永夜抄 一話
白玉楼にて、剣の稽古を行う。
相手は語る必要もない、魂魄妖夢だ。
木剣の剣先が迫ってくるのを、事なげに受け流し、刃を返す。
返す刃は空を切り、次の斬撃が迫る。今度は足を使って刃を避ける。
そもそも、麗水と妖夢の間に、指導できるほどの実力差はない。少なくとも麗水はそう感じていた。
妖夢の剣筋は、麗水が感嘆するほどにまっすぐで、疾い。お互いが実力を研磨するにはなんとも手頃な相手だった。
力で敵わないとみた麗水は、盛んに体を振るう。また刃を躱した。
お互い同じ木剣だ。以前の時のように、武器の重さに頼った剣撃はできなかった。
右に引きつけ、左に躱す。前に出ると見せて、後ろに下がる。
そういった、剣術とは違う『体』の動きも使ってようやく互角に立ち回ることができた。
麗水に余裕はない。だが、窮地というわけでもなかった。ただただ、目の前の相手に集中しているのだ。
揺さぶりをかけ、相手を焦らし、時に攻め気を見せる。
隙を誘い、虚を突く。時に、しおらしく、時に傲慢に。
『体』だけでは勝てはしない、『心』も使うのだ。
それが、闘いだった。
刃の迷いが見えた、見えた瞬間には、自らの刃が奔っていた。
妖夢の木剣を刷り上げ、袈裟に薙いだ。
「すまん、手加減ができなかった。」
「いえっ、痛みには、慣れてる方ですから!」
咄嗟に妖夢の体を支えていた。集中しているが故に、こういった事故とも呼べる事は度々あった。強さのあまり、相手が女性だということを忘れるのだ。悪い癖だ、と麗水はいつも自戒しているが、あまり改善された試しはない。
「今日も負けちゃいました。」
「いつも思うのだが、紙一重だ。」
「随分と厚い紙なんだな、といつも思います。」
肩口を抑えながら、朗らかに笑った。肩口を抑えてさえいなければ、見惚れることもできたかもしれないが、今は罪悪感のほうが募る。
「あ、本当に気にしないでください。痛くなければ覚えない、とも言いますし。」
「その言には賛成ではあるが。」
「だから麗水さんが気にすることはありません。」
「すまんな。」
「いえいえ、むしろ稽古をつけてくれてありがとうございます。」
麗水の稽古にもなっている。チルノとの稽古とは密度が違った。
「ねぇ妖夢~、そろそろおやつにしましょうよ~。」
縁側で稽古を眺めていた白玉楼の主、西行寺幽々子が声を上げた。
稽古となると、必ずと言っていいほど縁側で眺めている。そして、機を見ておやつを催促するのだ。それが、稽古終了の合図にもなっていた。
「あー、すみません、ただいまおやつを用意します。」
「そうだ、幽々子、土産だ。」
来るついでに抱えてきた小包から、饅頭の袋を取り出す。
「儂のお気に入りだ、お前はこれを食べていろ。儂と妖夢は汗を流す。」
「あ、お風呂を沸かしてありますよ。」
手を振るう。
「先に妖夢、お前が入れ。」
「でも、お客人ですし。」
「男は臭くても多少は我慢できる。だが、女が臭いのは気が滅入るぞ?」
「わかりました、先に頂きます!!」
本当に臭いから言ったわけではなく、ある種の牽制のようなものだった。
妖夢は素直に言葉通りに受け取り、浴室に向かった。
「妖夢の扱いが本当に上手ねぇ。」
「我ながらそう思う。」
幽々子の隣に腰を掛け、饅頭に手を伸ばす。妖夢の分は既に取り分けて、幽々子とは隔離してある。
「美味しいわねぇ。」
「そうだな、旨いな。」
饅頭を齧る。幽々子は齧るというよりは、飲み込むといった様子だったが、その容姿にそぐわぬ豪快な食べっぷりを、麗水はとても気持ちの良いものとして見ていた。
「そういえば、いつも稽古を見ているが。」
「あら?」
「面白いのか?」
「おやつが待ち遠しいわね。」
「なんだ、そういう意味か。」
また饅頭を齧る。今度は幽々子の飲み込みが止まった。
