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ホルン村は小さな村だった。
街道から遠く離れた森の中で、身を寄せあうように民家が集まっている。中心部の広場の周りを除けば、ろくに道も整えられていない。収穫を控えた農場がなければ、廃村と思われてもおかしくはなかった。
そんな小さな村だ。余所者は好まれず、警戒されることだろう。セイムはそう思っていた。だが実際は、
「やぁ、セイム君じゃないか。怪我、もう良くなったみたいだね」
農具を持った大柄な男に声をかけられ、セイムは「ええ、まぁ……」と曖昧な返事しか口にできなかった。そのあまりに親しげな口調に戸惑ってしまう。全身から発散されている快活な雰囲気が、逆にセイムを怯ませてもいた。
「でも怪我は治りかけが肝心だからな。アルザーさんのところでしっかり休んでいくといいよ」
男は笑いながらそう言うと、踏み固められた土の上を歩いていった。セイムはその場に立ち尽くし、男を見送ることしかできなかった。
「ありがたいことではあるんだろうな……」
周囲の状況を調べるために、セイムは朝早くアルザーの家を出ていた。村の中を見て回る。そこで何人もの村人と会っていた。村人は皆、セイムたちを警戒するどころか、怪我を同情し、気遣っていた。それはありがたいことではあるのだろうが、感謝よりも微妙な居心地の悪さをセイムは感じていた。こんな気分を味わうぐらいなら、やはり昨夜のうちに村を出た方が良かったと思ってしまう。アルザーの言葉通り、夜には傷が痛むこともなくなったのだから、留まる必要はなかったのだ。
だがセイムは、アルザーの「療養のためにこの村で休んでいけばいい」という申し出を受け入れた。それはフィーリスのためだった。故郷であった地を出てから約一月、村にも街にもろくに立ち寄れず、人目を避けるように旅を続けてきた。まともに休めたことなど一日もないのだ。幸い、アルザーはこちらのことを詮索しない。治療師としての役目だけを果たそうとしてくれている。アルザーが魔術師である以上警戒しなければならないが、それでもようやく得た休息だ。この機会に、フィーリスを少しでも休ませてあげたいとセイムは思っていた。
「それにしても……ここまで怪しまれないというのも……」
昨日、セイムは自分たちの名前しかアルザーに伝えていなかった。セイムの怪我の理由も、フィーリスが喋らない訳も説明していない。アルザーも尋ねようとはせず、村人にもなにも説明していないようだった。それでも誰も、セイムたちを怪しまず、疎むこともない。気軽に声をかけ、労りの言葉を口にする。フィーリスの身を案じてくれる人までいた。この様子では、今日の夜には見舞客まで現れそうだった。
旅の兄妹が不幸にも獣に襲われ怪我をした。そんな風にしか思っていないのかもしれない。セイムたちがまだ子供のため、警戒する必要性を感じていないということもあるだろう。だがそれでも、こんな簡単に受け入れられるとは思っていなかった。ホルン村の人々は特別純真なのだろうか。あのアルザーと同じように……。
右手の傷が一瞬疼いたような気がして、セイムは顔をしかめた。側の民家の壁に寄りかかり、右腕を持ち上げる。白い包帯が目に映った。その下の傷は魔法によってほぼ完治している。遠からず、包帯をつける必要もなくなるだろう。アルザーの治療のお陰だった。アルザーの治療と、魔術のお陰だった……。
気がつけば、包帯を見つめるセイムの視線は鋭いものへと変わっていた。刺すような目つきだ。もし手に刃物があれば、実際に刺していたかもしれない。そう思わせる目つきであった。
「どうかされましたか?」
唐突に声をかけられ、セイムは顔を声の方に向けた。突然のことで、表情を改める余裕もない。鋭い目つきをそのまま声の主に向けてしまっていた。
