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夕焼けで赤く染まる静かな公園。ドーム状の遊具の中で、幼い少女が泣いていた。
そこへ同い年ぐらいの少年が近づいていき、遊具の中をのぞき込む。
「そこにいたのかよ」
「ふぇ、しゅうくん……」
小さくうずくまって泣いていた少女は、背中から突然声がしたことに驚いたが、それが自分のよく知る顔だったので、安心した。
しかし振り向いた少女の顔は、泣きすぎで瞳が真っ赤に充血しいて、とてもひどい有様だった。
「なんだよ、ひどい顔だなー。こんなところにいたら、おじさんが帰ってきてもわからないだろ? だから俺の家に帰ろうぜ」
「……やだ」
少年が優しく手を差し出すが、少女は首を横に振って外に出てこようともしなかった。
「どうしたんだよ?」
「……警察の人が、しゅうくんのお父さんに言ってたのあたし聞いたもん」
「何を聞いたんだよ」
「もうかなりセイゾンのカクリツがないって、それって死んでるかもしれないってことでしょ」
自分の口で言って余計に悲しくなったのか、少女はまた泣き出した。
今も警察などが必死で少女の父親を捜索しているが、まだ何も見つかっていない。少年の家にいれば、そんな暗い話ばかりが耳に入ってくるので、彼女は少年の家に戻りたくないのだろう。
「馬鹿だな、おじさんが死ぬわけないだろ。だってあのおじさんだぜ? きっと少し道に迷ってるだけだよ」
「でも……」
少年は少女を落ち着かせようとするが、今の彼女は一筋縄ではいきそうにない。
何か少女を元気づける方法はないかと、少年は腕を組んで考えた。
「……わかった! それなら明日おじさんが帰ってこなかったら、おれが探しに行ってやる!」
少年は小さな拳を、自分の胸板へ力強く叩きつける。
「で、でも、大人が捜しても見つからないんだよ?」
「大丈夫だって。あいつらなんかより、おれの方がおじさんのことよく知ってるんだぞ。おれがあいつらに負けると思うか? だから何も心配するな! おれがおじさんをつれて帰ってやるよ」
「無理だよ」
「無理じゃないって、それにおれがみなに嘘ついたことあったか?」
「……」
少年の問いに少女は答えない。
少女は頭の中で思い出しているが、少年が彼女に嘘をついた記憶はないようだ。
「安心しろって、絶対に見つけてやるから。だから今日は帰ろうぜ? そうしないとおじさんが帰ってきても、みながいなかったらおじさん、きっとおまえを捜しにまた出て行っちゃうぜ?」
「! そんなのやだ」
「だろ? だから帰ろうぜ」
少年が再び手を差し出した。
「うん」
まだ鼻をすすっているが、少女は力強く少年の手をつかんで立ち上がった。
少年に手を引っ張られ、少女が遊具から出たときだった。少年のすぐ横に大きな犬がおすわりをして、少女を見ていた。
「きゃぁ!」
驚いて少年の後ろに身を隠す少女。
犬は少女が遊具から出てくるのを見ると、立ち上がって公園を走り去っていった。
「大丈夫だって、何もしないから。それにあいつがおまえがここにいるの教えてくれたんだぞ?」
「……しゅうくん、犬の言葉がわかるの?」
少年の言葉に少女は不思議そうな顔で尋ねる。
少年は少し迷った後、少女に答えた。
「……少しだけな」
「そうなんだ」
「信じるのか?」
なにも不審がらない少女に、今度は少年が驚いて尋ねた。すると少女は小さくうなずいてみせた。
「……だって、しゅうくん嘘つかないもん」
「そっか……そうだよな! 俺は絶対みなに嘘はつかないもんな!」
少女が自分の言葉を難なく信じてくれたのが嬉しかったのか。少年の顔が少し緩み、声も気持ち大きくなった。
「早く帰ろうぜ。今日は母さんがカレー作ってくれるって言ってたからな」
「うん」
少女にも元気が出てきたのか、まだ瞳が真っ赤だが、返事がさっきよりも少し力強かった。少年は少女の腕を引っ張り、夕日の染まる中、家路を急いだ。
これは少女の思い出。
忘れることのない黄昏色の思い出。
*