「でも、立ち会っている時の貴方も、不思議よね。」
「そんなにおかしいのか、儂は。」
思わず、幽々子に向き直ってしまった。
幽々子と、目が合う。思わず、目をそらした。
「変って言っているわけじゃないのよ?ただ、なんででしょうね、懐かしい気持ちになるの。」
「懐かしいと。」
「本当に、不思議。」
生前の彼女、幼き麗水。
いつも麗水の血の滲むような鍛錬を、見守っていたのは彼女ではなかったか。
「そう、不思議に思っていると、お腹が減ってくるのよね。」
「やはりそうなるのか。」
遠い記憶をさかのぼっていた麗水は、静かに肩を下ろした。
幽々子とは、いつも調子が狂わされてばかりだった。
昔は、自分が彼女を守ると誓った頃もあった。だが、いまや自分が手を出す必要もなく、強大な存在になっている。
麗水の中で一区切りが付いたこととは言え、やはり幽々子という存在は、今の麗水にも重くのしかかる。そして、空回り。自分の不甲斐なさに嘆息尽きず、といった具合だ。
「まぁ、また饅頭を、持ってくるよ。」
「ええ、お願いね。」
幾分か、自分の声が若返った気がした。白玉楼に来れば、いつも思うことだった。
宴会の折、羽目を外しすぎた。霊夢は一人赤面して歩いていた。
起きた時には、気遣うように外套が羽織られており、自分の痴態が隠されていた。
だがそれは、麗水には痴態をみられ、尚且つ気遣われたというわけで。
「一体どんな顔して、会えばいいのよ、もう。」
幻想郷の妖怪が皆恐れる、博麗の巫女。
面の皮は厚いが、それ以前に一人の乙女なわけである。
もう本当にお酒を自重しようかと考えているところで、麗水宅、鬼泣堂に着く。顔をぴしゃりと叩く。
よし、と意気込んだところで扉を開けた。
「あらぁ、こんにちは、霊夢。」
扉の向こうに居た人物を見て、霊夢は自分の悩みも願望も、無意味なものとして諦めた。
「麗水さんに外套を返そうと思ってきただけなのに、どうして紫、あんたがここにいるのよ。」
「さぁ、どうしてかしら。そして、どうして麗水に外套を返そうと思っているだけの霊夢が、お酒を持参しているのかしら?」
紫が微笑み、霊夢が顔を顰める。
擬音を付け加えるならば、ふふんとぐぬぬ、といった所か。
「もういいわよ、以前に一緒に呑むって話したものね、呑みましょ、紫。」
「勿論よー、もしかしたら霊夢は、麗水とふたりっきりで呑みたかったのかもしれないでしょうけど。」
「それはもういいから!!ほら、お酒を出す!!」
スキマから、柄杓、升と共に、酒壺が出てくる。
霊夢はひったくるように酒を注ぐと、一気に飲み干した。
「で?麗水さんはどこよ。」
「さぁ?でも今夜は遅くなると思うわよ。」
「あんたがそう言うならそうなんでしょうね。まったく。」
紫にとって、麗水の行動はお見通しなのだろう。今日はどこへ行き、何をして、どうなるか。
そして麗水は、見られている、知られているとわかっていて、悠々自適に日々を過ごしている。
監視とも、管理とも言える、奇妙だが確固たる信頼関係が二人の間に有り、それが霊夢は羨ましいとも、妬ましいとも感じていた。
「前から聞こうと思っていたんだけど、霊夢?」
「なによ。」
升に入れた酒をまた一気に煽る。
喉が焼け付いたように熱くなる。酒の醍醐味であり、霊夢はこの熱が好きだった。
「貴女は麗水の事が好きなんでしょう?」
焼け付いた喉が、更に燃え上がる。思わずむせた。
「ななななぁに言ってるのよ、あんたは!!」
「図星のようね」
「勝手に話を進めないでちょうだい。」
「気持ちはわかるわよ、彼はとても魅力的だものね。どう?彼を知ってしまうと、ほかの男なんて、道端の小石程度に見えたりするんじゃない?」
生憎ではあるが、小石に見えるなんてことはない。
