冒頭
森を駆け抜け、木の葉を散らす。
自分の耳元には先程から絶え間なく、木の葉の擦れる音が響き続けている。
それでも速度を緩めることなく、目前にて翻り続けている影を追う。
目前を走るのは、妖怪。狼のような四足の獣の姿を取りながら、その体は狼よりも何倍も大きく、毛は逆だっている。巨大な体躯を支える強靭な四足は、いともたやすくこの足場の悪い森林を駆け抜け、人間の常識を超える速度を維持し続けている。
最近に生まれながらも力を持った妖怪のようであり、度々人間を襲い、被害者が出ていた。
別に人間を襲う妖怪など珍しくもないのだが、スペルカードルールを理解せず、度を行き過ぎた行為は、すぐに足が付き、目を付けられるのは当然の摂理。
故に人里から、博麗の巫女へと妖怪退治の依頼が来たのもなにもおかしい話ではない。
妖怪も、自らの命が危ないと、今頃になって気づいたらしく、命からがら逃げ出しているのだとか。
こうして追跡を継続しているが、向こうも逃げの一手だ。
正直な話、追いつくことは無理であろう。
ただですら人外に相応しい速度を維持し続けているのだ、こちらもなりふり構っていては、振り切られてしまう。
葉の中に、飛び込んだ。
「…っ。」
何度目かの、口に侵入してきた木の葉を、吐き出す。
とにかく、あの怪狼が痺れを切らし、自分と相対するまで持ちこたえるしかない。
あの走りを見ればわかる通り、異常に素早いのだ。
これが、あの博麗の巫女から逃げ延びている理由。
逃すわけには、いかない。
「これ以上、面倒事は要らん。」
吐き捨てるように呟くと、怪狼が足を止める。
俺の言葉を察したかのように。
足を止め、怪狼と相対する。
「ほう、やっとその気になったかい?」
怪狼の眼が一際細くなり、ぎらりとした眼光が俺を射抜く。
いい加減に邪魔だ、お前を殺す。そんなことでも言いたげな、殺意のみの、本能のみの眼だ。
何様だ、この害獣が。
怒りの感情が、かっと溢れるのを感じた。
妖怪と相対するとき、よくあることだった。
怪狼は一声雄叫びを上げると、突進を仕掛けてくる。
あの脚力から繰り出される速度は、生半可ではなく、この身に受けようものならなんの慈悲もなく、体は弾け飛んでしまうことだろう。
続く二擊目も躱す。
突進を諦めたようで、今度はその熊手よりも凶悪な爪で斬りかかる。
突進の振り向きざまに一撃、もう片方の腕からもう一撃が襲いかかる。
大きく後ろに跳び一撃目を躱し、背中が木に触れた。続く二擊目は木の幹を蹴り飛ばし、横に飛び込み攻撃を躱した。
躱した爪擊は、背後にあった木を吹き飛ばし、幹を粉微塵に切り裂いた。
攻撃は強力ではあるが、いかんせん単純すぎる。見切りやすく、少しの恐怖も感じない。
それに気づくと、途端に目の前の怪狼への興味が消え失せた。
あまりにも与し易い雑魚。もう自らの瞳にはそうとしか見えなくなった。
「得物を頼む。“紫”。」
呟くと、それに応えるように俺の上空の空間が裂け、不気味な瞳がこちらを覗いてきた。その後手元にひと振りの大刀が落ちてくる。
それは、薙刀というにはあまりに刃が厚く、矛と呼ぶにはあまりに刃が長い。
刃のある鉄塊そのものが、そこにあった。
その自らの得物を、片手でしっかりと握り締め、柄を脇に挟む。
雑魚が吠え、その腕を振り下ろす単調作業。
懐に、入り込んだ。恐れなどなかった。刃で大地を踏みしめていた左足を斬る。
多少切り口が甘かったか、とも思ったが、ブツリという不快な音と共に大きく太い足が半ばまで断ち切られた。体が、左に大きく傾く。
続けて二擊目。今度は後ろから右の足の腱を斬る。
完全に動きを封じ、なおも、迎撃しようと振りかざした腕を切り落とした三擊目。
なんの躊躇もなく、その首を落とした。
ただ脆い。脆すぎる。であるのに、鈍重だ。対峙すれば、こんなにも遅かった。
負ける理由が、無かった。
「紫。」
