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春よ、来い  作者:
3/3

第三話

春という季節はとても短い。


ああやっと来た、そう思ったとたん初夏と呼ぶのにふさわしい季節になっている。


濃い緑は、春という季節には似合わないからかもしれない。


春の暖かな日差しより、夏を思わせる強い日差し。

風が運ぶ青々しい匂い。


そう、気が付いたらもう少しで雨の季節、梅雨がやってくる頃になっていた。


そして私、というか一年生にとって初めての演奏会も近づいていた。


演奏会は合奏曲、学年曲、個人曲で構成されていて、


合奏曲は部員全員、学年曲はそれぞれの学年、個人曲はソロ、デュオ等で出たい人のみとなっている。


私はもちろん合奏曲と学年曲のみしか出ない。二つの曲だけでいっぱいいっぱいだった。

先輩は合奏曲、学年曲、加えて個人曲を3つ出る。


リハーサルで見た先輩の弾く姿は私の目を捕えて離さなかった。


音がものすごく綺麗な訳ではない。それだったら先輩より上手い人はいる。

好きだから、それもある。

とにかく先輩の弾く姿はとても真剣で、とても楽しそうだったからだ。


その姿勢が羨ましくて、恰好よかった。


だから最近の部活は演奏会に向けて、いつもより練習がきつい。

特に曲数を抱えている人達は大変そうで、部室にいつ行ってもギターの音がしていた。


その練習のせいか、4月には柔らかかった指先がほんの少しだけ硬くなった気がする。

一回だけ触らせてもらった先輩の指先に比べればまだ柔らかかったけれど。


曲の完成という事はミスなく弾く事ではないと、ギター部に入って分かった。

強弱、大きさ、合奏曲なら正しいテンポをキープしながら他のパートとのタイミング合わせ。

ソロなら曲を曲として成り立たせる事。


そういう幾つもの事をクリアして曲は完成する。ミスをしないなんて当たり前の事だった。


とはいえ、そこは入部したてで初心者だらけの一年生。

曲を形にするのが精一杯で、曲の流れなんて考えられなかった。

先輩たちも一年生の指導には音をとにかく出す、ぐらいしか言わない。


私はただ楽譜に書かれてる音をギターで奏でる以上の事は出来なかった。

それでもこの二カ月近く、かなりギターに時間を費やしてきた。

先輩の存在は大きいけれど、それに加えてギターの持つ魅力に引き込まれていた。


彼らがどうしてあんなに自分たちが奏でる楽器を愛していたのか、私は徐々に理解していた。



「俺にとっては音色がさ、皆違うんだよ。他の楽器もそうかもしれないけど」

「そうなんですか?」


演奏会前の最後の練習の後、幸運な事に私は先輩と二人きりで帰る事になった。


もう以前のように鼓動で耳を塞がれる事はなかった。

先輩がいる状況が日常になり始めていたからだ。

夜の闇が先輩の存在を曖昧にしてくれていたからかもしれない。


部活に慣れたか、ギターは楽しいか、などなど他愛もない話が続いて、

ギターの良さについて話した時だった。


「啓太なんかガツガツした音、分かるでしょ?」

「ああ、確かに」


私の先輩への想いを唯一知っている友人を思い出して、笑ってしまう。

啓太、啓ちゃんは音は大きくて良いのだけれど確かに弾き方が繊細ではなかった。

啓ちゃんはそれなりの経験者なのに根がエレキだからなのか何なのか、

バラード系の曲がとても似合わない。


「ちさとちゃんは、爪が無いから少しこもってる。でも優しい感じだよね」


先輩が言う。

確かに爪がなくてこもった音だと前々から分かっていた。

だから優しい感じ、はお世辞だとしてもちゃんと聞いてくれている事は事実であって、

その事はとても嬉しいのに、恥ずかしい。


きっとそれは特別なんかじゃなくて先輩にとってそれは部活をやっていくうえで自然な事。

でも私にとって、それはとても特別な事。

私が先輩を見ているように、例えその何万分の一でも先輩が私を見ていてくれているのだから。


「私なんて全然駄目ですよ、周りの音も自分の音も聞こえないです」

「まあ仕方ないよ。まだ始めて二か月でしょ?でもそういう個人の音がまとまって合奏とかする訳だから、何て言うか凄い事なんだなって俺は思う。だからギターが好きなんだよね」


そう言いながら背中に背負ったギターを軽く叩く。

ハードカバーの固い音が答えるように響く。


まるでそれは会話のようだった。

先輩のギターと先輩だけにしか出来ない、会話。


「明日の演奏会、頑張ろうね」

「はい、お疲れ様でした!」


駅からやってくる明るい光が先輩との時間を終わらせる。

改札を通れば、別々のホームに行かなくてはならない。


軽く先輩は手を振って、階段を上っていく。

私は少しだけ先輩の背中を見送って階段を上った。


―ああ、私凄く幸せだ。


電車を待つ時間、電車に乗っている時間、家に着いた時、そして眠りに落ちる瞬間。


自分でも分からない幸せが心を満たしていた。


その日から、その幸せは先輩といた一年途切れる事がなかった。


満たされる事はなくてもどこか心の中でいつもその幸せがあった。


一生分の幸せを貰ってしまった。


だからあの時の私は幸せに目を塞がれて、少し先の未来と、少し先の過去が見えなくなっていた。


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