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東方妖々夢 終話

麗水は、目に見えて、動揺していた。

普段の何倍もの量の、紫煙をくゆらせている。

文は、抱きしめられたあと、家に招かれた。

招かれたというよりは、付いてきた、と言う方が正しかった。

こんな麗水を見るのは、初めてだった。


「多少は、落ち着きましたか?」

「おう、多少はな。」


紫煙をくゆらすのを止める気は、なかったようだ。


沈黙が続く。文には、この沈黙を破る方法は知らなかった。

何があったのか、明らかに紫の屋敷に誘われてから、様子がおかしい。

それを聞くのは、はばかられた。


「文」


呼びかけられた、自然に、佇まいを正していた。


「な、なんですか。」

「人間というのは、なんとも難儀な生き物だな。」

「どうしたんですか、急に。明らかに、おかしいですよ。」


おかしいのは、確かだった。


「例え、何年、何十、何百と生きてきても、抗えない感情が、人間にはあるのだな。初めて知ったことだ。」


麗水の言葉は、独白に近い。

黙って聞こうと、文は思い始めていた。


「酒は無いが、肉はある。少し暇を潰したら、今日は帰れ。今日のことは、感謝している。」


その後は、ぽつぽつと、麗水が言葉を漏らすだけだった。

それを、黙って聞いていた。肉は、喉を通らなかった。


「麗水。」

「どうした。」

「私には、あなたに何があったのか、わからないわ。話してくれないってことは、人に言うべきことではないってことも、わかる。でもね、私は、そんなあなたは見ていたくない。元の、のらりくらいとしたあなたに戻って欲しいと、思う。」

「そうか、戻って欲しいか。」

「ええ。」

「安心しろ。戻る。戻らないわけには、いかない。俺は俺なりに、けじめをつける。他でもない自分のために。それだけは信じてくれ。」

「信じるわ。」

「あと、もう一つ。」

「おう。」

「たまには、自分に素直になってみても、良いんじゃない。たまに我が儘を言ったって、誰も文句は言わないわ。」


麗水の家を出た。見送りはなかった。

麗水は、自分の悩みは、秘めたままだった。

それが、文にはたまらなく悔しかった。



文に、釘を刺された。

麗水は、そう感じていた。

自分が、乱れている。それは、自覚していた。

しかし、乱れを修正することも、できなかった。

自分は、たまらなく、人間だった。


「悔しい。」


呟いた。もう聞く存在は、居ない。


「最初に、あの言葉を言ってくれればな。」


自分に、素直にもなれたかもしれない。

悩みを、吐露することが、出来たかもしれない。

幻想郷最速であるのに、彼女は自分の思いを伝えるのは、遅かった。


「俺は、会いたい。」


立ち上がった。陸姫を、手に取った。

小屋から、砥石を出して、陸姫を削り始めた。

武器の手入れは、自分でいつもしていた。


「俺は、彼女に、会いたい。」


武器を研ぐと、自分の意志も、澄み渡ってくる気がした。


「俺は、幽々子に、会うんだ。会って、どうするか、決める。」


削り終えた陸姫を、空に掲げた。雪は降っておらず、空には月が浮かんでいた。

月光が、陸姫を照らす。出来栄えに、文句はなかった。





翌朝、紫が訪れた。

一言、冥界に送れと、言った。

紫は、ただ頷いただけだった。


冥界は、暗かった。ただ、そこら中に浮かぶ御霊が、辺りを照らしていた。

自分も、死ねばこうなるのか。

麗水は、そう思った。それは、嫌だった。


「成仏できない魂が浮かんでいるだけよ。」


紫が言った。

心を読まれた。紫には、考えていることをいつも言い当てられていた。

最初は不気味だったが、今はもう気にならない。

自分は、考えていることが顔にでも出ているのだろう。


「どうなるにしても、後悔のない選択肢を。」

「そうだな。」


ここに浮かぶ魂には、ならない。

麗水はそう思うことにした。


「そろそろ、霊夢達も来るわよ。」

「ここにか。」

「ええ。」


巫女の勘とは恐ろしい。

それとも、自分が見逃しただけであって、手がかりは、あったのか。


「もう、選択は、始まっているわよ。私はここまでよ、じゃあね。」


紫は消えた。ほどなくして、霊夢と、魔理沙が現れた。


「麗水さん、どうしてここに?」

「霊夢、魔理沙。わざわざ足を運んでもらって悪いが、ここからは俺の出番だ。」

「ふざけんなよ。」


魔理沙が、叫んでいた。


「いきなり現れて何様だよ。あんたなんかに手柄は渡さねぇ。」

「魔理沙。でも、人手は多い方が、良いですよ。麗水さん。」


これは、自分がケリをつけることだ。そういう思いが、麗水にはあった。

しかしそれ以上に、自分の、醜いところは、見せたくなかった。

魔理沙には、尚更だった。


「お前達を、叩き伏せてでも、俺は行く。一人で。それぐらいの覚悟だ。」

「おう、やってやろうじゃねーか。」


いきり立つ魔理沙を、霊夢が制した。


「それほどの、覚悟で。何があったんですか。」

「言わぬ。」

「本当に、帰ってくるんですよね。」

「勿論。」


それは、言えた。生には、貪欲だ。


「おい、霊夢。まさか、本当に帰ろうってんじゃ。」

「魔理沙、ここは麗水さんに任せましょう。どの道、私たちに、勝ち目はないわ。」


彼女たちは、既に間合いの中だった。麗水は、小刀だった。

間合いに入ってしまえば、あとは結果が付いてくるだけだった。

霊夢は、それに気づいているのだろう。

魔理沙がそれに気づいているかは、知らなかった。


魔理沙に、睨みつけられた。


「あんたはいつもそうだ。飄々として、のらりくらりとして、掴みどころもないくせに、いつも結果だけは出す。あたしの努力を嘲笑うかのように。なにが八雲の一員だ。なにが分杭峠だ。あんたは妖怪じゃないか。」