自分の言葉に応えるように、中空から先ほどと同じ次元の裂け目『スキマ』が現れ、そのなかから金髪長髪の少女が現れた。
「ええ、何かしら。」
彼女は幻想郷の大妖怪、八雲紫。
大人びた口調、美しい容姿ではあるが、とにかく振る舞いが胡散臭い。
意図を掴めず、多くの者から、あまり接触したくないと思われる存在。だが、自分にとっては永き時間を共に生き、苦楽を共有してきた数少ない相棒であり、必要不可欠な存在でもある。
息を吸うようにそこにいる。そんな女だった。
「取り敢えず、得物を頼む。」
「わかったわ。そこに投げ入れなさいな。」
また違った場所からスキマが現れる。そこに大刀を投げ入れた。
近くの木に持たれ、胡座をかく。
「霊夢が来るまで、ここで寝る。流石に走り疲れた。」
「添い寝してあげますわよ?」
「断る。霊夢に見られたら機嫌を損ねるからな。」
「あらつれないお返事。霊夢の好意には気付いてるのにね?」
「馬鹿か。あいつが儂に抱く感情は恋慕などではない。感謝と尊敬からくる虚仮の一念だ。」
「あらあら、本人が聞いたらなんて言うのかしら。」
「何も感じまい。彼女は『女性』という存在からも浮いているだろう。」
俺は知っている。紫は、口にこそしないが、誰よりも幻想郷に一途であり、幻想郷の行く末を誰よりも案じていると。
「ふふふ…、どんな女が相手でも私が追っ払ってあげる。」
「ふむぅ、ほどほどに、な。お前以外の女が寄り付かなくなるのは、非常に残念だぁ。」
「この好色。」
それと、周りが思っているよりも、おしゃべりで、寂しがり屋の少女らしい心根の持ち主であるということも。
そんな掴みづらいようで掴みやすい彼女を、好ましいと思っている。
しばらくして、博麗の巫女、博麗霊夢はやってきた。
相も変わらず、いつもの腋を晒した紅白の巫女衣装に身を包んでいる。
先代の時もそうだったが、どうして博麗の巫女とは露出の多い衣装ばかりなのだろうか。
…まぁ見た目が麗しい故に、眼福ではある。
「藍に言われてきたけど、まさか本当に、先に退治してるなんてね……、別に仕事を奪うのは良いけれど、気をつけてくださいよ。あなたの葬式なんて行きたくないですから。」
「ああ、十分に気をつけるが………まぁ安心しろ葬式はしない主義でな。その場で看取ってくれる人間がいればそれでいい。」
その言葉に、嘘はなかった。死に方にあまり頓着はしたことがなかった。
欲を言えば、看取って欲しいというだけである。
一人で死ぬならば、それもそういう運命だったのだろうと思うことができた。
「そういう問題じゃなくてですね、」
「それで、お前の仕事はここからだ。退治の完了を人里に伝えることと、こいつを弔ってやれ。いつまでも亡骸がここにあるのは無下だろう。」
「え?人里への報告はあなたがしないんですか?謝礼だって人里から――」
「今回は年寄りが、お節介と運動不足解消のためにちょっかいを出しただけだ。元々霊夢、お前に手柄は渡すつもりだった。」
「いいんですか?」
おずおずと確かめているように聞いているが、心の中は、臨時収入に浮ついているのはわかっている。巫女であるのに守銭奴で、銭に強欲であるのはどうなのだ。彼女はきっと“巫女”という存在からも浮いている。つくづく感じていることではあるが、まぁこんな巫女も悪くはなかろう。俺はそう、思っている。
「ああ、その代わりしっかり弔ってくれよ。短い間だったとは言え、儂と殺しあった仲だ。」
「別に弔うのは巫女の仕事ではないのだけれど……報酬の件もあるし、ええ、任せておいてください。」
「頼む霊夢。儂は帰る。紫はどうする?」
「もちろんついていくわよ。あなたに。」
紫の言葉の直後、霊夢と紫の視線が交差するのを感じた。
どんな思惑が互いにあるのかは知らんが、よく毎度飽きずにやるものだ。
「そうか。藍達を心配させるなよ。」
「もちろんよ。それじゃあね、霊夢。また一緒にお酒でも飲みましょうね?」