集一郎がレラを助けてから二日、激しい豪雨は去り、今は晴天に恵まれている。
そんな空の下、集一郎は緑色のエプロンを掛け、箒でスーパーマーケットの入り口を丁寧に掃除していた。
まとめたゴミをちりとりに集めていると、集一郎の元に一匹の黒猫がやって来た。
「みゃ~」
「お?」
猫は愛らしく集一郎の足に、体をこするつけてくる。
「腹減ってるのか?」
集一郎が尋ねるが、猫は鳴きながら足の周りをぐるぐる回るだけだ。
「……だめだ」
猫を凝視して集中してみるが、今日は感情が伝わってこない。
集一郎の能力は常に使えるものではない。まるでしゃっくりのように、不意にやってくるものだった。
今思えばレラを助けられたのは、本当に奇跡に近い。もしあのタイミングで能力が発動していなければ、彼女が今どうなっていたかわからないだろう。
「レラ……ちゃんか」
ふと、集一郎はレラの言っていたことを思い返した。
彼女は人を探しにこの街までやって来たと言っていた。レプンクルの王の力を持つ存在だとも言っていたが、それはどんな力なのだろうか。
レラの口ぶりから察するに、彼女もまだ会ったことがないはずだ。
何か見た目でわかるような特徴があるのだろうか。できることなら手助けをしてあげたいと、集一郎は思った。
「今度聞いてみるか」
これ以上思案していると、仕事が手につかなくなってしまう。集一郎はいつの間にかうつむいていた頭を上げて、途中だった掃除にとりかかった。
入り口の掃除があらかた終わったころだった。店の中から集一郎と同じ緑色のエプロンを着た青年が出てきた。
「梅戸、そろそろ休憩入れよ」
青年は集一郎に近づき、手に持っていた缶ジュースを投げて渡す。
「わかりました。っと、ありがとうございます」
プルタブを開けて、集一郎は缶ジュースを一気に飲み干す。
「ぷはっ! あー生き返る!」
まるでおっさんのような声を上げる集一郎。それを見て、青年は嘆息ぎみで笑った。
「お前、もう少し年相応に飲めよ。……それより、本当に助かったよ。この時期になるとバイトがかなり辞めていくからさ」
「いえ、こちらこそ急に頼んだのに雇ってくれて、相沢先輩には本当に感謝しています」
集一郎は現在、スーパーマーケットでアルバイトをしていた。
財布の中身が数百円しかなかった集一郎は、高校の先輩の家族が経営するスーパーに雇ってもらっていた。卒業シーズンということもあって、学生のバイトが辞めて人手が減ってしまっていたので、先輩は快く迎えてくれた。
「そういえば、あの犬……コロちゃんでしたっけ? 元気にしてますか?」
「あー、梅戸が拾ってきた犬だろ? 元気だよ。今ではうちの立派な番犬さ」
集一郎が先輩である相沢と知り合うきっかけになったのは、半年ほど前に集一郎が拾った犬だった。
飼い主を探していたところに、相沢が名乗り出てくれたのだ。それから時々、話をするようになり、今では相沢の親が経営しているスパーマーケットで人手が足りないときなどに雇ってもらう仲になった。
「また時間があったら顔でも出しに来いよ。きっとコロが喜ぶぞ」
「さすがにもう顔を忘れられてると思いますよ」
動物のいうのは身近にいる人間以外は、例え最初に世話をしていても、長い間会わなければ顔を忘れていたりする。
集一郎がその犬に会いにっても、もう一年近く会っていないので、きっと忘れられているだろう。
「そんなことないって……やべっ、レジが混んできてる。梅戸、悪いんだけどレジのヘルプ頼むわ」
レジの方を見ていると十人ほどの列ができていた。よく見れば入ったばかりなのだろうか、慣れない手つきで新人らしいバイトの女の子がレジを打っていた。
「了解しました」
相沢に頼まれ、集一郎は急いでレジに走る。昼時に入り、店内が少し混んできたようだった。
「こちらのレジにどうぞー」
何度か働いていたことがあるので、集一郎は慣れた手つきで商品をレジに通していく。
「ありがとうございましたー」
普段とは半音ほど高い余所行きの声で、接客をする集一郎。一人、また一人と並んでいた客をさばいていった。
