね――これ、縦に書いて読めばいいんだ」
「縦に……?」
「そうすれば英語で文章が浮き出てくる。邦訳すると……
〈汝、須臾の某女を歿落より隠匿されたし〉
って感じかな。貞士ならそう訳しそう」
「どういう意味なんでしょうか、それは。易しい日本語で」
「つまり、私――飛鳥のみなを危険な外界から匿ってくれ、という意味」
「ん…………承りました、それであればここ旄倪堂は、今日一晩のみ、貴女の仮寓となります」
そうして漸くこの悪魔的な古城への入城が果たされた訳だが、遺憾なことにこの冗漫な導入部は物語の序章でさえないのだった。
私がこの小説の筆記者である限り――。
私の恋人の蒲生貞士から旄倪堂に行ってきてくれと頼まれたのが九月の下旬のことで、それから三ヶ月を隔てて私は前夜の正午に自宅を出発した。ちょうど小説の執筆が滞っていることもあって何をやっても絶不調に陥るような予感がしたので気分転換にそんな小旅行を思いついたのだ。
「へぇ、飛鳥さんは、小説を書いて暮らしているんですね。すごい」
「最近になってやっと糊口を凌げるくらいになったんだけどね。昔はなかなか執筆に時間がとれなくて大変だったなあ」
あとで聞いて分かったが、この少年は名をドンといい、ヴェラという妹とこの旄倪堂に住んでいるらしい。先刻の彼のつぶやきは恐らく、私をその妹と混同してしまった故なのだろう。
「ここは一階ですが、四隅の螺旋階段を上ることで四階まで行くことができます。四隅にそれぞれの踊り場が集まっている形です」
「二階と三階は単なる通路?」
上方を仰ぐと吹き抜けになっており、その二階分のみが空洞のようになっているらしかった。
「はい。四階からはもちろんちゃんとした部屋がありますから、そこで一夜を明かしてもらえれば、なんて…………」
途端、沈鬱な面持ちで俯いてしまう彼。私はどうしていいか分からずに、聞こえなかったふりをする。きっと故人のことを思い出してしまったんだ――孤児のような相貌をしているし、やはり肉親だろうか――
「お母さん? それともお父さん?」
「え?」
とそこで初めて我に返る彼。私も瞬時に韜晦して、
「いえ、なんでもない――」
気を取り直し、私は正面に佇む台座を認めて彼に再度質問する。
「誰が立つ予定なのかしら……あれ」
黝い台座を指さして問うと、彼は酷く素直に応えてくれた。
「あれには――僕が発つ予定だったんですよ」
真っ直ぐな両目を眇めて、そして彼は小さく言った。
「ヴェラは、今も彼処へ――」
私は彼に連れられて扉口に向かって左方の階段から四階へと進む。螺旋階段は反時計回りにぐるぐると中央の支柱を這うように造られており、内壁には無色のステンドグラスが所せましと鏤められ窓牖の入り込む余地など皆無であった。
「ここが二階、ご覧の通りただの小径でしかありません。次に行きましょう」
一瞥しても判ったが、二階のそれはまさしくただの小径で回廊で、注釈を添えるまでもなかった。一つ付け加えて言うとするなら、天井に脳天が衝かるようなことは幸いにして起こらないということくらいだろう――彼は黙々と段差を踏み越えていき、三階の踊り場で再度一呼吸を置く。
「三階――ですけれど、特に二階とは変わりありません。他の三つの螺旋階段へと繋がっているだけです」
そう言って彼はまた階段を上りだす――のだが、身の丈に合わない段差が徐々に彼の膝を軋ませているようで…………
「大丈夫、きみ……少し休んだほうがいいよ」
「ふぅ……否否、もう着いたので結構です――改めて、ここが四階、飛鳥さんの部屋になります」
眼前に立ちふさがる鉛色の鉄扉を開けると、内部は存外にも狭かった。いや……狭所のように一見見えるだけで、実際にはかなりの床面積があることが窺える。
多分この擬似三角形の不自然に突き出た壁が原因だろう。左右に奥まった稜角も尚更その圧迫感を助長している。
「本当にこんなところで?」
「はい。一応そこに長椅子と、卓子が」
「…………」
まあ泊めてもらえるだけ有り難いので余計な文句はつけないが、それにしたってもっとましな応対があるんじゃないだろうか?
