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 その夜、フィーリスの服は今までのものと違うものだった。地味な旅服でも、飾り気のない寝具でもない。首回りや袖口をレースにした、薄い青色の衣服。その上に、清潔な白いエプロンをしていた。エプロンの端には、凝った花の刺繍が施されている。街で流行っているような服と比べれば、はるかに質素だ。それでも、辺鄙なこの村では充分に洒落た服であり、誰かの晴れ着であることは聞くまでもなかった。

 見舞いに来てくれた親子が持ってきてくれたものだった。フィーリスと同じくらいの背格好の少女が、ニコニコ笑いながらそれを手渡し、母親も同じように笑いながら着せてくれた。この村に滞在する間、せめてもの慰めにと、なにも喋れないフィーリスに用意してくれたものだった。その服で夕食をとるフィーリスは、セイムが見たこともないような笑顔を浮かべていた。

「……いい服だな」

 ベッドに腰掛けたセイムは、小さな声でそう言った。出来損ないの笑顔を浮かべての言葉に、フィーリスの笑みは寂しげなものに変わっていた。打ち解けた村人たちと一緒にいたとき、母子に服を渡されたとき、アルザーと共に食事をしたとき、それらのときの笑顔は消え去ってしまっていた。

 セイムがこれからなにを言うのか、フィーリスにはわかっているのだ。沈んだ笑みは、そのためのものだった。

(俺が消しちまったんだな……)

 フィーリスを守ると誓った自分が、彼女の笑顔を消し去った。その事実に、唇を強く噛みしめる。

(それでも……俺はフィーリスを守ると誓ったんだ!)

「着替えよう、フィーリス。村を出ないといけない……もうここには、いられない……」

 絞り出すように、セイムは言った。フィーリスはなにも言わず、ただ一度頷き、そして着替え始めた。優しい母子が着せてくれた服を脱ぎ、汚れすり切れた旅服を着る。村人が洗ってくれていたが、それでも落ちない汚れが服にはこびりついていた。

「……行こう、フィーリス」

 フィーリスの手を握り、部屋の出入り口に向かう。そっと扉を開けて廊下を窺うが、窓からの星明かりに照らされたそこに、アルザーの姿は見えなかった。居間や治療室の方にも気配はない。奥の私室に戻っているのだろうか。

 フィーリスの手を引いて、セイムは廊下に出た。家の出入り口は二つ。アルザーの私室の脇にある戸口と、治療室からの出入り口だ。アルザーに悟られないように外に出るなら、治療室の方を使うしかない。セイムは足音を忍ばせて治療室へと向かった。フィーリスはただ黙って、セイムに従った。

 廊下の端の戸を開け、二人は治療室の中に入る。板戸で窓が塞がれた治療室は、だが明るかった。テーブルの上に置かれたランプの灯に、室内が照らされていたからだ。

 セイムは驚きに目を見張った。驚いたのはランプのせいではなかった。ランプの隣に、見慣れた自分の背負い袋が置かれていたからだ。テーブルには自分の剣が鞘に収まって立てかけられている。白蛇との戦いでなくしたと思っていた自分の荷物。森に落ちていたそれらを、誰が回収してきてくれたのか……考えるまでもなかった。

 そしてその荷物が、ランプと共に置かれている。すぐにでも旅立てるように用意されていた。

「……悟られていたってことか」

 セイムが村を出ようとしていることを、アルザーは気づいていたのだ。気づいた上で、なにも訊かず、セイムの振る舞いを責めもせず、こうして旅の用意を調えてくれた。辺鄙な村に住む、お人好しの治療師。お人好しにもほどがあるだろうと、セイムは思った。

(そんなアルザーを……俺は裏切るんだな……)

 まさに恩を仇で返そうとしていた。セイムを追ってきた白蛇は、アルザーも、この村も、どちらも放ってはおかないだろう。あの牙でホルン村のすべてを破壊するはずだ。それを知りながら、セイムはなにも言わずに逃げようとしている。自分たちのために、恩人たちを見捨てようとしていた。

(それでも、俺は……!)