「……酒はそっちが持ってきてよね。」
紫の含みある言動にも、ジト目ながらも一応は是と応える霊夢。なんだかんだで二人の仲は良好であり、人間であろうと妖怪であろうと、女心というのはわからん。
時刻は夕暮れを終え、闇が森を包もうとしている時刻。
自分の家は、迷いの竹林のすぐ側に、ひっそりとある。
端的に言えば、人里のすぐ外にある。
人里の外であるので当然ながら人気はなく。人が近寄らぬ迷いの竹林側であるので無論、雰囲気も暗い。
だがしかし、人里のすぐ外でもあるので、妖怪の気配もない。
そんな二つの存在の境界線上かつ、何者からも隔絶されたような場所に俺は住んでいる。
大きくもなく、華やかでもない家である。
しかし小さすぎるわけでもないし、地味すぎるわけでもない。
自分は幾度も居を変えてきたが、今の我が家は歴代の中でも、それなりに気に入っている。
玄関の戸にぶら下がっている掛札をひっくり返す。
見える文字は「閉店」から「営業中」に。
それを確認してから家に入る。
「何を飲む?」
「何か食べたいわ。」
「草しかないなぁ。」
「ならお茶で良いわ。あなたの家の草は、苦いだけで美味しくないわ。」
肉にありつくのは、気まぐれだった。今日は、蓄えはなかった。
「あ、それと緑茶ね。この前飲んだのは嫌よ。」
「安心しろ、あれはお茶じゃあない。珈琲とかいう嗜好品だ。」
「コーヒーは知ってるけど、あれが嗜好品?随分な嗜好ね。」
「慣れればあれはあれで、な。」
家の中、ということで紫の口調も幾分か砕けた口調に戻っている。
自分の家であるのに家主以上に安心している気がするが、
俺は囲炉裏に向かい、火の用意をし始める。
紫は、俺とは対面の位置に囲炉裏に向かい、こちらの様子を見つめている。
「別に今日くらいは閉店のままでも良かったんじゃない?」
「まぁな。だがもう習慣のようなものだ。それに、需要がないのだ。だったら需要が発生した時、いつでも対応できるくらいにはしておきたいではないか。」
「ほんとに無いものね。需要。」
「まぁな。」
火種を起こし、それを火箸で弄りながら悪態のように返事をする。
この稼業、需要はあるだろうが、すべて博麗の巫女が供給してしまう。要は、大きすぎる商売敵が居るということだ。
静寂が部屋を包む中、見つめるのは火種。火種を見つめていると、時に火種の光に吸い込まれそうに感じる時がある。
本当に吸い込まれてしまえば大惨事なので、気がする、だけではあるが。
ふと、俺がどうして火種に吸い込まれそうになってしまうのかを考えた。
吸い込まれそうになる、ということは火種に対し、何かしら魅力を感じているということ。
そこまで考え、すぐに結論に行き着いた。
あぁ、そうだ、火種のように生きたかったのだ。
誰かの為に、燃え、周りを温め、消えていく。
この火のように、燃え盛り、消え入り、役目を終えるような、存在した意義のあるモノになりたかったのだろう。
内心、自嘲するようにため息をつく。
こんな長く、ずるずると、無駄に生き続けているとはな。自分でも予想してなどいなかった。
「また、変な考え事してるわね?」
「ん?…さてな。」
気づいたら紫は俺の隣に来て、共に火種を見つめていた。
憐れむような、慈しむような複雑な表情だ。
紫は、そう、と一言返事し、
―――あなたは、火種よ。
呟くように、優しく諭すように紫は言葉をこぼした。
「あなたは火種をどこに置く?」
「なんだいきなり。」
「いいから答えて。あなたはさっき、火種をどこに置いた?」
「そりゃ、一番奥だな。周りに熱が良く伝導するように。」
「そう、そしてその火種は決して表には出てこないわ。人知れず、多くの炭や薪の下で、熱を与え続ける。」
火箸が、知れずに火種を隠していた
「…そうだな。」