「あぁ、それとこの部屋の鍵をお渡ししておきます」
少年が懐から古びた鍵を取り出し、私に手渡す。
「それは今入ってきた方の扉の鍵で。そこにある扉を開けることは絶対に不可能です――というのは、無理矢理に開けようとして鍵穴を壊されては僕たちも困るので。悪しからず」
そんなところにも扉があったのかと一寸吃驚して部屋を検めてみると臙脂色の壁に扉がカメレオンの如く隠れているのに気づく。
「この先には――?」
「空虚しかありません。どうか飛鳥さんは、金輪際無関係でお願いします」
私は少量の荷物を床に置いて、とりあえず長椅子に坐ることにする。
「では――僕はこれで」
ガチャリ、と密閉される音がして、詮方ない思料が始まる。
そも、この古城は何の目的で作られたのだろう――大仰すぎる吹き抜けには生活的な滋味など微塵も感じ取れないし、単に装飾的という訳でもないようで……。加えて正式な部屋もここ四階しかないという始末だ。
「四つの尖塔……ね……」
そこに何の意味が包含されているのか、私には分からない。
多分何の意味もないのだろう。動機やら契機やらというものは、時が経てば自然と顕れてくるし時が経てば不自然に忘れられる。そういう人間の気まぐれに振り回されてくれる華奢なお人形さんなのだ。
「眠い…………――」
忙しく思考を走らせる脳髄とは裏腹に、私の躰はあっさりと夢魔を受け容れた――
深更の人家に悲鳴はよく響く。
微妙な硬さの長椅子に横臥していた私は、彼の甲高い悲鳴を耳にして飛び起きた。即座に解錠して部屋を飛び出す。ぐるぐるぐるぐるぐるぐると時計回りに階段を駆け下りて、一階の大広間に出る。でも冥暗すぎて視えない。暫く怯懦に振えて突っ立っていると、漸く夜目が利いてくる。
台座だ。
台座の上に誰かが崩れ落ちている。
流血……滾々と流れる鮮血――誰の血。
誰?
誰か死んでいる?
もしかして彼が死んでいる?
「あ…………」
私の双眸がやっとのことでそれを捉える。
台座の前に縋りついているモノ。
彼の泣哭も私私と聞こえてくる。
「ぅうっ……ふぐっ…………うっ、詰るなよ、ヴェラっ……僕もすぐ往くからっ……そっち側へ…………」
台座の上に屹立――でもなく、柘榴のごとく頭蓋を割っていたのは、酷く矮小な幼女だった。
「誰?」
借問して、理想的な応えが存在しないのを自認して、私はその場に蹲踞る。頭を抱えて。さながら介錯をうけた落ち武者のように、私は自分の後頭部をがりがりがりがり掻き毟る。
漂う瘴気を捕まえて、狂的な安逸を得ようとする。
「誰? 誰っ?」
誰何に意味はない。
盲人でも聾者でも啞者でもない私には、何の意味もなさない。
「いま往くからね――待ってて、すぐに逝くから」
逃げよう。
「逃げよう」
………………………………、…………
(後日譚)
クリスマス当日の始発で自宅に帰ってくると他ならぬ蒲生貞士が書斎で夢日記を書いていた。時刻は既に午後四時丁度。
「どうだった? 旄倪堂は」
躊躇なく迷いなく唐突に豁然と、貞士は私の方を振り返って問う。
「泣いたあとが頬に残ってるよ」
「嘘。ぜんぶ嘘」
嘘だ。あそこには虚構しかない。
私は貞士から顔を逸らしてまた泣いてしまう。
「涙があふれ出てる。何かあったんでしょう」
私は貞士のことを正視できない。おぞましい何かが、貞士の外装を被ってこちらを視ているからだ。
「いいから話してごらんよ……大丈夫、僕は正真正銘僕だ」
「本当に…………?」
「本当に」
簡潔なのは残酷だ。無辜を装おうとしているようで、作為を感じる――けれど、私はこの人がそういう一切を排していることを知っている――
