プロローグ
夜の暗い森の中で、それでも迫りくる白蛇の姿を、少年の目はしっかりととらえていた。
少年の剣のすべてを躱し、一度として身を傷つけられることのなかった白蛇。その胴の太さは少年の体にも劣らず、その長さは少年の背丈どころか森の木々すら優に超すほどであった。木と木の間を縫うように飛ぶ白蛇の巨躯は嫌でも目に入り、だがその尾の在処はいくら視線を巡らせてもつきとめられない。逃げ道を塞がれた少年は、白蛇の体によって森の木々に縛りつけられてしまったような錯覚を覚えていた。
小声で悪態をつき、少年は蛇の頭部へと視線を戻した。見つからない尾をこれ以上探し続けるのは無駄だ。意識を頭部に集中し、近づく白蛇を睨みつける。目に映るのは蛇の大きく開いた口、その中に無数に生えた鋭い牙。噛まれたら自分の首など一溜まりもないだろう。数本の牙が刺さっただけで、肉の大部分をもっていかれてしまうはずだ。悲惨な末路が脳裏をよぎり、あるはずのない痛みを首筋に感じる。震える腕を叱咤し、少年は宙を飛ぶ蛇へと手にした剣を向けた。
一際強い風が吹き、少年の明るい茶色の髪をなぶって通り過ぎる。それがやんだ瞬間、死をもたらす牙が、音もなく眼前に迫っていた。少年の視界を、洞のような暗い穴が塞いだ。
自分の首が、地面に落ちた――その最後を想像すると同時に、少年は横に跳んでいた。一瞬前まで少年の首があった場所を蛇が貫き、勢いはそのままに背後の木に激突する。長い牙が幹に突き刺さり、蛇の動きが止まった。その隙を少年は見逃さなかった。
叫び声を上げて自分を鼓舞し、少年は剣を振り上げ、振り下ろす。重い刃が蛇の首を両断した。支えを無くした頭部が地面に落下を始め、胴体が反動で宙に浮き上がる。勢いを殺しきれなかった剣が土を叩いた。遅れてその傍らに落ちようとしていた蛇の頭部は、土に触れる寸前に細い白糸に姿を変えていた。まさに束ねられていた糸がほどけるように、蛇の頭部が形を崩し、風に舞って消える。剣の側にはなにも残らなかった。蛇の痕跡など、なに一つも。
息を呑み、目を見張り、少年が頭上を見上げたときにはもう遅かった。高く浮き上がった蛇の胴体、その切り口から血のように白糸が吹き出し、一瞬で新たな頭部を作っていたのだ。少年の目に、大きく開いた口と、その中に無数に生えた鋭い牙が映った。それが突き刺されば、自分の首など一溜まりもない……。
「セイム!」
迫る白蛇に対して動くこともできない少年の口が、突然自分の名前を叫んでいた。悲鳴のようなその声が耳朶を打ち、驚きのあまり少年は目を見張る。白蛇のことも忘れて後ろを向き、視線の先に少女の姿を認めた。少年の見開いた瞳が、更に大きく開かれた。暗い森の中、それでも輝く少女の髪が、少年の目にはしっかりと映っていた。木の枝葉に遮られ、月の光もろくに届かないというのに、その銀髪は確かな光を放っているように見えた。
「フィーリス!」
少女の口が動き、名前が叫ばれた。それと同時だった。目映い光に、森が包み込まれたのは――。
――誰かの悲鳴が聞こえ、男はその場に足を止めた。
日除けのためのフードの端を持ち上げ、周囲に視線を巡らす。どこまでも続く砂の大地がその目に映った。風によって宙を舞う砂を除けば、他に動くものはなにもない。不毛の砂漠のどこを見ても、生きた生物の姿を見つけることはできなかった。
ただの気のせいか。そうでなければ、吹き荒ぶ風が人の悲鳴に聞こえたのか。どちらにしろ、この地で人の悲鳴を聞くはずがない。男はフードから手を離すと、先に進むために一歩足を踏み出した。
なにかを踏み潰した感触を覚えた。
今度はフードはそのままに、男は自分の足下を見た。そこに人の顔があった。人の顔を、男は踏み潰していた。