「魔理沙。お前は、恋人が目の前で死んだことがあるか。」

「なに。」

「友人が、戦いのさなか、頭を潰される様を、目の前で見たことがあるか。自らの師を、その手にかけたことは、あるか。」

「何を、言っているんだよ。」

「俺は、努力を嘲笑ったりは、しない。だが、経験のなさは、笑う。長い時間を生きてきた俺には、それをしても良いという、矜持がある。」

「そうやって、自分の境遇を、盾にして。」

「だから、これも経験の一つだ。様々なものを、経験から学べ。娘。」

「子供扱いを。」

「子供だ、お前は。」


詰め寄ってきた魔理沙の鳩尾に、拳を打った。

拳を振れば当たる、距離だった。


倒れてくる魔理沙を、支えた。霊夢はそれを、見ているだけだった。


「魔理沙を、頼む。」

「わかりました。」

「すまんな。迷惑をかける。」


魔理沙から、八卦炉を取り出した。


「もっと嫌われますよ。」

「そうだな。取り繕ったりはしない。」


これより評価が下がることはない。そういう諦めが、麗水にはあった。


「必ず、帰ってきてください。」

「ああ。お前が異変に立ち向かう時も、同じことを言ったことがあるな。」

「そうですね。」


その時、霊夢は帰ってきた。

自分も帰らなければ。麗水は強く心に誓った。


「ではな。」


霊夢に、別れを告げた。

これが、麗水の選択だった。




一段一段、遠く続く石段を踏みしめ、登る。

周りには、亡霊の御霊と見紛うほどの灯篭が、麗水を監視するかのように、石段の側面に設置されている。

麗水はこれほど長い石段など初めて登る


心臓の鼓動が早くなる。緊張しているのか、それとも、恐怖しているのか。


そのどちらも、違う、と思う。

この鼓動の早鐘がなんであるか、それを断定することはできないが、苦痛は全く感じていない。

言うなれば、この言いようのできない感情は、懐かしさ、に似ているかもしれなかった。



「止まりなさい、そこの人間。」



麗水は、知らぬ間に石段を登りきっていた。


いや、違う。

あと、あと少し、続きがある。

この短い正道を進み、あの館『白玉楼』の門へと続く最後の石段。

それが残っていた。


そしてその少女は、その石段を塞ぐように立っていた。



「ここは、あなたのような只の人間が来る場所ではありません。今帰れば見逃してあげますから、どうかお帰りを。」

「ここの主に話がある。通してもらえんか?」

「お断りします。」


しばし無言で見つめ合う。

色素は薄いが、きめ細やかな髪を持つ、短髪の少女だった。

既に手には彼女の得物、刀の柄に、手が添えられている。


彼女は諦めたように、呟いた。


「言う事を聞く気が無いようですね。」

「できれば物事は荒立てたくないのだがな。」

「それはこちらの台詞です。」


添えられていた手が滑る。

滑る手に、刃が追従した。

鞘から鋭利な摩擦音が放たれる。



「武器を構えなさい。流石の私でも、無抵抗の人間を斬るのは気が引けます。」



昔、今よりももっと未熟なときに似たような事を言われたことがある。

浮かび上がったのは、一人の幽霊。その幽霊に、雰囲気は似ていた。


「お前……魂魄か?」

「……え?」

「答えろ。お前は、魂魄か?」

「そうだ……、私は魂魄。魂魄、妖夢。」


数瞬の動揺の後、睨みつけて言葉を返された。


「妖忌の、孫か。」

「なぜ…なぜ、師匠を…、祖父を知っている!」


言葉を返さず、自らの佇まいを居直す。


「答えろ!」

「答えぬよ。今はそんなこと、関係がない。娘。」

「ッ!子供扱いするな!」


彼女の殺気にも似た迫力が、こちらにあてられる。

幼い。麗水は、そう感じた。

心の幼さと、手に持った刃が、ひどく不相応だった。


「妖夢、お前は何のために戦う。」

「無論、主の、幽々子様の為だ!!」

「それだけか。」

「何だと?」

「言い直そうか。それだけか、貴様が俺に刃を向ける、その意味は。」

「幽々子様は、ここを通すなと言った。それ以上の理由など必要ない。私は、白玉楼の庭師なのだから!」

「そうか。」



妖夢の目をもう一度覗き込む、彼女の目には麗水しか写っていない。

ほかのことなど、何も。



その目では、時空も、空気も、雨すらも斬れまい。麗水は悟った。



何も見えていないのだ。真実とは、そうやって見つけるものではない。

真実とは、目で見えるものでも、聞こえるものでもない。


かつての幽霊は言っていたか、真実とは、斬って知るものだと。

妖夢は、その言葉通りだった。他のことなど、何もなかった。

それが、幼さの原因かも、しれなかった。


妖夢は今にも斬りかかりそうに、構えている。


「さぁ!早くかかって来い!!」

「たわけ。」


麗水が念じるまでもなく、スキマから麗水の得物が現れる。陸姫だった。

これが八雲を名乗る人間、麗水のみが成せる業、“スキマウツシ”。

原理自体は簡単なものだ。八雲紫その人に、自らの中にスキマを作ってもらい、紫への承諾と共にそのスキマを発現せしめる、といった物だ。

身も蓋もなく言うならば、紫に懇願し、スキマの力を微力ながら借り受ける。

紫は、自分の懇願には、いつも無償で応えていた。


「お前が俺にかかってくるのだよ。未熟者。お前に何が足りんか、教えてやる。」

「馬鹿に、してっ!!」


妖夢は斬りかかる。陸姫で、受け止めた。刃は、想像以上に、重かった。

麗水は、舌打ちを漏らしていた。

人外は、いつも不公平だった。それとも、人間が脆すぎるのか。

力比べでは、勝ったことはなかった。


受け流して、横に飛ぶ。先ほどいたところに、刃が通った。

すかさず、陸姫を振り下ろした、刀に向けて。

刀は、折れなかった。


「なに。」

「甘い!!」


腰に控えていた、二刀目で、首を狙われた。

下がるしかなかった。


打ち据えた刀は、たゆんですら、いなかった。なんて、強度か。それとも、概念的な保護があるのか。