ただ、そういった男性と触れ合う機会というのがないだけだ。
霊夢は博麗の巫女という、特別な肩書きを持っている。いい虫除けだと思う反面、寂しいと思うときもたまにある。
そんな中で、普通に接してくれる男性というのは、未だ麗水だけだった。
「そんなことないわよ、ほら、なんだっけ、饅頭屋さんのお孫さん。彼とは年も近いし、なかなか可愛いなんて思ったりもするのよ。」
「でも、特別興味を持ってはいないようね?」
「そりゃあ、客と店のお孫さんの関係だし?」
「興味がないのであれば、それはそう思ってるのと一緒よ。」
こいつ、と顔を顰める。
別に不愉快になったわけではない。口論になってうまくいかない自分の未熟さを、不甲斐なく思ったのだ。
「あーもうまだるっこしいわね。それで、紫は何を言いたいのよ?」
「いえ、霊夢もそろそろお年頃だし、宣戦布告しておこうと思ってね。」
「は?宣戦布告?何の?」
紫が上目遣いでこちらを見やる。
殺意悪意、そういった邪気のあるものではないが、これは敵意に似ている。
霊夢の感が告げた。
「麗水は、渡さないわよ。無論、私のものではないけど、貴女には渡さないわよ。」
八雲としてではなく、女性の紫としての、この上ない宣戦布告を投げつけられた。
手袋を投げつけられたかのように、霊夢が少したじろぐ。
「なんか、今日の紫は随分と素直で、直情なのね。酔った?」
「そうかもね。」
紫も、杯を仰ぐ。そうしてまた酒を注いでいた。
「やっぱりライバルが多くて大変なのよ、彼。捕まえようとしても、するりとどこかに行ってしまって。そうして向かった先にまたライバルが居たりするんだもの。気が気じゃないわ、ほんと。」
惚気けられている様な気がして、今度は少し不愉快になる。
酔いが回ってきたようだ、少し視界が霞んだ。
「私だって、あんたには負けないんだから。いつまでも正妻気取りってわけにはいかなくしてやるんだから。」
「ふふふ、乗ってきたわね。いいわよ、わたし、最近一番のライバルを克服してね。ちょっと自分に自信がある時期なの。」
麗水の庭先には、今年になって植えた、桜の苗木がある。どんな心境の変化があったのかは知らない。まだまだ小さな木だが、麗水は丹念に手入れしているようで、順調に成長している。
紫が、それを眺めながら、杯を煽った。
霊夢が詰め寄る。
「聞き捨てならないわね。誰よ、そのライバルって。」
「教えないわよ。これは麗水と古い付き合いの私の特権だもの。」
やけに、古い、を強調してきた。
「ま、でも、あまりにも一緒に居すぎると、愛情が消えるって言うわよね。」
「愛情を超越するって言いなさい。なにも乳繰り合うだけが、愛情じゃないのよ。」
「乳繰り合った事もないのに、超越なんて言われてもね。」
互いに睨みつけ合い、じきにそれも笑いになる。
「あーたのし。」
「もう、ほんとに。それもこれも麗水のせいね。」
紫が、霊夢の杯に、酒を満たす。そして、霊夢がそれを返す。
口論していたのも束の間。二人は静かに酒を呑む。
「彼と居ると、退屈しないわね。良い意味でも、悪い意味でも。」
「麗水さんは、無軌道だからね。」
「ほんとうにそう。突発的に何をしでかすかわかったもんじゃないわ。」
好敵手でもあり、最高の友である。紫と霊夢との関係は、それだった。
「油断しないことね、霊夢。麗水がもしかしたらどこぞの馬の骨に取られてしまうかもしれないんだから。」
「わかってるわよ。私は博麗の巫女よ。」
「でも、麗水は歴代の巫女の求愛を、巧みに凌いできたのよねぇ。本当に大丈夫かしら。」
「何よその話、すごい気になるわね。」
「あら、聞く?もしかしたら自信をなくすかも。」
「なんぼのもんじゃい。」
二人の話は、収まりはまだ尽きそうにない。実に楽しそうな笑顔だった。