顔を下に向け、男は自分が踏みつけた顔を見つめた。それは砂の顔だった。靴の脇に口とあごが見える。後頭部は靴に踏み潰され、完全に形をなくしているようだ。瞳も靴底の下だった。鼻梁の砂は流れ、遠からず周囲と同化しようとしている。視線を動かしてみるが、顔に繋がる喉はなく、その下にあるはずの胴体も見つけられない。とうの昔に風に削られ、周りの砂に混ざってしまったのだろう。
踏み潰された後頭部と、削りとられた胴体。そして唯一残された砂の口。じっと見ていると、今にも喋りだしそうに思えてくる。気のせいだと思った悲鳴は、この砂の顔のものではなかったのだろうか。迫る足に怯え、自分の顔を踏み潰さないでくれと、そう男に伝えるための悲鳴だったのではないか……。
馬鹿馬鹿しいと、男は自分の想像を打ち消した。そんなことがあり得るはずがない。地面のこの顔は今はただの砂で、しかも顔以外の部分はとうの昔に失われてしまっている。その口が喋るなんてことがあるはずがなかった。
だがそうわかっていても、それでも想像を完全に打ち消すことはできなかった。今にも喋りだしそうな砂の口……実際、今喋り始めてもおかしくはないのかもしれない。悲鳴をあげても、不思議ではないのかもしれなかった。この口は、今はただの砂だ。だが遠い昔には、そうではなかったのだから……。
一際強い風が吹いた。同時にまた悲鳴が聞こえた気がした。
男は舌打ちをし、それと同時に剣を抜いていた。剣先で砂の口を切り裂くと、一瞬で刃を鞘へと戻す。刀身が鞘に完全に収まった頃にはもう、切られた砂の口は崩れ去り、小さな山すら残さずに消えていた。周りの砂と完全に混ざりあい、もうどこを見ても顔の痕跡を見つけることはできない。砂の顔は、完全にこの世界から消えていた。
「……俺が消したのか」
足下の砂を見つめながら、男は小さく呟いていた。後頭部を踏み潰し、口を切り裂いて、砂の顔を消し去った。およそ百年、この不毛の地で形を保ち続けた人の顔を、自分が消し去ったのだ。
ゆっくりと瞳を動かし、男は周りの地面に視線を巡らした。徐々に視線を遠くに向けていき、砂漠の表面を撫でるように見ていく。だが瞳に映るのは、先ほどと変わらず砂ばかりだった。なんの形も持たない黄土色の砂が、地の果てまでずっと続いている。風に舞った砂は地平線を隠し、空までもぼかしていた。
砂。どこまでも砂だ。砂ばかりだった。
この風景を見て、いったい誰が信じるだろうか。かつてこの地に、大陸一の栄華を誇った王国があったなどと。エーベルスと呼ばれたその王国は、百年ほど前に滅びて消えた。一夜にして王国のすべてが消え去り、そして砂だけが残されたのだ。
この砂漠は、繁栄を極めた王国の成れの果てなのだ。
そこに残された砂の顔を、男は消し去った。あの砂の顔は、この地で形を保っていた、最後の一人だったのかもしれない。そしてその最後の一人を、自分が消し去ったのかもしれない……そう思うと、小さな後悔が男の胸に浮かんだ。顔を踏み潰したことを後悔し、剣を抜いたことを悔やみ……いや、それが正しかったのだと考えを改めた。
あの砂の顔は、エーベルスの民のものだろう。王家の者ではなく、貴族でもなく、ただの市民のはずだ。だがそれでも、同罪ではないか。この地に住み、あの王家のもとで生きていたというだけで同罪。砂と化すのも当然のこと。その砂すら、本来なら消え去ってしかるべきなのだ。
そう、ここは罪の砂漠、その報いを受けた死の大地だ。もうここにはなにも残っていてはいけない。ここにあるのは、ただの砂だけでなくてはならない。そしてその砂も、やがてはすべて消え去るべきなのだ。
「……残っていていいのは、あの方が残されたものだけだ」
男は小さく呟いた。その小さな呟きは、悲鳴のような風の音にすぐにかき消され、男自身の耳にも届きはしなかった……。