刀は、折れぬ。力では、勝てぬ。

絶望的状況と、言って良かった。

しかし、負ける気は、しなかった。


こちらは、心が、折れぬ。胆力では、負けぬ。

それだけが支えだった。


「負けぬ。負けてたまるか。」


前に出る。下がったら、心は死ぬのだ。




妖夢は、苛立っていた。

敵が斬れない。最初は、ある程度痛めつけたら、白玉楼から叩きだそう、そう思っていた。

しかし、いつしか本気で切り込んでいた。しかし、斬れなかった。

使わないと思っていた、二刀目も、抜き放っていた。

人間ごときに。

そんな思いが、心の奥底に、沸々と湧き上がっていた。


相手の技は、幼稚なものだ。

力任せに、武器を振るう。その力ですら。自分には及ばない。

人間とは、弱い生き物だった。


だが、その弱い生き物が、斬れなかった。

苛立ちが募る。


死合にて、勝つのは難しい、しかし、死なないことはもっと難しい。死なない相手の方が、己よりも、何倍も強いのだ。そう思って、立合うのが礼儀だ。

自分の、師の言葉だった。

馬鹿な。思考を斬り捨てた。

自分が上だ。現に今、押しているではないか。

何合、打ち合っただろうか。

相手は、こちらの剣戟に、ついてきていた。衰えは、見えなかった。

また、苛立った。



麗水は、剣を打ち合わせるたびに、雑念が消えていくのを感じていた。

相手の剣閃が、よく見える。剣の触れ合う音が、心地よかった。

こんな音は、いつぶりだろうか。最近は肉を斬る音ばかり、聞いていた気がする。


力は向こうが、上だった。最初は驚いたが、今はもう慣れた。

打ち合ってはいるが、同時に、力を受け流してもいた。

受け流せるほど、その剣は、軽い。今は、そう思うようになっていた。



刀が走る。受け止めた。腰に力が入りきっていない太刀筋。

押せる。押し返せる刀だ、これは。本能が告げていた。

力任せに、押し返した。相手を押し退けていた。

いける。これも、本能が告げた。

一瞬の勝機が、見えた。


剣から一陣を取り出し、投げつけた。


「なっ」


敵が、動揺した。

投げた剣がどうなったかなど、見ていなかった。動揺を誘えたのなら、それで良かった。

もう一陣、取り出し水平に薙ぐ。受け止められた。それも弾かれた直後に投げ捨てていた。


相手からの刃は飛んでこない。

刃から更に一陣を取り出し、振り下ろした。今度は弾かれなかった。

残りの合わさった三陣の剣を、また上から叩きつけた。力が拮抗した。


徐々に押し返される。当たり前だった。力比べでは、勝てない、わかっていたことだった。

そうして弾かれた時、陸姫を、捨てていた。


懐に、入った。敵は手を振り上げたままだ。

小刀が、暴れる時だ。そう、心の中で、呟いた。





剣が、割れた。そうとしか、思えなかった。

飛んできた刃を弾いてからは、なにもできなかった。


腹部を、殴られた。痛みに顔を歪ませる暇もなく、今度は顔を打たれた。


なにが、幼稚だ。なにが、脆いだ。

この人間は、こんなにも、強いのではないか。


刀を、握っているのか、離しているのか、わからなくなった。

もう、握る必要もないだろう、ということはわかった。


体が一度、舞い上がった。そして、地面が迫ってくる。


何が起こっているのか、わからなかった。

しかしこれから意識を失ってしまうのだろう、ということはどうしようもなくわかった。





最後は、地面に叩きつけた。そこまでして、漸く意識を落とすことに成功した。

少女を殴り続ける事に、抵抗がなかったわけではない。

しかし、意識を持っていては、ここは通れない。それは、よくわかっていた。


だから、完膚なきまでに、叩きつけた。

陸姫を、拾いなおす。一陣一陣、また組み合わせていく。

最後の最後まで、この分離を隠していた事が、功を奏した。

途中で、二刀に持ち替え、戦ってもよかった。

しかし、それでは最後の押し込みも、できなかった気がする。


頭を振った。反省をするのは、今ではなかった。

この異変を、解決してからだ。


白玉楼の門に、手をかけた。

あれは、前哨戦。ここからが、本番だった。


白玉楼の中は、更に不気味だった。

こんなところには、長居したくない。麗水は、不安を駆り立てられるのが、嫌いだった。

しかし、遂に、たどり着いた。

美しく咲き誇らんとする桜へと。

見た目は美しい、桜だった。だが、麗水には、吐き気を催すほど、醜い桜にしか、見えなかった。血の匂いもする。


「あら?あなたは、だあれ?」


美しく、耳に馴染んだ声が、上から降りかかる。

桜の前に、一人の女性が浮遊している。

背景の桜の輝きもあり、その姿は幻想的だった。



「いや、一足先に花見をしようとした、只の人間だ。」

「ふふ、おかしいことを言うのね。只の人間が、この白玉楼にたどり着き、それだけでなく半霊の庭師まで打倒するの?」

「それは、その半霊とやらが、未熟だったんだろうな。」

「ふふ。妖夢ったら、言われてるわね。」


扇子を口に当て、クスクスと笑う。

こんな顔だったか、麗水はそんなことを考えていた。


「…お花見なら、そこで見ていなさい。もうしばらくしたら、この西行妖は、満開になるわ。」

「ああ、それには及ばない。その桜は、一生、満開になることはない。ある程度堪能したら、お暇させてもらう。」

「へぇ、どうして?」

「もう言わなくても、わかるだろう?俺が、お前を止めに来た。」

「あらあら。」


態度は先ほどとは変わらない。少なくとも、そう見える。

だが、内側から様子を伺っていた敵意が、はっきりと姿を現した。


「あなたも、他の大勢と同じように、春を取り戻そうってわけね。」

「違うな。」

「あら、そうなの?」

「ああ、別に俺は春がどうなろうと、どうでも良い。あまりにも長く生きすぎたせいかな?まぁ、年寄り一片の諦観の念ってやつだ。たとえそれが、春の消失だったとしてもな。」