列がだんだんと短くなって、最後の客のカゴをレジに通そうとした時だった。
(お、外人だ)
最後の客は金髪碧眼の外国人の少女だった。背は低く、歳は集一郎より若干、下に見える。
少女はたくさんの食品が入ったカゴを、彼女には少し高いレジ台の上に、つま先立ちになりながら乗せる。
「いらっしゃいませー」
集一郎は言葉が通じているのか不安になったが、とりあえず店員として定型的な挨拶をする。
商品を次々とレジに通していると、少女はその小さな口を開いた。
「……カードは使えるかしら?」
財布からカードを取り出して、少女は集一郎に差し出した。
「え? あっ、はい、大丈夫ですよ」
異国の少女はとても流暢な日本語を話した。
(日本語話せるんだ……)
あまりに違和感のないイントネーションで話しをする少女に、一瞬それが日本語だということを理解するのに時間がかかる。
集一郎は少しの間を置き、少女に返事を返して彼女が取り出したカードを機械に通す。
「レシートになりま――って、お客さん!?」
支払いを確認して、レシートを渡そうとした時だった。
少女は身を乗り出して集一郎の服に顔を近づけて、何やら匂いを嗅ぎ出した。
何か変わった匂いをつけている記憶がない集一郎は、あまりに奇抜な彼女の行動に驚いてしまう。
「な、何か?」
少女は集一郎の戸惑う様子に気づき、服から顔を離した。
「ごめんなさい。ちょっと気になって……あなた何か動物を飼ってる?」
「えっ? 動物ですか……いえ、何も」
アパートには半人半狼の少女であるレラがいるが、別に飼っているわけではない。
それにレラから特別変わった匂いを感じたこともない。
「そう……本当にごめんなさいね。それじゃあ」
集一郎の返事を聞くなり、少女は一瞬微笑むと、支払いが済んだ買い物カゴを持ち上げて、レジを立ち去った。
「何だったんだ?」
商品を袋に詰めて、店から出て行く少女の背中を見届けながら、少女の奇怪な行動の意味を考える。しかしレジに客が再び並びだして、集一郎は慌てて仕事に戻った。
「あっ、い、いらっしゃいませ~」
昼時のピークを過ぎて、集一郎は仕事を終えて事務所の椅子に腰掛けた。
「ふぅー」
ため息をはいていると相沢がやって来て、集一郎の向かいの椅子に座る。
「お疲れ、梅戸は物覚えがいいから本当に助かったよ」
「お疲れ様です。そんなことないですよ、今日のレジ打ちでも焦ってばっかりで逆に時間かかったと思うし」
個人経営の年季が入ったレジは覚えることが多い。
全部の商品がバーコードで読み取れればいいのだが、総菜などは値段を覚えておいて手動で打ち込まなければならないので、かなりの手間がかかる。
集一郎自身、そこまで不器用な方ではないと自負しているのだが、やはり店が混み出すと、急がなくてはと焦ってしまって、ミスも増えてしまう。
「気にするほどじゃないけどな、誰だって少しはミスをするものだし。そうだ、シフトなんだけどどうする? 梅戸がよけりゃ、明日も来てほしいだが」
相沢はボールペンを持つと、自分側の壁に貼られてあるシフト表を親指で指さした。
「あ、すいません。明日はちょっと」
集一郎は申し訳なさそうに答える。
「何か用事でもあるのか?」
「はい、実は明日は――」
*
集一郎がスーパーマーケットでアルバイトをしていた時、美奈はアパートの庭で雨の影響でたまってしまった洗濯物を干していた。
「ふ~ん、ふふ~ん」
鼻歌交じりで手際よく服を物干し竿に掛けていく。
「よし、洗濯終了~」
美奈は洗濯カゴの中身を全部干し終わると、アパートの自室に戻っていく。
皆の父である充が経営するこのアパートは基本十畳のワンルームなのだが、大家の特権で、美奈と充が住む部屋は六部屋ある一階の半分を、突き抜けて一つの住居にしていた。集一郎が住む部屋と比べると少し狭いが、台所以外に三部屋も設けられている。
「レラちゃん入るよ」
普段は物置代わりに使っていた部屋のドア越しから確認をとって入ると、ホルケ族の少女、レラがベッドの上で、上体を起こして本を読んでいた。
「美奈さん、お疲れ様です」
