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セイムが目覚めて最初に感じたのは、意外にも心地よい布の感触だった。背の敷布、体を覆う掛け布団、どちらも滑らかで毛羽立ちの一つも感じられない。後頭部を載せた枕はとても柔らかく、ベッドの弾力は丁度よいものだった。どこまでも温かいぬくもりが全身を包み込んでおり、皮膚に伝わる感触は果てしなく優しい。自然と力が抜けてしまうのを、セイムはとめることができなかった。
これほど快適な場所に寝かされたのはいったいいつ以来のことだろう。寝起きの頭でぼんやりと考えながら、セイムは半ば枕に埋まっている頭を動かした。見慣れた少女の銀髪がすぐ側に見えた。両腕を枕にして、ベッドの端に首から上だけを載せるようにして眠っている。寝顔はいつになく穏やかで、熟睡しているのが一目でわかった。旅の疲れのせいばかりではないだろう。セイムの安らいだ気持ちも移ったに違いない。
銀髪の少女――フィーリスの寝顔に、セイムの口が自然と笑みの形に変わった。苦しい旅を強いられてきた少女が、こうして穏やかに休めていることを嬉しく思った。
(ベッドに寝かせれば、もっとゆっくり休めるかな……)
ベッドは大きくはないが、自分が少し脇に寄れば、フィーリスも寝かせることができるだろう。フィーリスの体は十歳にも満たない。十四歳のセイムも体は大きい方ではない。充分二人で休めるはずだ。ぼやけた頭でそう考え、セイムはわずかに身を起こした。フィーリスの銀髪の向こうに、見知らぬ男の姿が見えた。
弛緩した体に力が入るのは一瞬だった。意識も瞬時に覚醒し、寝惚けていた自分を激しく罵った。側に他の人間がいることに気がつかず、だらしなくベッドで眠ってしまうとはなんという油断だろう。自分の迂闊さを責めながら、セイムは布団をはねのけ、ベッドの上に立ち上がった。
壁際に立つ男が、起きたセイムに気づいたのか、顔を少年の方へと向けた。その顔が驚きに引きつり、体の動きが止まる。そこを見逃さず、セイムは一気に男に飛びかかった。いや、飛びかかろうとした。だが、
「ぐあっ!」
男を捕まえようと伸ばした右腕に激しい痛みを感じ、セイムはうめき声をあげていた。床についた足がもつれ、部屋の真ん中で倒れ込んでしまう。木の床に全身を打ちつけたが、その痛みを気にする余裕もない。それほどまでに右腕の激痛は凄まじかった。
すぐに立たなければ。立って、見知らぬ男からフィーリスを守らなくては。そう自分に言い聞かせても、痛みが邪魔をして体は動いてくれなかった。燃えるように熱く痛む右腕の震えを、左手で押さえることしかできなかった。
その痛む右腕に誰かが触れた。顔を上げると、フィーリスがすぐ側にいた。セイムの行動によって起こされてしまったのだろう。遠慮がちに二の腕に触れ、泣きそうな表情でセイムを見ている。そしてそのすぐ横には、あの見知らぬ男の顔があった。フィーリスとは対照的に、柔らかな笑みを浮かべていた。
「大丈夫ですよ、痛みはすぐに治まりますから」
言って、見知らぬ男がそっとセイムに手を伸ばした。瞳に浮かんだ涙に光が反射したのか、その手はまるで輝いているかのように見えた。不思議と、セイムはその手を振り払おうとは思えなかった。目の前の柔和な表情に惹かれ、自然と力も抜けてしまう。
男の手が、右の下膊に触れた。包帯の表面をそっと撫でるその手は、驚くほど優しかった。まるで母に撫でられたときのようだとすら、セイムは思ってしまっていた。
「大丈夫ですよ。さぁ、ベッドに戻りましょう」