「じゃあ、どうして?そこまで世間に無頓着であるなら、満開になる桜程度の事、見逃してくれても良いんじゃない?」

「その桜だけは、駄目なんだよ。」

「え?」


例え、千年近く昔のことであろうとも、未だに克明に思い出す。彼女の顔を忘れても、あの景色だけは、思い出す。


泣いていた。血の涙を、流していた。その赤い血だけは、忘れられなかった。

思い出すたびに、吐き気が襲う。


しかし、そんな彼女は、笑っていた。

こちらに、笑顔を、向けていたのだ。


自分が壊れる音を聞いたのも、その時だ。

あんな思いは、もうしたくない。


「その桜だけは、咲かせられぬ。あの美しさは、この世に、存在してはいけない。」

「理由は……聞いても無駄そうね?」

「ああ。好奇心でその桜に触れるな。俺が言いたいのは、それだけだ。」

「あなたって、面白い人ね。少ししか話してないけど、不思議ね。」

「そうか、前にも言われたことがあるよ。」


他でもない、生前の彼女に。その言葉は、呑み込んだ。


これ以上、お互いに無粋なことは、話さない。

互いの意見は平行線、ならば一方の意見を通す方法は一つだけだ。


闘争の決着による、序列の決定。


亡霊の周りに、極彩色の弾幕が、多数展開される。


「美しいでしょう?あなたの霊も、導いてあげるわ。この西行妖へと。」


スペルカードを、ただの人間である自分に、打ち込むつもりらしい。

弾幕が、今にも発射されようとしている。

弾幕ごっこの弾は、当たり所が悪くなければ、死なない程度の威力。

当たり所が悪ければ、死ぬのだ。そう、紫に言われたことだった。まだ、当たったことはなかった。

あの美しさに比例するように、凶悪さも相当なものなのであろう。

美しさに見惚れている場合なぞ、ない。麗水は一段と気持ちを引き締めた。

正直に言って、避け切れる自信も、生き残る自信もなかった。

それでも、あれに挑む理由、それは単純だった。自分の我が儘と、未練だらけのちっぽけな約束。


「幽々子、お前だけを身勝手に、逝かせぬと決めたのだ。」

「?何を言っているの、あなた?」


だが、そんなちっぽけな約束でも、この体は動く。挑もうとする。体の内から、熱いものが込み上がってくる。

俺にとっては、大事な、生きがいであるのだ。


「行くぞ、亡霊。」


前に出た。弾幕が動き始める。下がる選択肢など、初めからなかった。


「地に墜とす。眠れ、春の亡者。」

「平伏しなさい、忘我の荒武者。」


風が、一陣吹いた気がした。弾幕が巻き起こしたものだろう。麗水はそう感じた。







紫は、うつ伏せに、布団に横たわっていた。

この選択は、正しかったのか。どこかで、間違っていたのではないか。思い悩んでも、どうしようもなかった。

覆水盆に返らず。

嫌な想像を、振り払った。

盆から打ち捨てられた水が、麗水に感じた。

麗水も、帰ってこなくなるかもしれない。そう思うと、胸が縛られる思いだった。


「紫様、お茶をお持ちしました。」

「頼んでいないわ、藍。」


お茶を置くと、一礼をして、出て行った。返事をするつもりはないらしい。

藍は、従順だ。しかし、経験から、麗水の参戦に、内心は否定的なのは感じていた。

頼んでもいない身の回りの世話は、一人になりたい紫への、意趣返しなのかもしれなかった。


麗水は、強い。

人類史の英雄を探しても、あれほどの英傑は存在しない。紫には、断言できた。

生きてきた時間が違うのだ、鍛錬の量も、経験も文字通り桁違いなのだ。


それでも、相手は人間ではないのだ。麗水が、なにか特別な力を持っているわけでもない。

しかし、その長い時間の中で、人外を相手に、異常と言えるほどの場数を踏んできている。自分には知りえない、大物殺しの境地に達していても、おかしくはないのだ。


考えは、いつもそこで振り出しに戻る。

そのループが、帰ってきてから、いつまでも続いている。


いっそ、早く死んでしまったほうが、楽なのかもしれない。


一瞬思い浮かんだ考えを、追い出すように、頬を自分で叩いた。最悪な到達点だった。

自分が恨めしかった。


お茶を、手にとった。お茶は、冷めていた。

藍が持ってきたときは、湯気が出ていたはずだ。

それを一口飲み込む。冷たさが、頭に伝播したかのように、少し落ち着いた。


頬を叩いた手を、見る。傷一つない綺麗な手だった。

麗水の手は、硬く、膨れ上がった大きな手だった。

打ち合いで、手をぶつけたり、切り傷が付くたびに、人間の手は腫れるのだ。得物を握り続けていても、腫れる。それを何万何億と続けてきた、剛毅の手だった。


触り心地は、他人にとっては、きっと快いものではないだろう。硬すぎるからだ。

だが紫にとっては、不思議と心が落ち着く、優しい手だった。


その手が、無性に、握りたくなった。

あの手に、包まれたかった。そう思った。


手に、水滴が落ちた。最初は、お茶が跳ねたのかと思った。しかし違った。生暖かった。

涙を、流しているのだ。紫は漸く理解した。


「お願い。必ず、帰ってきて。溢れた水は、必ず掬うから。盆に、必ず戻してみせるから。」


麗水が、全てに決着をつけて帰ってきたら、暖かく迎える。

紫は、決意していた。迷いは、なくなっていた。





弾を、右肩に受けていた、肩が外れたのだと理解したのは、続く弾幕が腹部を掠めた時だった。

陸姫は、とうに投げ捨てていた。片手で振るには、重すぎた。片手では分離させることも、できず、右肩を入れ直す暇もなかった。スキマウツシから、馴染みの大刀を取り出し、振るっていた。


浮遊する相手に、近づく術など、持ち合わせていなかった。自分はただの人間なのだ。浮けるものなら、浮いている。


「あらあら、無様ね。さっきからずっと地面を這いずり回ってばかり。」


言葉を返す暇も、なかった。息も上がってきている。呼吸を乱せば、待っているのは死だ。


絶体絶命、しかし、避けていた。弾幕は、避け続けている。

スペルカードを何度受け流したかは、もう覚えていない。


呼吸が、止まり始めている。麗水は、そう感じ始めていた。

そうなれば、じきに、呼吸していることも、感じなくなるだろう。慣れ親しんだ領域でもあった。

麗水は、この領域にまで達して漸く、生きていると、実感できる。

そうなると、気分が高揚する。本能が、顔を現し始めるのだ。生きたい。死にたくないと、心から思えるのだ。

何が、無様だ。俺は避けている。避け続けているんだぞ。

その美しい弾幕は、この無様な俺を殺すこともできやしない。

まやかしだ。所詮、ごっこ遊びだ。俺は、生きたい。生きたいから、殺してみせろ。


高揚すると、頭の中は、おしゃべりだった。

妖夢と闘った時とは、違う。

これだ、生きているというのは、これなのだ。

大刀で、弾幕を薙ぎ払った。大刀は、どんどんと軽くなるのだ。

錯覚などでは、ない。


人間は、理性が体へ無意識にリミッターをかけている。紫が何度か口にしていたことだった。麗水はそのことをよく理解していた、頭ではなく、体が。



「そうね、どんなに無様だろうと、あなたは生きているわ。避け続けているわ。私の弾幕を、攻略しているわ。それは恐るべきことよ。だから私も、本気よ。もうとっくにね。」


俺は、最初から本気だ。お前も最初から本気を出せ、馬鹿者。麗水は、心の中で、叫んだ。

そちらが本気ならば、こちらは更に本気を超えた向こう側だ。人間は不便で、その向こう側に到達するのが至極遅いのだ。しかし、その向こう側は、人間にしか存在しない。人外は、持ち合わせていないのだ。それが、人間の最大の可能性で、強さだと、麗水は知っている。