本を閉じ、レラは美奈に微笑んだ。
「どう? 体の調子は」
「おかげさまでかなり楽になりました。すいません、色々とご迷惑を掛けて」
「いいっていいって、あんまり気にしないで」
集一郎がレラを助けてから二日、彼女の体力は私生活を送るにはもう何の問題もないくらいに回復していた。明日には普通に外出しても大丈夫だろう。
「それより、私の貸した漫画どうだった?」
部屋に閉じこもりきりでやることがないレラに、美奈は自分の漫画本を貸していた。
感想が気になり、美奈はレラに尋ねた。
「……漫画というのは初めて読みました。とてもおもしろかったです」
時代錯誤ともいえるような山の奥にある里で暮らしていたレラには、人が住む街のことを話には聞いていても、実際に見たり体験したことがなかった。そのために美奈の貸した漫画は初めての体験といえる。
自分が貸した漫画を喜んでもらえたのが嬉しいらしく、美奈の顔も笑顔になった。
「楽しんでくれたのならよかった。また続き貸すからいつでも言ってね」
「はい、ありがとうございます。……ところで」
「ん? どうかした?」
レラは不思議そうな顔をしている。漫画の中で、何かわからないことでもあったのだろうか。
「あの……この本の言葉でわからないところがあるんですけど……この“萌え”ってどういう意味で使われているのですか?」
「えっ!?」
レラが開いているページをよく見てみると、瓶底のようなメガネにハチマキ、指ぬきグローブと、極めつけは美少女のキャラクターが描かれたTシャツという偏見に満ちたオタクのイメージを具現化したような脇役のキャラクターが喋っているコマだった。
普段から漫画で情操教育を受けてきた美奈には、感覚的にわかる言葉ではあるが、説明しろと言われるとかなり難しい。
「……あ~、どう説明したらいいんだろう。ま、まぁ、大丈夫! その言葉は殆どの人が意味のわからないものだから、そこまで気にしなくていいよ!」
オタクである自分を、まだ会って日の浅いレラにあまり見せたくないという気持ちと、彼女をそういう道に引き釣り混んではいけないという考えから、美奈は苦し紛れに誤魔化した。
レラは説明を聞いても、まだ首をかしげて漫画を凝視する。
「そうなんですか……不思議ですね。草一本もこの絵には描かれていないのに」
彼女が言っているのは言葉本来の意味だろう。しかしインターネット上でのスラングとしての意味など、レラが知るよしもないし、理解するのも難しいだろう。
美奈は話題から逃れるために話題を変えた。
「そ、そういえばレラちゃん。お茶でも飲まない? 貰いものだけどおいしいお菓子があるんだ」
「そうですね。すいません、いただきます」
「なら持ってくるね」
台所に向かうために立ち上がる美奈。ふと腕時計を見た。
「あ、集くん、もうすぐ帰ってくる時間だ。ついでに集くんの分も準備したげようかな」
集一郎は昼過ぎには帰ってくると言っていた。おそらくもうしばらくすれば帰ってくるだろう。美奈は帰ってきたら部屋に来るように、携帯電話を取りだして彼にメールを打った。
「よし、ごめんねレラちゃん。急いで準備してくるから、少し待っててね」
美奈は送信ボタンを押して、メールが送られたことを確認すると、お茶の準備のために部屋を出ようとした。
しかし、ドアを開けたところでレラに呼び止められた。
「……あの、一つだけ伺ってもいいでしょうか」
「何?」
美奈が振り向く。
「ずっと気になっていたんですが」
「どうしたの?」
「何で私があそこに倒れていたのを、集一郎さんはわかったんですか?」
レラが倒れていたのは山の奥で、ましてやあの日は強い雨が降っていた。
そんな日に獣道しかないような山の中を、何の目的もなく歩こうとはしないだろう。
レラが気になるのも当然だ。
レラがそのことを集一郎に尋ねているのを美奈は目にしていたが、彼はたまたまだったとか、偶然だと言ってはぐらかすばかりで、本当のことを喋ろうとはしなかった。
「それは……」
美奈は考えた。
