永夜抄 二話
迷いの竹林を、迷わず歩く。
文字にするとこんなにも簡単である。
しかし、簡単に迷う故に、迷いの竹林でもあるのだ。
妹紅がこの竹林の案内役をしているのも、そうであるからなのだ。
だが、麗水は迷わない。
麗水に取っては、この竹林は庭の延長でもあるのだ。
息を吸うように歩を進める。
だが、人間というのは小さなもので、息を吸うようなことでも他人ができなければ、得意気になったりするものだ。
その得意気が、文字通り足を掬った。
どういった仕組みなのか、竹林から突如現れ麗水の足を攫っていった縄は、天高く跳ね上がり、麗水も天高く逆さに跳ね上がる。
「最高の気分だなぁ。」
慌てず騒がず、足を攫った縄に手を伸ばす。儂ほどにもなると、これくらいはお茶の子さいさいと言わんばかり。そして、引きちぎる。縄を切るのではない。解くのでもない。
引きちぎった。
華麗に着地し、周りを見渡す。
「この竹林は何度来ても面白い。来るたびに表情を変える。」
茫洋とした呟きだった。しかし、目は据わっている
「さてさて、次はどんな罠が待ち構えているのやら。」
一歩踏み出した。また縄が跳ね上がる。麗水は表情を一つも変えずに、スキマウツシから取り出した陸姫で切り捨てた。手だけが別の生き物のような軌跡を描く。
「こんな歓迎してくれた者は、最高にお礼をしなければなぁ。」
吊られた丸太が迫り来る。刃が丸太を吹き飛ばす。
「兎の丸焼きは、大層なご馳走だ。」
茂みが、跳ねた。麗水の瞳が初めて揺らいだ。
「そこか因幡ぁ!!」
「う、うさぁ!!!」
兎の首根っこを捕まえた。ばたばたと手足を暴れさせる。
「結構な歓迎ではないか?」
「べ、別に麗水へのあてつけの罠じゃないウサ!!」
彼女は因幡てゐ。兎の妖怪である。
幼い少女の姿にして、兎の耳を携える、ある種反則とも言える容姿をしているが、かなりの長寿である。麗水との付き合いも長い。
「儂への罠ではないのか?」
「そ、そうウサよ。被害妄想ウサ。」
「怒ってないぞ。」
「関係ないウサ。」
「どうして?なにかあったのか。こんなに罠を張るとか、普通じゃないだろう?」
「難しいことわかるわけないウサ。私は言われた通りに用意しただけウサ。」
「ウサウサ五月蝿いな。」
「ジジくさい言い方もやめなさいよ。」
「やんのかこら。」
付き合いが長いこともあり、お互いが、今の振る舞いを茶化すことから始まる。
別に気取っているわけでも、懐古しているわけでもなく、単純にお互いの今が不似合いに感じ、可笑しいのだ。
確かに、互いに変わったものだと感じる時も麗水にはある。
ほぼ毎日会っている紫や、文では感じられない感想であり、会おうと思って会いにいくこともないのがふたりの関係だった。
てゐを降ろし、てゐは不服そうに首を回す。
「穏やかな話ではないな。お前の悪戯でない、というのが一番不穏だ。」
「でもでも、その罠に麗水が引っかかってたのは最高に面白かったわよ。」
「語尾がついていた方が、可愛げがって良いかもしれんな。純粋に腹が立つ。」
「うさ~。」
舌打ち。嘲笑。
また首をつかもうとして、逃げられた。
「こんなに罠を張って、まさか何か起こすつもりか?」
「だぁから、私に聞かれてもわからないウサ。」
「それもそうか。」
「随分とあっさりしてるウサ。」
「まぁ起こすなら、それはそれで、な。」
麗水は八雲の一族ではあるが、便宜上の呼称でしかない。紫が聞いたら怒りそうな言い方ではあるが。
彼は、八雲麗水だが、それ以前に、分杭峠麗水としての生き方を変えるということはしてきていない。
妖怪退治や、レミリアへの過度とも言えるマーキングは、八雲とは関係なしに、彼自身の生計や私情に依るところも、多分に含まれている。
で、あるからか、麗水は、妖怪が引き起こす異変に関しては寛容なところがあった。
勿論、人間に危害が及ぶのであるならば、解決や討伐のための努力は惜しまない。しかしそれも弾幕ごっこや博麗の巫女の存在もあり、その機会も随分と減ってきている。
だが、人間の側に立って、生きていたいと、切実に思う。
「本当に好々爺みたいになったねぇ。」
「儂が暴れる時代はもう終わったんだよ。」
「昔ほど気が張ってなくて、話しやすいウサ。」
「この歳になっても、色々あるもんだよ、人生は。」
軽く頷いた所で、叫びが聞こえた。すぐそこだ。
「鈴仙の声だな。」
「耳が良いねぇ。」
「聞こえていたくせに。」
「どうせ罠に引っかかってるウサ。今回は罠の配置にも趣向を凝らしたウサ。」