「だから、逝くわ。貴方も逝きなさい。幽曲『リポジトリ・オブ・ヒロカワ -神霊-』」


幽々子が出す弾幕は、どれも美しかった。

見とれる暇がないことが、惜しかった。


二、三度弾幕を払うと、手の甲が、弾幕で抉られた。思わず大刀を手放していた。

転がって避けた先に、陸姫が転がっていた。弾幕に投げていた。

弾かれると、陸姫が、六陣の剣に分かれた。あれが当たっていたと思うと、肝が冷えるのを感じた。

しかし、幸いだった。別れ、空中に舞った一陣を掴み、弾幕を横に薙いだ。

手の甲から血が噴き出した。構わず、もう一度薙いだ。


弾幕が、止んだ。

スペルカードが、止んだのだと。思った。終わりとは、思わなかった。



「素晴らしい。素晴らしいわ。これほど強い、人間の可能性を、見ることができるなんて思わなかったわ。あなたの心、体、その全てが、何物にも代え難い芸術よ。」


扇子が、振り上げられた。

彼女が初めて、扇子を動かした。そんな気がした。


最初の敵意は、消えていた。

今の彼女の表情は、底抜けに、優しかった。


「これが私の最後の弾幕。これを避けられたなら、貴方の勝ちよ。その剣で好きなように私を刻むといいわ。抵抗は、しないわ。」


桜の花びらが、舞った。弾幕では、なかった。

幽々子の背後の、桜のものだった。


「桜は」


桜を背に浮かぶ、彼女の姿を見た。

高揚が、沸騰に変わった。血液に、火が付いたのだと、思った。


「桜は」


「逝くわ。最後の桜よ。貴方も、お逝きなさい。『反魂蝶 -八分咲-』」

「桜は、嫌いだ!!!」


身のうさを 思ひしらでや やみなまし

そむくならひの なき世なりせば


誰が、歌ったのか、わからなかった。


体が前に出た、それに僅かに驚いたようだったが、どうでも良かった。

弾幕を斬り伏せた。薙ぐのでも、払うのでもなく、斬り伏せた。

この弾一つ一つが、桜の花びらなのだと、思った。

そうとしか、思えなかった。


「嫌い。嫌いだ。嫌いなのだ。」


声を出すのを止めろ。さもなくば、死ぬぞ。残り僅かに残った理性が、告げた。

貴様が嘯く領域はとっくに終わったのだ。黙っていろ。本能が告げた。口は止まらない。


「嫌いだ、嫌いだぞ。嫌いなのだぞ。」


腿に、小さな弾幕が当たった。頭を、弾幕が掠めた。

しかし、本能は眠らなかった。斬り伏せ続ける。


「桜で、笑顔になる奴の、気が、しれん。俺は、嫌いだ。」


剣が、弾かれた。左手は、噴き出した血で、真っ赤だった。

懐に、手を伸ばした。八卦炉だった。


そうだ、燃やせば、良いのか。こんな嫌いな、花など、焼き尽くせば、良いのだ。

火の有り様が頭に浮かんだ。

煙草の、火ではない。

囲炉裏の、炎でもなかった。

もっと、大きな炎だ。焼き尽くすには、それが必要だった。

永く溜まってきた鬱憤が、油のように火が付いた感触だった。


目前に、火柱が上がった。

桜の弾が、吹き飛んだ。


駄目だ、こんなものではない。これでは、花びらしか、燃えない。

こんな炎では、あそこには、届かない。

漂う女と、桜を睨んだ。

八卦炉を、後ろ手に持ち、想像した。

あそこにまで、届く炎を。届かせる、翼を。


念じたのは、流星だった。星が燃え尽きる、最後の炎。紫が、教えてくれた事だった。

思えば、紫には、自分が思う以上の、様々なことを教えてもらっていたのかもしれない。


「届け!届かせるのだ!あの桜は、燃やさねばならんのだ!」


体が、前に爆ぜた。

叫んでいる。嗄れた声だった。年寄りの呻きにも、似ている。こんなに声が枯れたのは、久しい。しかし、これ以上に枯らそう、というほどに、叫んでいた。


弾幕が遮る。頭をかがめ、右腕を上げる。肩が上がらないので、頭が守れるだけだ。

痛みを、全身が襲った。しかし、それも一瞬だった。弾は、抜けた。

目の前には、女が一人、漂っていた。もう、遮るものは、ない。


八卦炉を手放した。もう、翼はない。


「俺の、勝ちだ。」


抉られ、握ることのできない、真っ赤な左手を、女の頬に当てた。

そのまま落ちる覚悟だったが、幽々子が、抱きとめた。頬がべっとりと赤く染まっているのが、一瞬だったが、見えた。


ゆっくりと、高度が落ちていく。

そのまま、二人で倒れた。


「そう…私、負けちゃったのね?」

「ああ。」


息も絶え絶えに、返事を返す。

仰向けの彼女は、黒い冥界の空を、見つめている。


「油断したわけでは、なかったのだけどね。あなたすごいのね。」


麗水は、まだ息が戻っていないので、碌に返事を返すこともできない。

体は、どこまでも酸素を求めていた。



その様子を見て、彼女は仰向けのまま笑ったようだ。

荒い息を整える中、西行妖に目を移す。

彼女と従者、二人を倒した為か、西行妖に誘われるように集まっていた光が、少しづつ霧散していく。もしくは、幽々子が春を集めることを、諦めたのだろう。


これで、西行妖が満開になることはない。酸素の足りない頭でも、それはわかった。


しばらく、呼吸音だけが、響いた。それ以外は、無音だった。

幾分かして、呼吸が収まってくると、ふと、他ではない西行妖から、視線を感じた。

仰向けの状態から、さらに首を上に向け、西行妖を凝視した。


天地が反転した視界の中で、西行妖の木の幹に、人影を見かけた。


「あ?」


麗水が護ると言った人。麗水が、護りたかった人。

そして、麗水が、護れなかった、人。


今は、その桜の下で、その身を眠らせているであろう女性の姿を、幻視した。


ほとけには 桜の花を たてまつれ

我が後の世を 人とぶらはば

やっと、会いに来てくれた。これでずっと……一緒ね。


そんな幻聴とともに。


「幽々子。」


体が、跳ね起きていた。


「何?」


声に反応し、声の元へと振り返る。

そこには、微笑みをたたえた女性が、仰向けでこちらを見つめていた。


「あ、ああ。」

「どうしたのよ。もう、自分で呼んでおいて、豆鉄砲でも喰らったような顔して。」


俺の態度が気に障ったのか、頬をふくらませて、不満げに視線を細める。


「いや、済まない。」


視線を西行妖に戻しても、もうそこには何も居なかった。