レラに集一郎の能力のことを言ってもいいのだろうか。
集一郎は昔から力を活用することはあっても、あまり好ましくは思っていなかった。周りに信じてもらえなかったり、気味悪がられるのを恐れてという理由もあるだろう。
だが一番は、隠し事をしているという後ろめたさが集一郎にあるからだろう。
彼と長いつきあいのある美奈には、何となくだったが察することができた。
「美奈さん?」
「……」
レラに名前を呼ばれたが、美奈は返事をしない。
美奈は幼き日の記憶を思い出す。
充が行方不明になって、暇があれば泣いていた美奈を、集一郎はあの手この手で元気づけてくれた。
充の件だけでなく、集一郎は美奈が困っていれば、自分のことなどお構いなしに、助けに来てくれていた。それは彼女が特別だからではない。
もし他の誰かや、動物が困っていても、彼はレラの時のように迷わず手を差し伸べるだろう。
しかし自己犠牲にも似た集一郎の行動に、美奈はいつも不安を感じていた。
集一郎が動物たちを助ける度に、彼が何かを失っていくようで、いつかは自分自身に取り返しのつかないぐらいの傷を与えてしまうのではないかと思っていた。
もしそうなれば、彼には癒やしを与える相手がいなくてはならない。
それが自分であればと、美奈は常々に願っているが、それが自分につとまるのかという不安もある。
美奈一人ではどうすることもできないことだってあるだろう。そして何より、集一郎がそれを美奈に望んでいるのかもわからない。
ただ一つ美奈が考えるのが、集一郎を助けてあげられる人物が一人でも多くいてほしいということだけだ。
幸いにも、今ベッドで体を休めている少女は、集一郎のように普通の人間とは違う力を持っている。彼女なら集一郎の力のことも信じて理解してもらえるかもしれない。
(集くん……ごめんね)
美奈は集一郎の秘め事をレラに話すことを決めて、心の中で彼を想う。
(でも、少しでも……集くんの味方になってくれる人がいるのなら)
レラのいるベッドの横に歩み寄る。
「美奈さん?」
真剣な面持ちで近づいてくる美奈に、レラは少しだけ不安そうな顔をしている。
「……あのね、レラちゃん。実は――」
目の前にいる少女が、いつか集一郎の助けになってくれることを願って、美奈は今まで誰にも言ったことがない二人だけの秘密をレラに話し始めた。
*
「美奈ー、入るぞ」
スーパーマーケットでのアルバイトを終えた集一郎は、送られてきたメールを見て、帰宅してすぐに美奈の部屋に向かった。
ノックをするわけでもチャイムを鳴らすわけでもなく。集一郎は家主の了解を得ぬままに玄関のドアを開いた。
「あ、集くんおかえり」
入ってすぐ目の前にある台所で、美奈は湯飲みにお茶を注いでいた。
「レラちゃんの様子は?」
靴を脱ぎながら、美奈にレラの様子を尋ねる。
「もうだいぶ回復してるよ。これなら明日は大丈夫そうだね」
「そうか」
初めて会った日はまともに歩くこともできなかったが、今ではだいぶ元気を取り戻したようだ。
美奈の話を聞いて、集一郎は安堵する。
「お茶の準備できたから、レラちゃんの部屋にいこうよ」
「おう。ところで」
「どしたの?」
湯飲みと茶菓子が乗ったお盆を持って、美奈が奥へ歩いて行く。集一郎もその後を追うが、集一郎は不意に違和感を感じた。
「おまえ……なんかあった?」
「へっ!?」
集一郎の質問に、美奈は驚いて湯飲みの中身をこぼしかける。
「っと、な、何が?」
「いや、なんかよそよそしいっていうか。今日のおまえなんか変だぞ?」
他の人からしたら何も変に感じないのだろうが、集一郎と美奈は幼い頃からのつきあいがある。そのせいか集一郎は美奈のちょっとした変化に気づいた。しかしそのことを聞いてみても、美奈は何事もなかったかのように話を誤魔化した。
「そんなことないって……あっ、手がふさがってるから、代わりにドア開けて」
「あ? ああ」
いくら親戚とはいえ美奈にも話したくないこともあるだろう。
集一郎はこれ以上聞くのをやめて、指示通りにレラの部屋の扉を開いた。
「あ、集一郎さんお帰りなさい」