「たとえ消えたとしても、その熱は、確かに周りに息づいているわ。存在した意義が、そこにはある。誰も必要なかったなんて言わない。」
「……。」
「それにね、火種の中には、周りと共に燃え続ける火種もあるのよ?」
紫の瞳は、いつからか、火種から俺に移っていた。
彼女の瞳を見ようとは思わない。見れば、本当に吸い込まれてしまうだろうから。そうしたら、きっと戻れない。
「ねぇ、こっちを見て…?」
「ふん、早く帰らないと、式神達が心配するぞ。」
「話を逸らすのはやめて。」
「――わかった。」
火箸を置き、紫に向き直る。瞳を覗き込めば、瞬時に瞳に吸い込まれそうになる。
それは火種の比ではない。
これは、大妖怪だな…、素直に感心した。
「紫の前では、本当に考え事ができないな。」
「私は、あなたのことなら何でも知ってるわ。」
「それは、心が休まる暇がないな。」
「それなら、私が安らぎを与えてあげる。」
「どうやって?」
「それはね――」
部屋に、扉を叩く音が響く。
叩かれた扉は、言わずもがな玄関の戸。
自分自身が、紫の瞳から這いずり出てくる感覚を自覚した。
こんな時間に訪問か。
ただですら訪問が少ない我が家である。それもこんな時間に訪問しよう人など限られる。
一番来るであろう人物の烏天狗であるならば、今頃戸を叩きながら返事を求めている所であろう。最悪、返事など待たずに戸を開けているに違いない。
ということは、来た人は……商売相手。
「需要……あったな」
「残念ながら、ね」
だから今日くらいは…、という紫の声を背景に、戸に向かう。
取り敢えず、扉の向こうに呼びかける。
「誰だ?」
「こんな時間に突然すまない。頼みたいことにがあって…な。」
「その声、慧音か。入れ。」
上白沢慧音、人里の寺子屋で子供達を教える女性であり、ハクタクと言われる半人半獣の妖怪でもある。
付き合いもそれなりに長く、何度か寺子屋にお邪魔し、子供たちに授業をしたこともある。
戸を開け、中に招く。
何度か招いたこともあるから、勝手も知っているようで、囲炉裏の方へ向かう。
いや、正確には向かおうとした。向かおうとして、視線を囲炉裏に向けたところで、紫と目があったのだろう。お互いが少し顔を顰めた気がした。
改めて囲炉裏へと誘ったが、いやここでいい、と手で制された。
しかし立ち話もあれなので、腰掛けを用意し、促した。
「それで、要件は?与太話か、それとも…仕事か?」
「後者だ。」
「だろうな。」
本当に、商売相手だったか。いやはや、珍しい。
「掃除屋『鬼泣堂』へ、ようこそ。人外、妖怪なんでもござれの掃除屋だ。さぁ依頼を言いな。今なら大特価で掃除を請け負ってやろぅ。」
久しぶりのお仕事だ、張り切って行こうか。
体の疲労は、いつしか消えていた。
「また、人里に、妖怪か。」
俺の呟きに慧音は静かに頷いた。
要約すると、空腹に痺れを切らした、木端妖怪達が、数を頼みに人里に押し入ろうとしているらしい。人間を何人か攫って、腹の足しにでもしようという魂胆であろう。
危険を察知した慧音の能力によって、人里を隠してはいるが、事態は好転はしない。
妖怪が通行人を襲うことはよくあるが、人里にまで踏み入ろうとするのは稀だった。
「そうか、それで博麗神社ではなく、こっちに先に依頼が来たわけか。」
人里を隠している慧音が、人里を離れる訳にはいかない。
かと言って、妖怪が大挙している今、人里の外にある博麗の神社へと遣いを出すわけにもいかない。
そう言った意味でも、曲がりなりにも人里の側にある俺の鬼泣堂の立地は理に適っていたわけか。
逆に言えば、そういった事態でもなければ、俺へと依頼は来ないのだ。
――まぁ、妥当な考え方でもあるが。
同じ人間とは言え、博麗の巫女と、歳を取らぬただの人間。
巫女は面倒臭がりとは言え、責務を果たすし、対してこちらは依頼料として金を、もしくが同価値の物品を取る。
これでわざわざこちらを選べというのも、酷な話であろう。