ぜんぶ嘘なのである。
私は結局五階まで辿り着くことができたけれど、果たしてそこには鳩の巣窟だけがあった――所謂鳩舎という代物。
しかして、肝腎の鳩は一羽もいなかった。あったのは容れ物だけで、中には誰もいなかった。
「それにしても……どうやって五階へ行ったんだい」
「え、何故それを――」
「そんなにも今泣き濡れているのに、君がそこへ行ってないはずがないから……まぁ、元はといえば、僕が全部悪いんだけれど」
「どういうこと? お願いだから、判然と説明してよ……」
私は彼に懇願してくしゃりと泣き崩れる。彼はこちらを凝然と少し見つめて、静かに涕泣する私を介抱する。
「大丈夫……もう怖くない。ここはちゃんと現世だ……」
私はそうして暫くの間、彼の膝蓋骨に無意味に齧りついていた。
「件の『旄倪堂』について簡潔に説明しようと思う。誤魔化しは一切不可だ。では。
劈頭、旄倪堂に届いた私信について。あれは僕の筆致に相違ないしそして僕からの手紙であることも間違いない。でも――たぶん彼が、ドンが言っていたような手段では送られてはいない。何故って、伝書鳩というのはどこへでも好きな場所へ飛んでいってくれるワケじゃないからだ。あれは単に鳩の帰巣本能を利用しているだけで、だから必然帰巣先である鳩舎が不可欠になってくる。そして同時に距離が必要になってくる。というか、距離があってこそ、伝書鳩という通信手段に必然性が生じるんだけれど――して、今回の場合、少なくとも僕には鳩を自宅まで輸送した覚えがない。無論のみなにもないはずだ――では何故に伝書鳩は届いてしまったのか……? 解は至極単純だ。ドンという稚い少年が嘘を吐くとは思えないから、答えは一つに収斂する。つまり、僕が直接書いたんだよ。
まぁ、この時点で意味は分からなくてもいい。
またこんなことも言える、のみなが見たという五階の《鳩舎》はそもそも鳩舎なんかではない、もっとおぞましいなにかだ。……大体、天翔る自由人であるはずの野禽があんな採光もできないような密室に引き篭もっていることがまず不自然だ……それに、五階に行くには四階の壁の中を歩かなければならない――というのも、あの平面図には階どうしを繋留する螺旋階段が四つもあった、つまり五階がなければおかしい。図を見れば分かると思うけど、四階からの反時計回りの階段を上るためにはだから、壁の中の空間を通らざるを得ない――とそれを行うためにはまた、右隣の螺旋階段から四階に入らなければならないんだ。だとすると五階の内部は外気をも遮断した気密室でもあるワケだけど、そんな環境で「鳩舎」が機能すると思うかい? 僕はそうは思わない。寧ろ僕はあの密室の中には、年端もいかない孩児や嬰児や童児や小児が、自分がどこにいるかも判らず軟禁されているんじゃあないかと、そんな惨酷な見当をつけている…………。
そして、これでもまだ疑義は残っている――のみなは冒頭で天井の低さに驚いていたけど、二階と三階ではそうでもなかった。もちろん四階もだ。ただ――五階はどうだったんだろう? まぁそれだって所詮僕の創ったちっぽけな伽藍の一部でしかないから、既に分かり切っていると言えばそうなんだけれど――