「もうそんな元気に起きられるなら、私も起こしてちょうだい。」

「あ、ああ。」


一度起き上がってしまえば楽なもの、彼女の側に寄る。

彼女は気だるげに呻きながら、その両腕を天に突き上げた。


もう少し、体に鞭を打たなければ、ならないらしい。


いざ、と意気込み、彼女の両腕を掴み、力を入れる。思ったよりも、容易く抱き起こすことができた。



「あなたは」

「んぁ?」

「封印されている人を知ってる?」


返事は、できなかった。言ってしまって良いものか、わからなかった。


「正直に答えて欲しいわ。勿論無理強いは、しないけどね。」

「ああ、知っているよ。俺の、大事な人が眠ってるんだ。」


亡霊の瞳が細くなった。

まるで俺を哀れむように。


「そう、だから、咲かせたくなかったのね?咲かせばどうなるかも?」

「あぁ、彼女には安らかに眠っていて欲しい。だがな。」

「だけど?」


無意識のうちに、女性を見つめていた。

麗水が愛した女性の、亡霊を。

そんな麗水に、亡霊は首を傾げた。


「彼女が、それを本当に願っていたのか、わからなくなった。」


彼女は、本当はもう消えたかったのではないか。

麗水がただ、彼女との約束に縛られて、我侭なだけで、彼女の事を蔑ろにしているのではないか。そう考えたなら、心が、震えた。


「どうして不安になるの。だって貴方は、このために、生きてきたのでしょう?」

「なに。」


どうして、そう心で呟きながら、彼女を見つめ返した。


「あなたが私との戦いに賭けた覚悟、あれは一朝一夕で生まれるものでは、なかった。一日で生まれた覚悟に敗れるほど、私は脆くないわ。あなたが、あの一撃にかけた覚悟は、今まであなたが生きてきた全てを賭けた、と感じるほどの覚悟が、確かにあったわ。」

「さて、な。単純に、死んでも彼女の元に逝けるという考えだったのかもしれん。」


どちらだったのか、今の麗水にはわからなかった。

それほどまでに、人間としてのたがが、外れていた。

「どちらにしろ、幸せ者ね、その人は。」

「なぜだ。」


幸せ者だと感じる理由が、わからなかった。


「だって、死んでからもそれほど想ってくれる人がいるのでしょう?それは、とても幸せなことよ。」


納得はできなかったが、理解はした。

彼女の物憂げな呟きは、そうさせるには十分だった。十分すぎた。


「君が、そう言うということは…そうなのかもしれないな。」

「でしょう?」


しばし、西行妖を眺め続けた。

春が霧散していく様は、まるで、桜の花びらが散り落ちるよう。


手の甲の血は、止まっていた。もともと動かしていたから、出ていたようなものなのだ。

しかし、体は重かった。動きたいとは、思わなかった。


しばらくすると、幽々子の従者が、現れた。


「妖夢、負けたわ。」

「幽々子様。」


目を伏せただけで、激昂などは、しなかった。

今斬りかかられたら、おとなしく、斬られるしかなかったから、有り難かった。


「その人の、手当を。それが済んだら、白玉楼で、眠らせてあげて。」

「わかりました。」


体の重さは、増していく。まぶたも、鉛のように、重かった。

このまま眠ってしまおう。理性と本能が、同じ声を上げた。

抗うことは、できなかった。尤も、抗おうとも、思っていなかったが。









博麗神社からの歓声を背に、帰路に着いていた。丸二日は、眠っていたという。

地上まで運んでくれた妖夢には、ここまででいいと告げた。断られることもなかった。


「三日も、魔理沙はこれがなかった、ということか。」


胸の中の八卦炉を取り出し、多少もてあそんだ。

怒りは相当なものだろう。返す時のことを考えると、気が滅入った。

雪はまだ少し積もっているが、遅れを取り戻そうと躍起の春には、敵わないようだ。

地上は、待ち望んだ春の到来に、騒いでいる。今日に限っては、博麗神社ですら、数ある宴会会場の一つでしかないだろう。

しかし、酒を呑む気にはなれなかった。

世間は、春の歓迎で手一杯だというのに、自分は春の歓迎どころか、春の到来自体、どうでも良い事と考えている。つくづく世捨て人である、と再認識した。

今は、自らの住処にて、囲炉裏の炭を始末し、一息ついていた。

お湯を沸かすにも、春から秋にかけては、囲炉裏は使わない。

空には、月が浮かんでいた。


「おかえり、なさい。」

「ああ。ただいま。」


スキマから、紫が上半身を乗り出している。

いつもどこからか現れる、が麗水にとってはもう既に見慣れた光景である。それに、いつからか、彼女が視ている、という気配は感じ取れるようにはなっていた。


「…よく、俺に言う気になったな?」

「なんのことかしら?」

「紫、正直に言ってくれ。」

「わかりました。言いますわ。」


紫と幽々子は、友人であった。

幽々子が亡霊になり、全てを忘れた時来の友人である。尤も、紫は生前の頃も知っているのだが。

友として過ごした月日は、麗水が生前彼女と過ごした時間と比べるべくもない。

故に、麗水の中では、彼女は幽々子との約束を優先するのではないか、とも思っていた。

しかし、彼女は違った。麗水に話した。全てを話した。


「私も最初は、幽々子のためにも口を閉ざし続けるつもりだったわ。」

紫の事だ、最初は、西行妖に眠るのが幽々子本人ということも知っていてなお、彼女が西行妖を暴こうとするのを静観したのだろう。


「しかしね、最後の最後で、揺らいだの。」


紫は、自分だけに許す素の口調になっていた。

この口調は、胡散臭さはなく、綺麗な少女の言葉にしか、聞こえない。

いつもこうならば、誰からも怪しまれないだろう、とは思う。


「ふむ、なぜ?」

「貴方が愛しかったからよ。それと、僅かな、嫉妬。」

「嫉妬だと。」

「私は、貴方のことなら、なんでも知っている。そして、幽々子への想いも、痛いほどに。」


紫の言葉をじっと待つ。


「だから、最後の最後で、思ったのよ。このまま幽々子が成仏したら、貴方は泣く。感情は表に出さないけど、絶対に自分の殻の中で泣き叫ぶ。そんなあなたを見たくなかったのよ。これが、愛情。そして貴方の情愛を一身に受けている、幽々子の思い通りに成仏されるのも癪かなってね。……それが嫉妬。」