ニヤついているだけで、まったく動こうとしない。
「助けないのか?」
「あの辺は、足を釣り上げる罠があるウサ。」
「儂が喰らったやつか。」
「下着が見えるかもしれないウサ。」
「儂が行こうか。」
「その辺が衰えてなくて、ちょっと安心したウサ。」
「お前が助けようとしないからだ。衰えていないことを否定しないがな。」
「じゃあ小言を言われる前に消えさせてもらうウサ。後はお楽しみウサ。」
「うむ。」
茂みの向こうへと足を向ける。
「あああぁ、もぅ、罠をこんなに張ったら、私が外を歩けないじゃない…!!このままじゃ降りられないし、もう、てゐ!!」
「大丈夫か、鈴仙。」
「え、麗水さん!!どうしてここに!!」
既にスカートを全力で押さえていた。
すこし、残念だった。
「ま、そうだろうな。」
「あはは、情けないです。」
「その姿勢だと、抜けづらいだろう。今、助けてやる。」
「ありがとうございます。」
スキマウツシから大刀を取り出し、足を吊っている縄に投げつける。切り抜けた大刀は、反対側に現れたスキマウツシの中に消えていった。
落ちてきた鈴仙を受け止める。
「ちょ、ちょっとびっくりしましたよ。」
「スカートを気にしている相手に、縄を解きに行くのもな。」
「た、確かに。」
納得がいったと言わんばかりの表情で頷く鈴仙。
頷きに合わせて頭の兎耳が揺れる。
口に出すことはないが、永遠亭に棲む兎達のこの耳は、ひどく庇護欲をそそられる時がある。
これ以上抱き上げていても意味がないので、素直に降ろす。
「ちなみに、今日は永琳先生に会いに来たのだが。」
「あ、先生なら、最近はお忙しいようでして。往診だけで診察はしていないんですよ。ごめんなさい。」
「そのための外出だったか。いやいや、儂は定期の健康診断であるから気にすることではない。」
「健康診断なら、私でも出来ますし、助けてもらったお礼もありますし、寄っていってください。」
心なしか、彼女が少し興奮しているようにも見える。
「往診は?」
「大丈夫です。終わって帰ってきたところです。」
「そうなのか。」
行きはどうしたのか。
そんな言葉は飲み込んだ。
男の沈黙は美徳である。
永遠亭の中は、物々しい気配が漂っていた。麗水は、そう感じた。
特別なにかを見たわけでもない。何も、何も見かけなかったのだ。通りすがる兎も。何も。
嵐の前の、というと簡単だが、どちらかというと合戦前夜の静寂に似ている。
生と死への願望が入り混じった、複雑な静寂だ。
見慣れた診察室に通される。
一応というべきか、鈴仙が白衣に袖を通す。
あくまで健康診断なのだが。
「はい、それじゃいつものように。」
「手順は知っているのか?」
「知りません。師匠は私には絶対にやらせてくれませんし、そもそも入れてくれませんし。」
「儂のことを、気遣っているんだろう。」
「気遣う、って何をですか?」
「まぁ見ればわかる。」
着物を緩め、一気に上半身をはだけさせる。
そこから出てきたのは、大中小、様々な傷や火傷の痕。
中には皮膚がひどく変色した深手のものもある。拷問痕のようにも見える。
少なくとも、見ていて気持ちの良いものではない。
「酷い、ですね。ごめんなさい。」
「みんな、そうなる。気にするな。ここから、先生は触診。それ以外は普通だ。聞かれたことを、返すだけだ。」
「しょ、触診?!」
鈴仙が露骨に、動揺する。
「先生曰く、触る方が体のことがよくわかるという意味らしいが。」
「そ、そうですよね、触る方が、よくわかりますもんね。」
「こんな見てくれだ。無理しないでいいぞ。」
「大丈夫です、触ってみせます。」
「なんだそれは」
若干のたどたどしさはあるが、流石永琳の弟子。素早く、丁寧な触診が始まる。
「それにしても。」
「なんだ?」
「触ると触っただけ、不思議に感じる体ですね。」
「あぁ、先生もそう言っていたぞ。」
鈴仙の手が、背中の大きな痣に添えられる。
「こんなにひどい痕が残っているのに、触ってみると、生き生きとしているんです。まるで、熱を抑えきれず、燻っているかのように。」
「儂には、わからんよ。」
触診は、続く。
鈴仙の手付きが、探るような調子から、求めるような調子になった。次はここ、次はここだと、麗水の体を求めてくる。
「顔の方に、傷はないんですね?」
「不自然に思うか?」
「少しは。」
急所を外すのは、生き残るための最も有効な手段の一つだ。
眼を失ったら、どうしようもないハンデが付きまとう。そして聴覚もまた然り。