「ふん、それくらいでもなければ、儂に依頼は来ない、か。」
「いや、そんなことはないぞ!」
自嘲するように呟いた言葉に、慧音が妙に食らいついた。
「私は、例え今回のような事態でなかったとしても、まずはお前に依頼していた、と思う。」
「ほう、嬉しい言葉だが、どうして?」
「それは…、まず巫女は、少しだらしない。」
俺と紫が、少し破顔した。
「その点こちらは、依頼に対してはとても迅速で、そして真摯だ。それに――」
慧音が、急に逡巡するように、少し俯いた。
「それに?」
「い、いや…、お前は、優しいから、な?」
「なんだそりゃあ?」
まるで誤魔化すように出てきた理由に首を捻るが、紫は慧音の様子が面白かったのか、くすくす、と笑みを零している。
紫の様子に気がついた慧音が、頬を少し赤らめながら睨みつけると、紫は、失礼、と言葉を漏らし、扇を口に当てる。
その扇に隠された口は、未だに笑みを形作っていた。
「まぁ、良い。紫、儂たちが帰ってくる途中、少しでも妖怪の気配を感じたか?」
「少しは、ね。ただあの程度は森を歩いていればいつでも感じます。要は、いつも通りでしたわ。」
「妖怪側も、お前には気取られたくなかったようだな。」
黙って頷く。
で、あるならば、だ。
早く獲物を手に入れなければいけないのに、人里を目前にして、立ち往生。
妖怪達は、相当焦っていてもおかしくはない。
木端妖怪とはいえ、焦りによってどんな行動に移るかは予測が困難だ。
それに、兵法は神速を尊ぶ、とも、機をみて敏なり、とも言う。
「では、迅速かつ真摯に、依頼を達成しに行こうか。」
「ああ。…あ、お代だが、」
「自体は一刻を争うのだろ?依頼を達成した後、儂と相談しようか。」
「…わかった。それと、あともう一つ。」
「んぁ?」
「本当に、気をつけてくれ。私は、お前が心配だ」
人にとっては侮辱ともとれる発言であるが、自分は笑いが込み上げてきた。
「不思議な奴だな。依頼主が、掃除屋を心配するのか?」
「う、身勝手な、話だろうか?」
慧音の肩に手を置く。
本当ならば、頭でも撫でてやりたいところだが、帽子が邪魔だ。
頭を撫でるのは、帽子を取る時まで取っておくとするか。
「身勝手な話ではあるが…、言われた本人は、嬉しいなぁ。」
慧音は俯いたまま動かない。時間にも余裕はないのだ、そろそろ行くとしよう。
俺は紅く染められた外套を羽織る。
これは、昔から妖怪退治でいつも着る仕事着のようなものだ。
「紫は、ここで茶でも飲みながらゆっくり待っていると良い」
「嫌ですわ。私もあなたについて行きます。心配ですもの。」
「掃除屋が、心配され過ぎるのも、問題だな」
戸を開け、札をまたひっくり返す。見える文字は「閉店」に。
人里か、赴くのも本当に久しぶりに、なるな。
「儂を覚えているかな。人間達は。」
自分の呟きには、誰も応えなかった。
答えて欲しいとも、思わなかった。
途中で慧音と別れた。
妖怪の妖気を、紫に辿らせ、そちらの方へ向かっていた。
「見つけた、見つけた。紫、いつもの。」
「はいはい。」
得物を受け取り、獲物を睨む。
そこにはやけに、けたたましく鳴く人型の妖怪が、十数体。
顔と呼べるような造形はなく、のっぺりとし、つるんとした体表の顔と、三日月型の口が大きくあるだけだ。
喰いたい、腹が減った、餌はどこだ、
妖怪の言葉を解する気はないが、そんな欲望だらけの呻き声は感じ取れる。
途中で別れた慧音は、早く人里に戻り、みんなを安心させたいが為に、別れた。
特に、寺子屋で面倒も見ている、子供たちを、だ。
どうして同じ妖怪で、こうも違う。
彼女は人間を愛し、お前たちは人間を喰らう。
それは、別に問題ではなく、咎めることもない。食物連鎖とは、この世すべての生き物に適応される箍であるから。
故に、ふとした拍子で生まれた、純粋なる疑問だった。
キタ、エモノダ、クイモノダ!