「そう、か。」


心のどこかで、幽々子を心の支えとしてきた部分は、ある。

彼女との思い出は、今でも思い出すだけで甘美な、華だ。世界が色づく、と言っていい。

しかしそれが、知らず紫を、今、最も大切にする人に負担をかけていた。


「すまない。紫」

「構わないわ。それに、今回の異変の、私の役割はここからよ。」

「役割?」

「ええ、今回の異変は…そうね、妖達の妖艶な夢、妖々夢とでも名付けようかしら。その黒幕は、西行寺幽々子。そしてその従者。解決者は、そう、幻想郷管理者の八雲の一員たる八雲麗水、あなた。」

「だが、あの時の俺は、麗水だった。一人の女を患う、分杭峠麗水だった。」

「そんなこと、些細な問題よ。貴方が貴方であった。それが重要よ。八雲は、ありのままのあなたを、歓迎する。幻想郷と同じようにね。」


紫は大仰に振り付け、語る。


「そして、異変が解決し、傷心のあなたを癒すのが、私。管理者であり、あなたの家族である、八雲紫の役割。」


彼女の声は本気だった。

いや、声だけではない。真実彼女は本気なのだ。

麗水が、死ね、と言えば、それが麗水を癒すことになるのであれば、迷わず、命を断つ。

それほどの仕打ちを麗水にした、そう感じているのだろう。


紫はこちらを見つめ、話しかけてくる。その目は、潤んでいた。

自分の中から、熱いものがじわりと込み上げてくるのを感じた。


「お願い、私に甘えて。いつもあなたに甘えているのだから、今だけは、私に甘えて頂戴。」


紫を抱きしめていた、胸に飛び込んだといっても良い。

拭っても、拭っても、眼から零れてくるものがある。

自分の中には、こんな物があったのか。そして、これを吐き出す事は、こんなにも気持ちがよかったのか。

溜め込んでいた盆の水を、全て溢した。そんな気がした。

スキマ妖怪め、俺のスキマにまで入ってくるつもりか。

そう呟きながら、一層彼女を抱きしめた。

応えるように、背中に回された腕を感じた。


二日も眠っていたが、気を失っていた、と言う方が正しい眠り方だ。

寝ようと思えば、寝れる。

きっと、今日はこの腕の中で眠る。確信があった。

そして、紫はそれを許してくれるだろう。これにも、確信があった。











桜が、舞っていた。

桜を眺め、歩いていた。

なぜ歩いているのか、どうしてここにいるのか、そもそもここはどこなのか。

どれもどうでもよかった。


ただ、これは夢だという確信のみが、あるだけ。紫の腕の中で、眠りについたのだろうか。


夢を見るのは、久しぶりだ。

夢を見なくなったのは、いつからだっただろう。考えても答えは出ない。

出す気もなかった。


一際大きな桜に辿り着く。

その容姿は、西行妖にも似て、荘厳であり妖艶であった。

その桜は、花びらのほとんどを風に流し、あと数刻と待たず枯れ木と変わらなくなるだろう。


「久しぶり、だな。」


背にもたれ、桜に問う。


「えぇ、本当に。」


桜は、そう答えた。


「俺は、長く、永く、生きてきた。それは、一人の女のためだったと、思っていた。しかし、それは俺の我侭、傲慢であると感じつつも、生きてきたのも、真実だ。」

「そうなのかしら。桜の私には、よくわからないわ。」

「死人に口無し。当たり前だが、時として、それはひどく残酷だ。あいつはもう自分の人生に満足して、全てを忘れて逝ってしまったのか、それとも、未練に溢れて今も冥府を彷徨っているのか。そんなことも、わからない。目の前に、あの時と同じ容姿の彼女が、いるのにだ。」


桜の返事は、なかった。


「俺は、それが知りたかった。ずっとずっと、知りたかった。結局、今の今まで、知ることは叶わなかったが。」

「それは、きっと、当人すらもわからないことかもね?」

「わからない、と。」

「えぇ、その人は死の間際、ある人の命を救っていた。自らの命を厭わず、それこそ身を呈して。そして、死の間際、薄れゆく意識で考えていたのよ。」

「何と。」

「愛する人だけは、護ることができた、と。自分は死んでしまうけれど、彼の人生を救うことはできたのだ、と。」


麗水の体が、強ばった。


「では、俺の行為は無駄であったのか?人生に満足して、逝ったのか?桜の満開と共に、消えてしまいたかったのか?」

「その感情と双対するように、もう一つの感情もあったのでしょう。彼女は、少女だった。想い人は護れたとしても、彼女は、少女だった。想い人と、もっと共に在りたい。一緒に生きたい。そう思っても、何もおかしくはなかった。悩み悩み、悩みに悩んでも、答えは出なかった。」

「今も、悩み続けているのか。」

「死の間際、人間は何が見えると思う?」


しばし、考えた。死んだことなど、ない。

死にかけたことはあるが、それだけだった。

その時に見えていた景色は、意識が消える直前の、空の姿だった。


「死ぬ直前の、景色ではないのか?」

「ふふっ、短絡ね。違うわ。人生の走馬灯よ」


走馬灯。人間とは、死ぬとき、今までの人生が映像となって脳裏を掠めるらしい。

その様子が、走馬灯にも似て、そう名付けられたらしい。

麗水が死にかけたとき、そんな映像は流れなかった。

故にそれは迷信であると、結論づけていた。

今思えば、死ぬときではなかったからなのかもしれない。事実、麗水は生きている。


「彼女は、人生の走馬灯も見た。しかし、その時になって彼女は悟った、想い人無しでは自分が生きられないことを。そして、それはこれから、自分が死した後も変わらないであろうことも、悟った。当然のことだわ。走馬灯には彼女と、想い人との思い出しか流れなかったのだから。」


彼女の一生は、決して幸せではなかった。そう、思っている。

窮屈だった。退屈そうだった。

自分には耐えられないだろう、そんな他人事な感想が、麗水にあっただけだった。


「彼女にとって、その想い人との記憶は、それほどまでに大切だったのか?」

「彼女にとって、その人は希望だった。幸せの顕現でもあった。自らが鳥篭に囚われた鳥のように、不憫に感じられたからこそ、尚更彼の生き様、有り様に恋焦がれていた。」


鳥籠の中の鳥、その表現は言い得て妙である。


「彼女は、そしてどうしたのだ?悟って、死んだ。それだけなのか。」

「さぁ?ここからは、私にもわからないわ。」

「わからぬ?」

「えぇ。でも分かることは、彼女の想いは桜となり、彼女の願望は漂っていること。もしかしたら、今もどこかで彷徨っているかもしれない。想いが弾け、全てを忘れてしまっていたとしても、その人と共に在りたいが為に。例え、それが叶わぬことであろうとも。」