麗水の、頭部への防衛力は、一つの芸術への域に達していた。
しかしそれでも、傷を負うときはある。
「見えていないだけで、頭にはぱっくり開いた時の痕もあると思うぞ。」
「見るのは、遠慮させていただきましょうか。」
「はは、そうかそうか、触診の結果は?」
「まったくの健康体、触った限りでは、ですけどね。」
「そうか、それなら…」
扉が突然開けられる。それも、乱暴に。開けたのは、永琳だった。
これが、鬼の形相という奴か。麗水は、素直にそう感じた。
鈴仙には、どのように見えているのだろうか。麗水はまた、素直にそう感じた。
形相は、鈴仙に向けられていた。
「優曇華、あなた…麗水さんの触診を、したわね。」
「ひ」
「麗水さんは、私が、絶対に受け持つと、言ったわよね?」
「ひえぇ、ででで、でも、忙しいから、臨機応変に、まま任せるって…。」
「絶対と、言ったのよ、私は。絶対的にね。」
「そろそろ、着ていいか?」
このままでは、兎が狩られる。助けたい、庇護欲が、そう告げた。
「麗水さんは、そのままで。弟子が不始末しているかもしれないわ。私が再診いたします。」
「儂が、無理を言ったのだ。鈴仙を責めないでくれ。どうも、先生に診てもらわないと、不安になってな。ならば忙しいというではないか。だから、な。」
「あらあら、それは嬉しい。」
「な、だから頼もう。鈴仙には、まぁ、そんなに、怒らんでくれ。」
永琳の雰囲気が、和らいだ。
「優曇華、今回のことは、麗水さんに免じて、許します。この意味、わかるわね?」
「はいぃ、神に、麗水さんに、感謝しますぅ。」
「お、大袈裟な…。」
「はい、麗水さんは、もう一度座り直してくださいね。優曇華、貴女は往診行ってきなさい。行っていないでしょ、貴方。」
「は、はい!!」
やはり、行っていなかったか。
麗水は、気まずさから、鈴仙の方を見ることができなかった。
鈴仙が脱兎の如く、出て行った。
「それじゃあ、始めますよ。」
「はいよ、どうぞどうぞ。」
永琳の手が背中に触れる。触れた瞬間に、永琳の顔が歪む。
「少し、変わったわね。」
「あ?なにか悪いものでも?」
「いえ、体は全くの健康体ね。ただ、少し、熱が篭ったような気がするわ。」
「熱?」
鈴仙も似たような事を、言っていた。
永琳の手は、動き続けている。
「元々、熱に満ち充ちているような体だったのだけれど。なんだか、若返ったようなものね。何か、あなたの身にあったかしら。」
「若返りか…そうだな。」
思い当たる節は、あった。だが、口に出すことでもなかった。
「先生は、どう思う?この歳で今更だ。」
「羨ましいと思うわ。私には、もうそんなこともない。」
「悲しいことを言わないでくれ、先生。」
永琳の指示に従い、向き直る。
永琳の手が、今度は胸板に添えられた。そしてまた、動き始める。
麗水が、永琳を先生と呼ぶのは、ただ医者だからというわけでは、ない。
永琳の、達観と智慧は、麗水も尋常ではないと感心している。
知恵という点では、パチェリーに対しても、尊敬している、感謝もしている。
しかし永琳には、人生の経験という点においての、圧倒的な差を、本能的に感じていた。
それが、言葉として、出てしまう。
「小さなこと、大きなこと、大なり小なりあれども、人は変化を続けていく。それはとても幸せなことよ。変化によって引き起こされる事が、良いことだろうと悪いことだろうと、ね。」
「先生は、変わらないのか?」
「変わり続けるのが、人間の特権よ。私は、月人だもの。」
「月に居ようが、地球に居ようが、人は人だ。違うか?先生。」
「この世界の人間という範疇から外れているのは、確かよ。だから、人間は月人を神様と呼ぶのではないかしら?」
「範疇から外れているのであれば、それを言ったら儂もそうさ。」
「そういえば、そうね。」
あっさりと、肯定した。
「だが、儂は、自分が人間だと思っている。そして、それに誇りを持っている。先生にも、何か自分の生き方に誇りを持っているものがあるだろう?」
「さて、どうかしらね?」
「こうやって、語り合えるし、触りあえる。儂にとっては、人間と変わらない。」
動く手に、触れた。永琳は麗水の体を、暖かいというが、永琳の手も暖かいと、麗水は知っている。人の暖かさだ、これは。そう、思う。いつも体を触られているのだから、麗水には、よくわかった。
永琳の手が、麗水の肩先にある、大きな切り傷に触れる。
「この傷、すごく痛かったでしょう。そして、死にかけた。」
