閑話 生き続けること 一話
麗水だって、男だ。何年生きようが、そこだけは変わらない。
ないものはあるし、付くものは付いている。そこも変わらない。
人間としての有り様が変わるだけで、変わらないものがある。
麗水は、それをひどく大切なものと考えて、生きている。
時には、それに悩まされる事だって、ある。
だが、それが嫌いではなかった。
自分が人間であると、実感できるからだ。
ただ稀に訪れる、この衝動は嫌いだった。麗水は、醜い自分は、嫌いだった。
「儂だって、男なのだぞ。」
溜まっている。自分のことは、よくわかった。
何が。それを言うのは憚られた。
羞恥心もあるのだ。
「大体、魅力的な女性が多いのも、いかんのだ。乱れる。」
好色である、それを否定するつもりは、なかった。
美しい女性を見れば、求めたくなるし、独占したくもなる。
ただ、節操なしとは、言われたくなかった。女性に、手を出すことは、それこそ稀なのだ。
心が揺り動かされる女性は、あまりいなかった。それが救いでもあった。
永く生きてきたって、貞操観念は乱さず生きてきた。それには自信があるし、胸を張って、声を大にすることも、できる。
ただそれでも、溜まる時は、溜まるのだ。男とは、そういう生き物だ。
「女を、抱きたくなることだって、あるさ。それは。」
思ったことは、我慢せずに呟いた。独りでいるときは、尚更だった。
自分を殺す、処世術の一つだった。
饅頭を、食べていた。
人里に出向き、馴染みの饅頭の店で、買ってきたものだ。
そこの饅頭は、妹紅の饅頭とはまた違った旨さがあった。
金に困ったことはない。基本的には自給自足の生活をしている。使うことのほうが稀だった。そして、仕事の依頼もある。
物品をもらうこともあるが、金持ちからは普通に金を要求することのほうが多かった。
そっちのほうが、実入りがいいし、心も楽になる。
一度、高価な壷を渡されたことがあった。今は漬物入れとして、部屋の隅に鎮座している。そうなってからは、金を所望するようになったのだ。
「うむ、旨い。」
饅頭に舌鼓を打つ。饅頭の山を作り、小皿に分ける。いつもそう食べていた。
饅頭の山を見ると、心が落ち着くのだ。満たされた、そういう表現がしっくりとくる。
しかし今は、饅頭の山だけでは、満たされなかった。
二つ、饅頭を取り分けた。そこで、手が止まった。
綺麗な丸型の饅頭が、二つ並んでいる。頂点には、漬けた花びらの一片が、乗せられている。この花びらが、味に刺激を与えるのだ。
その二つの饅頭を、寄せた。
二つ、繋がった。
何かに、見えた気がした。そんな自分に嫌気がさした。嫌悪感だった。
「何をしているんだ、儂は。」
すぐに、一つ口に放り込んだ。
「そんなに溜まっているなら、私に言えばいいのに。」
気付いたら部屋を、転がっていた。
二、三転して、うつ伏せに、倒れている。顔は上げられない。
「紫か。」
「どうも、こんにちは。」
「どこから、聞いていた。」
「女を、抱きたいってところからかしら?」
「死なせてくれ。」
「麗水は、死なせないわ。」
「畜生。」
もう二度、転がった。
死にたくは無いが、死にたくなった。
紫が見ているということは気配でわかる。以前そう言ったが、それは嘘だった。
わからなかった。それほどまでに、自分は乱れている、ということなのか。
「私を、ご所望?」
「要らぬ。」
顔を上げた、勝ち誇ったような笑顔が、張り付いていた。
悔しさが、こみ上げてくる。だが、嫌いではなかった。
こんな醜さを晒せるのも、彼女ぐらいのものなのだ。
「あら、いいの。ちょっと残念。」
特に残念とも思っていない表情で、躰をくねらせる。
その姿は、嫌に扇情的だった。
わざとだな。麗水は内心で、舌打ちをした。
「別にお前の助けなど、いらんわ。そもそも誰かに助けてもらうようなことでも、ない。」
それより、用事があるから来たのではないか。
告げても、返事はおざなりだった。
本当に、遊びに来ただけであった。
「儂は、出かけるぞ。体を動かすのだ。」
「あら、行ってらっしゃい。」
「ついては、来ないのか。」
「私がいても、辛くなるだけでしょうし。」
舌を打った。今度は、内心ではなく、本当に打った。
麗水は、家を出て行った。紫には、どこに向かうのかは言わなかったが、なんとなく察しも付いた。
スキマウツシの中に、一冊の本を入れていた。
「たまに見ると、やはり居たたまれなくなるわね。」
紫は、棚から水瓶を取り出した。
どこに何があるのかは、よく知っていた。
麗水は、達人だ。それはもう今更言う事ではない。
しかし達人にも、種類がある。動と、静だ。
精神を磨き上げ、清水のように無色透明なまでに、心を静める達人と、肉体を限界まで縛り上げ、闘いの血流を心に流し込む、達人。麗水は、後者だった。
無我の境地に達する静の達人と、肉体の極致にまで自分を追い込む動の達人は、人間の有り様が根本的に違うのだ。
もし麗水が、静の達人として完成していたならば、今のような苦悩は決してなかっただろう。性欲とは、別に満たさなくても生きていける、娯楽のようなものだから。
動の達人は、肉体が全てだ、肉体に心が引き寄せられる、と言っても良い。
もしかしたら、種の生存本能が、性欲と結びついているのかも、しれなかった。
水瓶の口を開ける。
中には麦茶が冷えていることを確認してから、湯呑に注ぐ。
麗水には、子はいない。
養子を養ったこともある。天寿を全うしたり、病に死んだり、戦いの中で死んだりもした。結末はどれも違うが、全員が麗水より先に、死んだ。麗水は、親不孝者とは、言わなかった。
養うと決めたその瞬間から、その結末には納得がいったのだろう。生きる時間が違いすぎる。それを承知で、養うと決めたのだ。
紫は、養子達のことを、思い起こしていた。
どれも、とても愛らしい子供たちだった。
お前の子供では、ないだろう。麗水はそう言うはずだ。だが、私の子供でもある。紫には、そんな思いがある。二人の子供だった、その思いを譲る気はなかった。
麗水の間との、血を分けた子供。
欲しくないとは、言えなかった。
できるものならば、欲しい。血を分けなくとも、母を経験したのだ。
母性は既に、開花していた。
子供をなしたとして、使命を与えるのか。それは、酷なことではないか。
半人半妖、幻想郷にいないわけではない。だが、妖怪の寿命をもって生まれてくるのか、人間の寿命をもって生まれてくるのかは、わからない。どちらにしても、残酷な生い立ちが、子供を締め付けるのは、容易に想像ができた。
養子の中に、一人だけ八雲の使命を受け入れた者がいた。その子も、戦いの中で死んだ。
自らが望んだのだ、悔いはないだろうが、受け入れがたいものが麗水と紫の中にはあった。
それからだ、子供を得ようとするたびに、八雲の使命が、いつも邪魔をした。
麗水が、女性を抱かない理由も、それが多分にあるのだろう。
黒々とした麦茶を、一口、含んだ。
麗水は、お茶は濃い目を好んだ。煙草のせいだろう。
「苦いわね。」
苦さが、いつもより、身にしみた。