「必ず、叶う。」


間を置かずに、返答していた。

返答せねばならない、そう感じた。


「たとえ朧気な意思であったとしても、記憶がないにしても、その為にここまで生きてきたのであろう?ならば必ず、叶う。想いは、届く。」


俺の想いも、届いたのだ。

そんな言葉は飲み込んだ。


桜を見上げた。

華は、もう咲いていなかった。その身から花びら全てを舞い散らし、桜の役割を終えている。

あとは花びら全てが地に落ちるのを待つのみだった。


「そうね、そうだと良いわね。」


桜の、満足そうな呟きが聞こえた。


「もう、夢も終わりか?」

「ええ、短い間だったけど、本当に楽しい語らいだったわ。」

「うむ、俺もだ。」

「また、会えるといいわね。」

「会うだろうよ。」

「私たちの物語も、終わり。」

「あぁ、終わりだ。」

「そうしたら、またお互いに自己紹介しましょう。」

「そうだな、また新たな物語の始まりだ。」


「さようなら。」

「あぁ、さようなら。」


「麗水。」

「幽々子。」


桜に、別れを告げた。

きっと、永遠に。












重い瞼を持ち上げ、目を覚ます。

代わり映えのしないいつも通りの天井。

我が家の、それも寝台の上なのだと、理解した。

傍らには、暖かい感触。


「儂は、お前と夜を過ごしてしまったのか。」

「あら、女性を襲っておきながら随分な言い草ですわ。」


言わずもがな、八雲紫であった。

幸運なことに、互いの寝巻きは全くと言っていいほど乱れていない。


「覚えていない。昨晩はお前の腕の中で、眠っただけではなかったか?」

「後ろから刺されても文句は言えない言動よ、麗水?」

「お前に刺されるなら、それも本望だがな。」

「嬉しいお言葉ね。」


麗水の鼻に、感じるものがある、味噌の香りだった。

また、規則的な、まな板が刃物を受け止める音が、響いてもいる。


「あ、そう、藍に簡単に朝食を作らせているわ。」


なに、と返事をすると、紫の顔が自信げに笑う。


「どう、貴方のことを考えた完璧な手腕でしょう?褒めてもいいのよ。」

「藍は、実に気立ての良い、立派な式神であるな。」

「私をよ。」

「紫をだったか。」


藍にも心配をかけただろう、謝罪をじきにしなければいけなかった。

藍は笑顔で許してくれそうな気もするが。


「…まぁ、いいわ。それじゃ、朝食にしましょう?」

「あぁ」


寝台を立ち上がった、紫を呼び止める。


「何か?」

「ありがとう。」

「なんのことかしら?」

「お前の全てだよ。」


紫が、頬を赤らめた。


「褒めても、何も出ないわよ。」

「あぁ、これ以上望みはしないさ。紫は、俺に最高の夢を魅させてくれた。だから、ありがとう。そして、これからもよろしく頼む。」


紫の手を、包んだ。紫の手は、心配になるほど華奢で、綺麗だった。

こちらこそ、紫はそれだけ言って、そそくさと食卓へと向かった。

麗水と紫、二人の物語は、これからもまだまだ続いていく。

それで、良かった。それこそが、良かった。





食事を済ませた後、博麗神社に向かうことにした。

紫は何かを感じたのか、ゆっくりと頷いたあと、

「いってらっしゃい。」

と言っただけだった。

藍には朝食のお礼を告げると、家の掃除も済ませてから帰宅する旨を伝えられた。


「貴方のためになるなら、苦ではない。」


そんな言葉と共に。

本当に頭が下がる思いだった。


森を抜け、境内にたどり着く。

案の定と言うべきか。博麗神社は死屍累々といった有様だ。


「おい、起きろ霊夢。」


寝転がる霊夢を、足で小突いた。当然の様に返事はなく、うめき声のようなものを漏らしただけであった。

なぜか上半身が、サラシ一丁である。

酒癖は、良い方ではないのは、知っていた。しかし、それも流石にここまで来ると、多少先行きが不安に駆られる。


「悪酔いしよって、ほら」


外套をかけておく。誰の外套かは見ればわかるので、直に返しに来るだろう。

白玉楼に向かう時、外套は着ていなかった。あれは、現在の麗水の象徴でもあるのだ。

その隣に、同じように転ぶ霧雨魔理沙を、今度は小突く。


「お前もか。」


返事はなかった。

そのようだった。

しめた、と悪しき考えが頭をよぎる。八卦炉を取り出し、彼女の手元に置く。


「借り物は、返すぞ。大活躍であった。感謝する。」


憑き物が、一つ落ちた。麗水の心が、幾分か軽くなった。

麗水を諭す、霖之助の声が聞こえた気がしたが、気がしただけだった。



今一度、境内を見渡す。

目当ての人物は居なかった。


「では、しょうがない、か。」


こんなこともあるさ。

そう割り切り、博麗神社に根を張る桜に目を移す。


桜は、八分咲き、といった所か。

満開ももうすぐそこだった。


「綺麗だ。」


思えば、桜を眺めることは、あの時以来なかったのかもしれない。

意識していたわけではなかった。無意識で、この光景から逃げていたのかもしれない。


そう、自分にとって、桜は喪失の象徴だった。


だが、今は、向き合える。

桜が、好きになっていた。


「ねぇ。」


突如、桜が声を上げた。


「私のこと、覚えているかしら?」


違った。今度は、桜でなかった。

桜の後ろから現れる、探し人。


「あぁ、覚えているよ。忘れるわけが、ない。」

「そう、良かったわ。」


忘れない、忘れられるわけがない。

続く物語があるように、終わる物語がある。そして始まる物語も、ある。


「ねぇ、貴方の名前を、教えて?」


それは、物語が始まる言葉。

それは、約束の成就。

桜は今、喪失の象徴から、再帰の象徴となる。

我が世の春が、今一度訪れるとは思っていなかった。

生きていて、良かった。どんなに迷っていたとしても。ここにたどり着いて、良かった。


「ああ、儂の名前は―――」


この物語は、終わらせない。終わらせてなるものか。

なぁ幽々子?

目前の彼女は、笑顔だった。



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