恐らく、五階と一階は孩児に合わせて創られたんだろう。二階から四階までは成人用で、よって本来は、一階をのみなが認識するはずがなかった。じゃあ何の理由があってあんな狭苦しい部屋を一階に据えているか……それは実のところ、というか僕が思惟するところ、四階から二階までを成長後の小児用に創ったからだ――とこんなふうに言っても、たぶんのみなは理解できないだろうから、ここで大ヒントだ――孩児用である五階と一階は何故三階分も距離があったのか――あ、解った?……そう蒼い顔をするなよ、落ち着いて話を聞いてくれ――そう即ち、五階と一階との空間的な繋留手段は、あの大仰な吹き抜けだ。ただ図を一見すると四階に穴は見当たらないが、僕の考えでは四階の壁の中に落とし穴がある。それもこの旄倪堂の中心付近に四つ。壁の中は五階と同様、真っ暗闇のはずだから、つまり《鳩舎》から逃げ出そうとした孩児たちは五階から螺旋階段へ、螺旋階段から壁の中へ、壁の中から各々の部屋へ――とこんな予定調和が最初っから仕組まれていたというワケさ。必定、孩児たちは四階の部屋へ出る直前に落とし穴から真下に墜落してしまう――台座は台座でさえなく、台は台でも処刑台だった。まぁ、部屋へと通じる扉は、鍵がかかっていたから結局通過はできないけれど――とまあ、作者の万端の仕掛けに感嘆するのはこのくらいにしておこう。今回起こった殺人は特段そっちが重要ってワケでもない。
確か、ヴェラという実妹の死を目の当たりにして、彼が不随意の悲鳴をあげたんだったかな……で、問題はそこだ。悲鳴は元来のみなのいる四階に聞こえるはずがなかったんだ。なぜなら四階の部屋への扉は、内側からのみな自身が施錠していたからだ。さらに壁の中への扉ものみなの鍵では開けられなかったはず――この矛盾が綺麗に解消されるためには、簡潔に言えば『嘘』が必要なんだよ。誰の『嘘』か――第一に君は必ず嘘を吐いているだろう。椿事に向かう際に君は『即座に解錠して』と述懐しているから、したがって壁の中への扉が解錠されていなければ、悲鳴が聞こえないことになる。故に僕は彼も、ドンも嘘を吐いていると考えた。のみなに渡した鍵は実際には壁の中への扉を開けられるのだと……彼は君を罠に嵌めるために、故意に扉を開けることを禁じたんだよ。行動の自由を制限することによりのみなの心に反発心が、心理的抵抗が生じるように企図したんだね。これは明確な殺意をもって実行されていると言わざるを得ない。というのも、彼には正当な動機があるからだ――この煉獄的な『旄倪堂』を創った僕に対する怨恨という点で。
流石にもう氷解ったかな……総括すると、『旄倪堂』という舞台はこの僕が創作したものなんだよ。ドンはそんな惨状を創り上げた僕に復讐するために、君を殺そうとしていた――と同時に、君は床に空いた穴をみすみす看過した…………君は五階に軟禁されていた彼らを救えなかった、否、救わなかったんだ」
「嘘だ」
「……………………は?」
「私は五階まで行ったけれど……子どもなんて、況してや鳩でさえ見かけなかった……っ」
「そんなことはないはずだね。『旄倪堂』は僕が前夜に創作したものだ……そうだ、君はじゃあどうやって五階まで行ったんだ? それだけが不可解なんだ……」
「だから……私はあの夜、『(前日譚)』を書いていたから、旄倪堂には、いなかった――」
「いやいや、でもそれを書いたのは僕だ。だからこそ全部知ってる。台座は黝くなんてなくて、血の色に塗れた赤銅色だ」
ここで私は遂に何がなんだか分からなくなる。この人は、ただ私に『嘘』を語っているだけなのじゃあ……?
「そう、だからあの一夜限り、君は僕の創作になったんだ」
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い…………。
ゆめ――?
夢――……そうか、訪うた先は――――死。
終わりのない胎孕――
今の今まで私は、ずっと魘されていたのか――――
醒めよう。
「醒めよう」
誰かの慟哭で目が醒めた。
私は
(了)