言われたその言葉に、セイムは無意識のうちに頷いてしまっていた。あまりに優しいその口調に、逆らう気持ちを奮い起こすことはできなかった。
アルザーと、男は名乗った。
このホルン村に住む唯一の治療師であり、そして魔術師だとも、付け加えた。
「もっとも、治療の技も魔術の業も、どちらも取り立てて優秀というわけではありませんけどね」
照れ臭そうに笑いながら、アルザーはセイムに木のカップを手渡した。ベッドの上で上半身を起こしたセイムは、薬湯で満たされたそれを黙って受け取った。湯気とともに鼻を突くにおいは苦さよりも甘さを連想させ、液体の薄い白色は故郷の果実酒を思い出せる。薬湯に怪しさは感じられない。それでも飲むことを躊躇してしまうのは、男に対する警戒心がわずかだが残っているからだった。
(アルザー……ホルン村の治療師……そして、魔術師……)
与えられた情報を反芻しながら、男の所作を窺う。アルザーはテーブルの上に木のカップを二つ置いた。フィーリスのものと、アルザー自身のものだろう。二人分のお茶の用意をする動作は優しげで、女性のように見えることもあった。低めの背と、痩せ気味の体つき。歳は三十には届いていないだろう。人によっては頼りない印象を受けそうだが、その柔和な笑みが、頼りなさを優しさに見せているようであった。少なくともその外見や振る舞いから、警戒すべき要素は見つけられなかった。
(本当になんの悪意もなく、俺たちを助けてくれたのか……)
今朝方、薬草の採集のために入った森で、傷ついたセイムと気絶したフィーリスを見つけたと、アルザーは言っていた。治療師として怪我人を放っておくことはできず、自分の家に運んで治療を施したとも。途中で目覚めたフィーリスは、セイムの側を離れようとしなかったので、同じ部屋で休ませることにした……説明にも不審な点はないように思える。怪我の様子を窺うときの手つき、淀みなく薬湯を入れる所作、それらは確かに治療師のそれだ。なにより、街道から遠く離れたこの辺鄙な村で、一人治療師をやっているのだ。相当なお人好しであるはずだった。でなければ務まるまい。それに、もし悪意があるのなら、わざわざこうしてセイムたちを助けるはずがない。セイムの傷を治療する必要だってないはずだった。
(信用してもいいのか……)
セイムの視線の先で、フィーリスがアルザーから受け取ったお茶を冷まそうとしていた。小さな両手で木のカップを持ち、一生懸命息を吹きかけている。それを見るアルザーの表情は、先程セイムに話しかけたときと同じような、優しい笑顔だった。子供を見守る親のようにも見えた。それにつられるように、自分の顔も笑みを浮かべていることをセイムは自覚した。そんなセイムたちを窓から入ってくる昼の陽光が照らしていた。
なんと心地よく、温かな空気だろう。ともすれば気が緩みそうになってしまう。薬湯の甘いにおいとベッドの温もりが、その誘惑を助長していた。
視線を落とすと、薬湯の表面に映る自分の顔が見えた。温かい薬湯の上に浮かぶ、穏やかな笑み。まだこんな笑みを浮かべられることに安堵し、少しぐらい休んでもいいのではないかという考えが脳裏に浮かび……視界の端に見えた白い包帯が、その気持ちを破壊した。
(なにを甘いことを……!)
奥歯を噛みしめ、自分の右腕に巻かれた包帯を睨みつけた。清潔な白い包帯。そこに血の染みはない。無理に動かさなければ痛みもない。完璧な止血が施されただけではなかった。あれほどの傷がもうほとんど塞がっている。肉を抉りとられ、骨が見えるほどの大きな傷が、早くも完治に近づいているのだ。通常の治療では不可能な治癒。それを可能にするのは魔術の業だけだ。そしてその業を使ったのは、
(この男だ!)