部屋の中ではレラがベッドに腰掛けていた。
「ただいま、もう起きて大丈夫?」
「はい、おかげさまで」
最初会ったときに比べて顔色もだいぶよくなっている気がする。
集一郎はそのまま部屋にあるテーブルの横に腰掛けた。
「レラちゃん、お茶持ってきたけど、ベッドの上の方が楽かな?」
美奈は小さなテーブルの上にお盆を置いてレラに尋ねる。
すると彼女は首を振った。
「いえ、そこまで気を遣っていただかなくても大丈夫です。もうかなり体も軽くなりましたし」
そう言うとレラは美奈と集一郎が腰掛けているところまで軽々と歩いて見せて、床に座った。
その様子を見る限り、本当に回復してきているようだ。
美奈が湯飲みを配る。湯飲みからは湯気を立てて、緑茶の香りが漂ってくる。
集一郎が湯飲みに口をつけていると、ベッドの横に積んである漫画が目に入った。
「あれ? 美奈、おまえレラちゃんに漫画貸したのか?」
「うんそうだよ。だって寝てばかりじゃ暇だと思ったから」
漫画に手を伸ばして、集一郎はペラペラとページをめくって内容を確認する。
「あんまり変な漫画は貸すなよ。街に来たばかりなのに、レラちゃんが誤解するだろう」
そう言うと美奈はムッとした顔で、集一郎を睨んだ。
「変な漫画って何よ? そんな漫画は一冊も持ってま・せ・ん! それに、これでもちゃんとわかりやすいのを選んだんだからね」
機嫌悪く美奈は湯飲みのお茶を一気に飲み干す。
「どうだった?」
集一郎は漫画の表紙をレラに見せる。
「とっても面白かったです。私、本はあまり読んだことがなかったのですごく楽しめました」
行儀よく正座をして、ゆっくりとお茶を一口飲むと、レラは微笑んで答えた。
「そっか」
「ふんだ、もう集くんには何も漫画貸さないから」
「なっ、そんなこと言うなよ。この前の漫画続き気になるのに……」
「知らない!」
怒ってしまった美奈は、集一郎に背中を向けてしまった。そんな状況を見ておかしくなったのか、レラは少しだけ笑った。
「ふふっ」
「「?」」
突然笑ったレラを見て、二人は何が面白かったのかわからずに、レラを見る。
「あっ、すいません。でも、お二人ともとても仲がいいんですね」
集一郎と美奈は、レラの言っている意味がわからずに顔を見合わせたが、思い出したかのように、美奈は眉間にしわを寄せてそっぽ向いてしまった。
「はぁ~」
さすがにこのまま機嫌を損ねたままでいると、後になってまたネチネチと言われそうだと思った集一郎は、美奈の機嫌取りに取りかかった。
「ちょっと言い過ぎた。悪かったって、だから機嫌直してくれよ。……そうだ! 明日はちゃんと荷物持ち頑張るからさ」
「……本当?」
少しだけ、美奈の心が傾いた。集一郎はたたみかけに入る。
「本当だって、あとなんか奢るから……安いものしか買えそうにないけど」
偉そうに奢るといったものの、集一郎は財布の中身を思い出して渋ってしまった。
「モンブラン二つね」
「ぐっ、い、いいだろう」
「決まり~」
集一郎が要求に応えた途端に、美奈は手のひらを返したかのように満面の笑みになって集一郎たちの方を向き直った。
集一郎たちの会話に疑問を感じて、レラが口を開く。
「あの……明日何かあるんですか?」
「ふぇ?」
「あれ? 美奈に聞いてないの?」
「はい」
レラの記憶が間違っていなければ、どこかに出かけるという内容の会話を、美奈がしているのを見ていないし聞いていない。
今度は集一郎が美奈をゆっくりと睨む。
「おい、美奈?」
「あ、あれ~、言ってなかったっけ……」
苦笑いを浮かべて、美奈は自分の湯飲みにお茶を注ぐ。
「誤魔化すなっ!」
「だって、忙しかったんだもん!」
集一郎が怒鳴ってみせると、美奈は涙を浮かばせながらみっともなく言い訳をした。
「たくっ……モンブランは一個な」
「あ、でも買ってくれるんだ」
「あぁん? 無しでもいいんだぞ?」
「……ごめんなさい」
「?」
自分の非を認めて、集一郎に深々と頭を下がる美奈。
レラだけがこの状況についていけずに首をかしげていた。