いつの傷だったかは、覚えていない。どうなったのかも。麗水は、体の殆どの傷の故を覚えていない。覚え切るには、多すぎた。
「私も、同じところを、斬られたことがあるわ。ええ、体が二つになるくらいバッサリとね。」
「そうか。」
「すごく痛かったけど、死ななかった。勝手にくっついたのよ。体がね。」
「そうか。」
「それでも、人間と思える?」
「獣は、死なないことを、悩んだりしない。ただ、死なない人間だった。それだけのことだと思う。」
永琳が、笑った。
患者に対する笑顔とは、違う。
「貴方に言われると、本当に人間として、ただの女として、生きてみたいと思っちゃう。」
「儂もよく思うさ。ただの男として、人の一生を過ごしたかった、と。」
麗水が今まで殺してきた、護ってきた、そして麗水を救ってきた命達が、もうそれを許さない。そういう所まで、来てしまった。
そういった、ままならない理由があるのは、永琳も一緒だろう。
永琳の手が離れる。
「こうなる前に、貴方に出会えていたら、どうなっていたかしらね。」
「さあて、少なくとも、今と違った関係になっていただろうな。」
触診が終わり、着物を着直す。
「永琳、儂は、あんたが変わらないと思っちゃいない。儂と出会ったときの永琳、千年前、二千年前の永琳が、今と全く一緒だと、これっぽっちも思わんのだ。」
「ありがとう、麗水さん。貴方は、これからも、人間らしく変わり続けて頂戴ね。」
「芯は、絶対に変えてやらんけどなぁ。それと、もう一つ。」
「何かしら?」
「勘なのだが、これは。これから何を起こすか、儂にはよくわからん。だが、どちらにせよ、後悔のない選択をしてくれ。」
以前、紫に言われた言葉を、告げていた。
永琳は、やはり、といった表情で頷いた。
「…ええ、わざわざ、ありがとう。」
「何も聞かん。そして、お前を場合によっては斬り伏せることになったら、すまない。」
「私は、死なないわ。」
「異変が解決するまで、斬り刻み続けることになったら、すまない。更に言うなら、お前を斬れずに、死んでしまったら、すまない。」
「本当に、ありがとう…。」
「感謝しないでくれ。それじゃ、異変が解決してからでも、また。」
診察室を、後にした。
麗水が居なくなった、永琳一人だけの診察室。
「私はね、護りたいのよ。優曇華を、姫様を。」
項垂れる。
「それで、貴方を殺してしまったら、私は、後悔する。」
後悔のない選択肢など、始めからなかった。
だから、麗水は、謝ったのだ。死んでしまったら、すまないと。
「狡い、狡すぎるわよ。こんなの。」
麗水に出会ってから、弱くなったような気がする。また、悩むようにもなったようにもなった。
「変わっているのね。私も。」
永遠なんて、人間にはないのかもしれない。
そして、永琳と、名前で呼ばれたことが、ほんの少し、嬉しかった。
現金な、女。
そんな呟きは、自分が人なのだと自覚させるには、十分だった。
最初、永琳にとって、麗水とは、人間においての芸術品だと、感じていた。
あれほどの醜い体。人間ではありえないのだ。
人間の一生では、あれほどの傷を負うことはできない。短い期間であれほどの傷を負うと、人間は簡単に、死ぬ。傷を負い、長い時間をかけて傷を癒した後、また深手を負う。それを、気が遠くなるほどの回数を重ね、あの肉体が出来上がるのだ。
あれほどの体であるのに、触ると、生きているのだ。それも溢れんばかりの、活力で。
酷い痕が残っているほど、熱を放ち、永琳を惹かせる。
永琳の体に、痕が残ることは、無いのだから。
しかし、出会い、話を重ねるうちに、芸術品以上の、尊い感情が芽生える。
あれほどの、傷を負っているというのに、彼自身の心は、恐ろしい程にまっすぐなのだ。まるで、受けた傷で、自分の芯なる部分を補強しているかのように。
きっと、戦い一つ一つに、意味を、見出しているのだろう。だから、例え負けたとしても、立ち向かえるのだ。
そうして、また傷を負う。
そんな、自分の経験、知識では及びつかない彼の生き様に、永琳は純粋に、惹かれたのだろう。
触れば、触るほど、惹かれる。
しかし、触れば、触るたびに、実感してしまう。
彼の肉体に潜む、スキマの、存在を。
麗水を支える柱木の中に、異物のようにポッカリと空いた穴。
それが、誰の所有物かを、明白に顕示していた。
あの穴さえなければ、もしかしたら、私は、彼の隣で、共に歩んでいたかもしれない。
永琳は、そう思わずには、いられなかった。