ああ、そうだよ、獲物だ、食い物だよ。
お前らが待ち望んだ肉だとも。
だがな
「儂にとっても、おのれらは獲物だからな。」
もっとも、食い物にする気はサラサラないが、な。
だが、この仕事で生計を立てていることは確か。
ならば、貴様らが獲物であるということは、なにも間違っていない。
さぁ喰らい尽くしてやる。お前らが人間を喰らうように。
口角が釣り上がる。
「弾幕ごっこという優しい手段など、持ち合わせていないぞ、儂は。」
たまに現れる自らの凶暴性が、嫌いではなかった。
戦闘は、全くと言っていいほど、時間はかからなかった。
木端妖怪たちの、無残な屍体がそこかしこに転がっている。
どれももはや原型を留めていないが、共通して言えることは、どれも体が綺麗に真っ二つにされていることだ。
その切り口は、縦、横、袈裟、と多様だ。
肉片が転がっている真ん中に、立っている。
男は頬にこびりついていた、血の跡を外套で拭う。
「終わったぞ。紫」
紫の返事を待たずして、得物を投げ捨てる。
地面と接触する音はせずに、武器はスキマの中に消えていた。
「随分と今回も、返り血を浴びたみたいね。」
「やはり、紫にはわかるか。」
返り血を拭ったのは、頬だけだが、返り血はそこだけではない。
外套は赤く染まっているので目立つことはないが、外套にも多くの返り血を浴びているのがわかる。
どうして紫はわかるのか、いつも不思議ではある。臭いか?
確かめるように裾の匂いを嗅いでみる。
確かに、所々から血の匂いが漂っていた。人間の鉄臭さとは違う、妖怪特有の獣じみた匂いだ。
「また、洗濯しなきゃいかんな。」
「いい加減に新しい外套にしたら?」
「だからこれも俺の相棒だと何度も言っているだろうが。」
手を振り、この話題は終了であると、促す。
紫はため息を一つ吐くと、スキマの中に消えた。
『人里の中で姿を晒す気はないわ。そろそろ帰らせてもらうわ。』
「儂の家には、今日はもう来ないのか?」
『ええ。興が削がれた…って所ね。』
「…そうか、今日は何度もすまんな。助かった。…それと、藍にも手間をかけたと伝えておいてくれ。」
『…すこしは呼び止めてくれてもいいじゃない。』
拗ねたような呟きが聞こえた。
「どうして、また明日には会えるだろう?」
『はいはい、そうですね。それじゃあ、また明日会いに行くわ。』
「ああ、待っているよ。」
ふん、という可愛らしい吐息を残し、紫の気配は完全に消え失せた。
どうやら向こう側に出たらしいな。
今頃は不貞腐れた顔で畳の上にでも転がっているだろうか?
「まぁ、どうでもいいか。今は。」
今重要なことは紫の動向ではない。
掃除の終了を、慧音に、もとい人里に知らせることである。
踵を返し、歩を人里へと進めるが、その前に、もう一度、先ほど手にかけた妖怪たちの残骸を見渡す。
人間であろうと、妖怪であろうと、生きるには糧が必要だ。
中には、人間を食さねば生きながらえる事ができない妖怪もいる。
もしかしたら、こいつらもそういった妖怪だったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。
どちらにしろ、この妖怪たちの命を奪った。
どんな経緯であったにせよ、その簒奪に対して、謝らなければならない。
それは、勝利者の責務である。少なくとも、そう思っていた。
「おのれら、次にまた生まれてくるときは、もっと謙虚な生き物になると良い。」
そして、この亡骸達の御霊の行く末に、幸多からんことを祈る。
あとは頼みましたよ、親愛なる閻魔様。
一瞬の瞑目の後、人里に向けて再び足を踏み出した。
人里には、すぐに着いた。人気はなかった。
今、ほとんどが自分の住処に篭っているのだろう。
視線も、ちらほらと感じる。
きっと住処の中から、自分が妖怪かどうか警戒しているのだろうな。
さて、どうやって退治を知らせるべきか…。
そんな悩みはすぐに解決した。
慧音が迎えに来たのだ。
「終わったのか?」
「ああ」
答えると、慧音は振り返り人里によく響く声で、退治の報を伝えた。
多くの建物からぞろぞろと村人たちが出てくる。
だが、村人たちは一定の距離を保ち、こちらには近寄ってこない。