 フィーリスを守ると、自分は誓った。その誓いのためだけに、自分は旅を続けてきたのだ。ここで白蛇と戦うようなことはできない。旅の理由を村人に説明することもできない。仮に説明したとしても、信じてはもらえないだろう。説得する時間だってなかった。黙って、見捨てて、ここを立ち去る以外選択肢はないのだ。

 乱暴に荷物を背負い、ランプを手にして、セイムは家の戸を開けようとした。そこで初めて、フィーリスが逆らった。足を動かさず、セイムの手を強く引っ張っていた。

「……フィーリス」

 振り向かず、セイムは名を呟き、また腕を引いた。フィーリスはまた逆らった。セイムの手を強く握り、逆に家の方へ引っ張ろうとする。

「フィーリス!」

 たまらず叫んだセイムの声を、

「……村を出たくない」

 小さなフィーリスの声が、打ち消していた。

 フィーリスの声に、セイムは目を見開いた。腕が緊張に震え、フィーリスを引っ張る力をなくした。

「村を出たくない」

 小さなフィーリスの声が、また部屋の中に響いた。

「アルザーに助けて貰った……村人に受け入れて貰った……ここの人たちに、自分たちは命を救われた……」

 独白のようなフィーリスの言葉。セイムはそれを遮れず、無言のまま聞くしかなかった。

「ほんとは嬉しかった……温かい空気が心地よかった……気遣う言葉が嬉しかった……素直に受け取れない自分が嫌で、それでも優しくしてくれる人たちに本当は感謝していた……」

 ああそうだ。その通りだ。改めて言われるまでもないことだった。苦しい旅を続けていた自分たちを、アルザーは助けてくれた。村人たちは受け入れてくれた。それを嬉しく思わないわけがない。感謝しないわけがなかった。

「その恩を返したい……自分たちを助けてくれた人たちに報いたい……見捨てて逃げるなんてしたくない……」

 続くフィーリスの言葉。それがセイムの本音だった。自分たちを救ってくれた人たちが、今にも襲われるかもしれない。そして命を落とすかもしれない。それを見捨てて逃げるなんて真似はしたくなかった。それが、セイムの本当の気持ちだった。

(だけど……もし白蛇と戦ったら……)

 自分一人の力で白蛇に勝つ自信はなかった。倒すことはおろか、村人を逃がすことだってできるかどうかわからない。もしまた戦っても、一昨日の夜が再現されるだけなのではないか。いや、それ以上の事態を招いてしまうのではないか……。

(もしそうなったら……)

 森で見たあの砂を思い出し、故郷であった地の光景が脳裏をよぎった。最悪の事態を想像し、セイムは恐怖に身を震わした。

(やっぱり、逃げるべきなんだ……)

 やはり逃げなくてはいけない。ここで戦ってはならない。たとえ誰が犠牲になったとしても、自分たちは、

「私はみんなを救いたい!」

 突然セイムの口が開き、叫びが放たれた。その叫び声に、セイムの思考が一瞬真っ白になった。

 ゆっくりと振り向き、セイムはフィーリスに向き直った。フィーリスは顔を上げ、セイムの瞳を真っ直ぐ見つめてきた。

 フィーリスの口が開いた。そして、

「俺もみんなを助けたい……」

 言葉が放たれた。その言葉が、すっとセイムの心に入ってきた。

「……ああ、そうだな……俺たちは……」

 自分とフィーリスは、

「みんなを、助けたいんだ」

 セイムの言葉に、フィーリスが笑みを浮かべた。口を閉じ、こくんと頷いた。セイムだけではない。フィーリスも同じ気持ちなのだ。自分たちを救ってくれた人たちを、今度は自分たちが救いたいと思っている。もしここで見捨てて逃げれば、きっと後悔するだろう。セイムは自分を責め続け、フィーリスもまた自分のせいだと悔やみ続けることになる。それこそ、きっと最悪な事態だ。

(俺はフィーリスを守ると誓った……)

 敵からだけではない。フィーリスの心も守れなければ、意味はないのだ。

「ああ、そうだ……あいつからこの村の人たちを、守ろう……」

 強く頷き、セイムは言った。

 悲鳴が聞こえてきたのは、丁度そのときだった。

 やってきたのだ、白蛇が。自分たちを追ってきた敵が、このホルン村に現れたのだ。

「フィーリスは、ここにいろ……」

 背負い袋とランプを置き、剣だけを手に扉へと向かう。心配そうな表情を浮かべるフィーリスに、セイムは笑いかけた。

「大丈夫、一昨日みたいな無茶はしないよ。村の人たちが逃げる時間を稼いだら、俺もすぐ戻ってくるから……」

 言って、セイムは外に飛び出た。すぐに扉を閉め、そして駆け出す。

(今度は、簡単にやられはしない……!)

 村人たちを助けるために。そしてなによりも、フィーリスを守るためにも。

 鞘を強く握り締め、セイムは悲鳴が聞こえてくる方へ足を速めた。

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