視線の先にいたのはアルザーだった。僧侶が着るようなゆったりとした服に、小さな背負い袋と、幾つもの小袋がついたベルトを身に着けている。午前中は村人の様子を一通り見て回ると言っていたから、その帰りなのだろう。セイムに睨まれながらも表情は変えず、昨日と同じ柔和な笑みを浮かべていた。
「もしかして、まだ傷が痛みますか?」
セイムが右腕を睨みつけていたためだろう、アルザーは少しだけ表情を曇らせ、そう訊いてきた。セイムの目つきに気分を害した様子もなく、治療師として怪我のことを気にしている。本当にこの男は良い治療師なのだと、セイムは思った。だがそれでも、
(……この男は魔術師なんだ)
たとえどれほど良い治療師であろうとも、魔術師であるのならば、気を許してはならない。緩みかけていた気を引き締めようと、セイムは奥歯を強く噛みしめていた。
「そろそろお昼ですし、一緒に家に戻りませんか? フィーリスちゃんも一人では寂しいでしょうし」
その言葉に、歯を噛みしめる力が更に強まった。アルザーが、魔術師である男がフィーリスの名前を口にしたことに怒りを覚える。歯を噛みしめていなければ、怒鳴り声を上げていたかもしれなかった。
「セイム君?」
呼びかけるアルザーに返事をせず、セイムは背を向け、歩き去ろうとした。
「……そんなに魔術が嫌いなんですか?」
その足を止めたのは、寂しげなアルザーの声だった。背後にいるアルザーの顔は当然見えない。だが声音から、今までにないほど表情を曇らせていることは想像できた。
「……魔術は、この世にあってはならない力だ」
気がつけば、セイムは口を開いていた。アルザーを無視して歩き去ってもいいはずだった。だがなぜか、それはできなかった。足を進めることができず、意識するよりも先に口が開いてしまっていた。
「魔力を操り、この世界の理を変えてしまう術……今の世界を壊してしまう力だ。そんなものは、この世にあってはならない……魔力に目覚めたことも、魔術を開発したことも、すべて間違いだっ!」
抑えることができず、最後は怒鳴るように言葉を放っていた。言い終えた矢先、後悔が胸にわき上がる。警戒しなければならない魔術師の前で魔術を否定してしまったことを後悔し、自分を助けてくれた治療師に対して声を荒らげたことを悔やんだ。
(なにをしているんだ、俺は……)
唇を噛み、これ以上なにか言ってしまう前に立ち去ろうとする。そのセイムの足を止めたのは、
「……そうかもしれませんね」
またしてもアルザーの声だった。先程と同じ寂しげな口調だった。
「確かに、その通りかもしれませんね……私たちが使っている魔術は、セイム君が言う通りこの世界を壊してしまいかねない。生物の内にある魔力も、暴走する危険が常にあります……実際に、一つの王国を砂漠へと変えてしまったという話もあるぐらいですから……」
「……エーベルス」
抑える暇もなく、セイムの口が動いてまた言葉を放っていた。短い名称、それは王国の名前だった。
「よくご存じですね……そうです、エーベルス王国。かつて、このグロースド大陸の中央に都を構え、栄華を極めた大国です。ですが、およそ百年前、一夜にして国土のすべてが砂漠となり、滅亡してしまった……人が内なる魔力の存在に気がつき、それを操る術を見つけたのもおよそ百年前。時期が重なることから、エーベルスは魔力の暴走か、大規模な魔術の失敗によって滅びたのだという説もあります」
あくまで一説ですけどねと、アルザーは続けた。セイムは言葉を返さず、その場に立ち尽くしていた。
「……魔術は確かに危険な力でしょう。開発されてから、ようやく百年を超えようかというところ。まだまだ未完成の域で、経験則に頼る部分も多い。魔力についても未知の部分ばかりで、安全に使いこなせているとはとてもではないですが言えません……それでも!」
半ば叫ぶような声を、アルザーが発した。一拍の間の後、言葉が続く。