おそらく自分の素性を警戒してのことだろう。
「こちらの人が、私が先ほど言った妖怪退治専門の仕事を持つ方です。」
慧音が紹介を済ませると、一様に礼と感謝の言葉を述べる。が、その動きはどこかよそよそしい。
紹介されたからといっても、素性が明かされたわけでもなし、一瞬で警戒が無くなるわけがない。わかっていたから良いのだが、こうまで露骨であると、な。
「儂の名前は」
一声挙げる。周りの村人の視線は、一斉に俺に向かう。
「分杭峠 麗水。人外、妖怪なんでもござれの掃除屋「鬼泣堂」を営んでいる。手前達が言っている、人里の外れにある人食い鬼の館で、な。」
一斉にぞよめき立つ声が起こる。
烏天狗が教えてくれた、人里での俺の家の噂はどうやら本当だったようだ。
人食い鬼の館とはね…確かに「鬼」の文字を使ってはいるが…。
人間を襲い糧とする鬼の噂が、実は妖怪退治を糧とする鬼食い人だったなど、なんとも皮肉な話だ。
人里との交流をしばらく断っていた自業自得である。
「今回のように、また何かあったらいつでも来てくれぃ。評判は…まぁ、慧音先生にでも後で聞いておくとよい。あぁ、そうだ、ちなみにちゃんとした人間だ。鬼ではないし、人も食べぬからなぁ?」
人混みを掻き分け、二人の少年少女が現れる。
確か、二月ほど前に迷い込んだところを人里まで送り返した子供たちである。
子供らしい、無垢な感謝に心が癒される。
二人の頭を撫でてやる。
その様子を見ていた村人達も、少しは警戒が解けたようである。子供の力とは、実に偉大だ。
今回の成果に心の中で納得していると、慧音がもう一度声をかけてくる。
「それで、今回の報酬の話だが。……まず、金か?物か?」
「その話だが、もうほとんど報酬は受け取った。」
「え?」
「今回の成功による売り込みと、なにより子供たちからの感謝。これが今回の報酬だ。」
「…は?」
なにも冗談で言ったことではなかった。子供たちの笑顔は、何者にも勝っていた。
しかし慧音が口をほうけた様に開いているということは、突拍子もないことだったのだろう。
「なんだぃ、不服かい?」
「い、いや!そんなものが報酬になるのか?!」
「こらこら、後ろに将来の顧客がいるところで、あまり報酬のことで声を荒げるな」
言われてから、慧音は自らの声と、後ろの村人たちの懸念顔に気づいたらしく、慌てて距離を詰めて声の大きさを抑える。顔が近い。
これでは第三者からは、余計に不審であろう。
両極端であるな、慧音は。
「私としては、別に構わないのだが…いや、やっぱり少しそちらが割に合わないと、思う」
「むぅ、そうか?では、あとで評判を聞かれたら株を上げるような事を言っておいてくれぃ」
「だから…!そういう類ではなく、もっと即物的な報酬が割に合わないと、言っているんだ…!」
慧音は、致命的なまでに堅物だった。それが好ましい時と、そうでない時がある。
今回は、後者だった。
「それだったら暇なときにでも、また飯でも作りに来てくれ。」
「え、――?」
「うん、食事は儂もそれなりに苦労しているんだ。食料の調達や、調理などがな。その一食が手間もなく手に入るようになるんだ。とても即物的だろう?」
「そ、それはそうかもしれないが…。」
「ならば、それで決定だ。妹紅も誘って楽しくやろぅ。お互いが納得したようで、いや、よかった。肉が食いたい。肉が。」
慧音との距離を元に戻し、振り返り、人里の出口を向く。
「ま、待て…!」
慧音の言葉にもう一度振り返る。
「か、必ず行くからな!待っていてくれ!」
「おう、待ってるからな。」
今度こそ人里の外に向かって歩き出す。
…なんだか今日はとても多くのことがあった。
さすがに疲れた。今日は帰ってゆっくり珈琲………は、眠れなくなるな。では、少し酒でも呑んで寝よう。
そんな今後の方針を脳内で決定し始めていた頃、帰ろうとする道の端に、とある人影が見えた。
それは、年端も行かぬ少女のようであるが、どうやら自分の事を待っていた風でもある。
いや、少し、違うな。
今回の事件を解決した者が誰なのかを、確認しに来たのだろうな。
その少女と目があう。
自分の予想を裏付けるかのように、彼女は、やっぱり、と唇を震わすのを確認した。