鋭い視線をそのままに、セイムは顔を上げた。きつい眼差しを目の前のアルザーへと向けていた。
セイムの視線に気づいたアルザーが、驚いた表情を浮かべた。だがそれは一瞬のことで、すぐにまた柔和な笑みへと表情を変える。
「傷、ひょっとしてまだ痛みますか? その薬湯を飲めばもっと楽になるはずですが……飲み薬が苦手でしたら、塗り薬を用意しましょうか?」
気遣う口調でそう言うと、アルザーは一歩、セイムの方へと近づいた。
「少し我慢して頂ければ、今日の晩には痛みも完全にひくはずです。あちらの子も大丈夫。怪我もしていませんし、心配はいりませんよ」
言って、アルザーは笑った。それ以上言葉は続けず、セイムがなにか言うのを待っているようだった。患者のことを考えた、優しい態度だ。それは口調だけではない。セイムたちの事情を詮索しようとしないのも、患者のことを思ってのことなのだろう。セイムの怪我の原因も、フィーリスが一言も言葉を発さないことも、アルザーは尋ねる素振りすら見せない。ただ二人を心配し、体を休めることができるよう気遣っていた。
きっと、この男は良い治療師なのだろう。アルザーの笑みに、セイムの気持ちが一瞬揺らいだ。それを抑えようとするかのように右手に力を入れた。腕に走った痛みがセイムの心を焚きつけた。
「……あんたは、魔術を使うんだな」
震える口を動かし、重たい口調でそう言った。その言葉に、アルザーは怪訝そうな表情を浮かべた。そして一瞬の後、合点がいったように小さく頷いていた。
「すいません、ひどい傷だったので、確認もとらずに魔術を使ってしまいましたが……魔術には抵抗が?」
アルザーの問いには答えず、セイムはただ目つきを鋭くした。
「だとしたら……申し訳ないことをしました。体に魔術に対しての拒否反応が現れなかったので、つい安心してしまいまして……気持ちの方はまるで考えていませんでした……」
沈んだ口調でアルザーが言った。心底からセイムに対して申し訳なく思っているようであり……セイムは、その謝罪から逃げるように顔を伏せた。まるで聞き分けのない子供になってしまったかのようで、そんな自分に嫌悪感を抱いていた。だからといって、アルザーに謝ることもできなかった。自分は魔術の存在を許せない。魔力を操る魔法の術を、セイムは認めることができなかった。だからアルザーには謝れない。礼も言えない。魔術で助けられた以上、絶対に。
温かい空気が消え、重い沈黙が部屋を支配した。
「え……あ……っ」
それを唐突に壊したのは、アルザーの戸惑ったような声だった。
突然のことにセイムは顔を上げた。アルザーの前に立ち、その両手を握るフィーリスの姿が見えた。フィーリスの顔には笑みが浮かんでいた。まるでなにも言えないセイムの代わりを務めるように、アルザーに笑顔を向けている。それは言葉の代わりに示した、確かな感謝の気持ちだった。
「あ……ああ、ありがとう、ございます……」
戸惑いながらも礼を返し、口を閉じたときにはアルザーの顔にも笑みが浮かんでいた。それを見て、セイムはほっと安堵してしまった。魔術は認められない。それを使う魔術師の存在も許せない。その気持ちに変化はないが、自分を助けてくれた人が落ち込むのはやはり嫌だった。
(……認めてはいけないはずなのに)
魔術も。魔術師も。いっそ憎まなければいけないはずだった。だができない。自分たちを助けてくれたというだけで、アルザーの存在を許してしまいそうだった。
(くそっ……俺は、やっぱりダメだな……)
また顔を伏せ、セイムは胸中で呟いた。半端な自分を自覚する。気持ちが定まらず、これからどうすればいいのかすらわからなくなってしまいそうだった。
(こんな俺に、フィーリスを守ることができるのか……)
重たく胸中で呟いた。無意識のうちに手が動き、カップの中の薬湯を飲んでしまっていた。想像通りの甘さが、薬の苦さを包み込んでいた。その甘さに逃げてしまう自分を、セイムはまた嫌悪した。