「それでも……使い方を間違えなければ、人を助けることもできる力なんです。私はそう信じて、ここで治療師を、魔術師を務めてきました……そしてこれからも、治療師で、魔術師であり続けます」
一礼する気配。そして、足音が遠ざかっていった。
(人を助けることもできる力……)
包帯が巻かれた右腕を、セイムはまた持ち上げた。一昨日の尋常ではない傷が、もう塞がり、完治しようとしている。魔術だからこそ治せた傷だった。
腕を下ろし、セイムは村の中央に向き直った。村の広場と、その周りに立つ建物が目に映った。比較的大きな建物がアルザーの治療所兼自宅だ。診察目的なのか、何人かの村人が入り口の近くに立っている。治療所の前だというのに顔つきは明るく、不安げな様子は少しもなかった。アルザーが近づいていくと、村人たちの表情は更に明るくなる。そんな村人たちの中に、フィーリスの姿もあった。フィーリスもまた、村人と一緒に明るい表情を浮かべていた。フィーリスはもう、アルザーや村人たちと打ち解けているようだった。
「……意地になっているのは、俺だけなのか……」
冷静さを取り戻せば、アルザーが恩人であることを思い出す。セイムの怪我を治し、フィーリスを休ませてくれている。そんなアルザーを相手に、自分はなにをしているのだろう。魔術師であるというだけで警戒している自分の振る舞いは、果たして正しいのだろうか。いやそれ以前に、魔術はこの世にあってはならない力なのだろうか。本当に許されない力と言えるのだろうか。魔力を操ろうとすること、刺激することは危険だ。だが現在、生物に宿る魔力は活性化してしまっている。たとえ魔術を使わなくても、魔力そのものがなくなるわけではないのだ。ならば来るべき日まで、安全に使う術を学ぼうとした方が正しいのではないか……。
揺らぐ考えに苛立ち、セイムはその場を足早に離れた。民家の間を抜け、農場の脇を通り、森へと入っていく。武器も持たずに村を離れるのは危険だとわかっていた。もし今襲われたら、今度こそ助からないということも。それでも足は止まらず、森を進み……
「……!」
靴の下の感触が変わってようやく、セイムはその足を止めていた。どこか定まらない、滑るような感触。耳障りな音が足下から聞こえ、セイムは視線を下に向けた。足下の地面は、いつの間にか土から砂へと変わっていた。
顔を上げ、唾を飲み込み、ゆっくりと視線を周囲に巡らした。森の中にぽっかりと、小さな砂の広場ができていた。木も草もない、直径十メートルほどの丸い砂の広場。土と砂の境目は、まるで境界線でもひかれているかのようにきれいにわかれていた。
「……あってはならない」
砂の上で、セイムは小さく呟いた。
「魔術は、この世にあってはならないんだ」
土と砂の境目、その上を視線でなぞりながら、セイムは言った。魔術はこの世にあってはならない。魔力を操ろうとしてはいけない。絶対に、それは許されない……今までなら迷いなく言えた言葉。気持ちも揺らぐことはなかった。だのになぜ、今はこんなにも声が震えるのか。どうして気持ちは定まらないままなのか。この砂を見て、なぜまだ自分は迷っているのだろうか……。
「………っ!」
弱るセイムの心に追い打ちをかけるように、悪寒が背筋を駆け上がった。顔を上げ、忙しなく視線を動かす。森の木々の間、そこに動くものを探す。
「……いない」
(いや、いる)
否定の言葉を、胸中の声が打ち消した。姿は見えない。だがこの森の中に、確かにあいつがいる。自分たちを追いかけてきた敵が。あの白蛇が、また自分たちに迫ってきていた。
(あいつも、もう傷を癒したっていうのか……)
一昨日の夜の傷を……だが考えてみれば、不思議なことではなかった。セイムの傷も、アルザーの魔術によって早くも完治に向かっているのだ。同じように、白蛇が傷を治していてもおかしくはなかった。
(……短い休息だったな)
砂の上で、セイムは拳を握り締めた。ほとんど治りかけているはずの右手の傷が、また疼いた気がした。