あったことがない少女だ。が、彼女を知っているし、それはきっと向こうも同じことだろう。
彼女に歩み寄り、話しかけた。
「お久しぶりです。覚えていますか?」
「やはりな。お前、阿礼の子かぃ?」
「はい。」
彼女は優しく微笑み、こちらの瞳を覗いてくる。
その瞳は、紫や霊夢とも違う。
吸い込んでくるわけでもなく、見つめられるとどこか暖かくなる温情の眼差し。このような瞳をする人間は、最近めっきり出逢っていない。
「久しぶりだな。何代目になった?」
「もうこれで九代目になりました。名は阿求。阿礼の阿に、求めるの求、です。」
「そうか、いつもの通りに良い名前だなぁ?…なにかあればまた、昔のように儂に頼みに来ればいい。特別価格で引き受けよう。」
「わかりました。何かあれば必ず伺います。麗水さんも、特に用事がなくてもお茶をしに来ていただいて結構ですからね?いつでもお待ちしています。」
「あぁ、そうだな。以前のように勝手にお邪魔させて楽しませてもらうとするよ。――まぁ、転生ばかりであまり覚えていないとは思うが。」
阿求はゆっくりと、首を振った。
「あなたの事は今でも、いつ、どんなことがあったか鮮明に覚えていますよ。阿礼の子は代々、あなたを記述するためだけの本を、書きますから。」
「これはまた恥ずかしいことを。」
「最近は妖怪の友達も増えて、転生は苦ではありませんが、同じ時代を生きてきた人間は貴方しか居ませんから。それに、あなたの歴史は、幻想郷人類の歴史でもあります。」
「…そぅだな。転生しているとは言え、人間の友は、儂も、阿求お前だけだ。」
彼女の表情は、満面の笑みになる。
長く生きているだけではあるが、それだけでこんなにも喜んでくれる人がいる。
その事実に、きっと、少し笑みが零れていたことだろう。
それで今は十分だった。十分すぎた。
「阿求、別れの前に一つ、聞いていいか?」
「はい。」
ふと、今日の紫の言葉が想起される。
「お前にとって、儂はどんなだ?」
「どんな…ですか。」
「ああ、どんな関係かでもいいし、物に例えても良い。儂と同じに、長く人間の世を生きてきた、お前に聞きたいんだ。儂は、なんだ?」
彼女は、少しの思案の後、結論を出した。
「そうですね、提灯、でしょうか?」
「提灯?」
「ええ、私たちの足元を照らしてくれる、大切な明かり。消えてしまうと、一気に不安になるような、そんな明かりです。私は、そんなあなたの火を、消したくはないと思っていますよ?」
もっとほかにも意味はあるんですけどね、という言葉を付け足し、彼女はそう言葉を締めくくった。
その後、彼女とは別れた。
自分を知っている人間が、居たのだ。心が躍る。
今夜の酒は、殊更旨くなるだろう。
懐から、箱を出す。
煙草と呼ばれる外来の趣向品と、マッチだ。
紫に趣向品ということで渡されたもののなかで、気に入り、定期的に調達を頼んでいる物品だった。
紫煙を燻らすのも好きだが、この煙草の手軽さが気に入っていた。その代わり、旨いものではなかった。最近はそれも気にならなくなった。
火を点け、帰路に着きながら一服する。
提灯、火種。二つの答えを聞くことができたが、自分はそのどちらとも思わなかった。
自分には、この煙草のような指先で捨てられる小さな火が似合っている、そう思う。
煙草を地面に捻る。火種だけが地面に残った。
フィルターの部分は、捨てると紫は怒った。
わざわざ苦労して渡しているのだから始末は丁寧にしろ、と言われたことがある。
どうやらこの部分は地に還らないらしい。幻想郷のことになると、彼女は臆病なまでに敏感だった。
懐に箱を戻し、振り返り、もう一度火種を確認する。
火種は完全に消えていた。
簡単に火は付き、捻るだけで消える。その簡単さが、脆さが好きだった。
『儂』の名前は分杭峠麗水、鬼泣堂を営むただの人間。
「歳を取らぬ程度の能力」でこの幻想郷を長きにわたって見守ってきた、老人。
しかし、自分の姓はもう一つある。
幻想郷が幻想郷と呼ばれる遥か昔より、幻想郷を永きに渡りて、監視し、管理してきた八雲の一族。
八雲紫によって寿命の境界をあやふやにされた、人間と妖怪の、力の天秤を担う、最後の人間。
『俺』の名前は八雲麗水、八雲の一員にして、唯一の、人間である。