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ハートフルゾンビ  作者: ひょうたんふくろう
ハートフルゾンビ
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42 ふかふかのおふとんで


「きょうはにーちゃとねてもいいよね!」


「もう、ミナミくんも疲れているんだからワガママ言わないの」


「ん、おれは別に大丈夫だよ。むしろどんとこい!」


 外はもう真っ暗。帰ってきた我が家。家の象徴とでもいうべきか、あまり広くはない居間での夕食時の団欒。シチューの香りでいっぱいの部屋に、やったぁ、と子供たちの声が響く。


 レンにいたってはスプーンをつかんだ手を振りまわすものだから、レイアの髪にすこしかかってしまった。レイアがめっとレンに軽くデコピンする。


「ミナミくん、ホントに大丈夫? 無理しなくてもいいんだよ?」


「だいじょぶだいじょぶ。おれ、疲れにくい体質だから」


 クゥの口元をぬぐいながら答えるミナミ。ん──っとクゥがくすぐったそうにする。髪も顔も真っ白になっているところを見ると、ミナミはどうしても顔面パックを思い出してしまう。一度母が白の顔面パックをやっていたのを見てしまったことがあるのだが、あれはいまだにミナミのトラウマなのだ。


「おみやげは!?」


「土産話をするからそれでカンベンな。それより、早く食べて風呂に入るぞ。あんまりおそいと風邪ひいちまう」


 ミナミもごろすけもいなかったからここ数日、子供たちは湯船につかっていない。このセカイじゃそれが普通なのだろうが、ミナミとしては衛生的にちょっと心配だ。子供というのはちょっとしたことで体調を崩すのだから。


 子供たちがみんな食べ終わったのを見計らってミナミは風呂の支度をする。といっても、タオルと下着、寝巻を持っていくだけなので簡単だ。


 めずらしくイオがごろすけをひっぱりながら風呂場へと入っていく。どうもここ最近、魔法を見ていなかったのが不満らしい。ごろすけが水の魔法を使うのをなんとも楽しそうに見ていた。





「それじゃ、おやすみミナミくん」


「ね、ねぇ私もしばらくいなかったんだけど、一人くらい……」


「え~! れーねーちゃとはもういっぱいねたもん。あしたいっしょにねてあげるからきょうはがまんしてね!」


「そうだよ。こんどボクがいっしょにおひるねしてあげるからさ」


 寝る間際になってレイアががっくりとうなだれていた。レイアもミナミ同様、しばらく子供たちとは寝ていなかったが、誰もレイアと一緒に寝るとは言わなかったのだ。


 まぁ、ミナミと一緒ならもれなくごろすけも付いてくるから、そっちにつられてもいるんだろう。


「……れーねーちゃもいっしょにねればいいんじゃない?」


「そうだよ! ぼくもそれがいいとおもうな!」


「おいおい、大人は一緒に寝ないもんなんだよ」


「う~、私は別に構わないわよ? 冒険に出たらそんなの当たり前だし」


「え、いや、でも……」


 薄暗い居間。レイアの発言にミナミはドキッとする。ちょっと顔が赤くなっているかもしれないが、この暗さならばれないだろう。じーじーと虫の鳴く音がなんだか妙に大きく聞こえた。


 思えば異性と同じ部屋で寝たのなんて母さんとカズハくらいしかないミナミだ。それに冒険に出たときは屋外で、今回は室内である。ミナミ本人にくるプレッシャーはいままでのそれとは比べ物にならない。


「でも、そしたらソフィが一人になるじゃないか」


「……ちょっとさみしいけど、私は大丈夫だよ。ただ、さすがにあの部屋にもう一人大人が入るのはちょっとせまいかもね。 それにレイちゃん、意外と寝像悪いし」


「へ、ヘンなこといわないの!」


 名残惜しそうにちらちらとこちらをうかがうレイアをソフィが寝室へと押し出す。苦笑いしながらウィンクしてきたのを見ると、あとは任せろということだろう。


 ミナミもそれにならい、子供たちの背を軽くぽんぽんと叩きながら寝室へと入る。最後におやすみと言うのも忘れない。


 久しぶりだからだろうか、クゥとメルはごろすけの翼の端をその小さな手で握って離さなかった。ちなみにイオはごろすけの尾っぽを握っている。レンは、ミナミの背中によじ登っていた。


「こらこら、そのへんにして、横になるぞ」


 とりあえず、ウルリン毛布を人数分取り出す。部屋いっぱいに毛布が広がった。ちょろちょろはしゃぐ子供たちを後ろから捕まえ、そのまま尻もちをつくようにして倒れ込む。きゃ─っとはしゃぎながらもがくのを、布団に入れればいっちょあがりだ。イオだけは自分から入ってくれるから楽でいい。


 全員布団に入ったところでミナミも布団に入る。冒険者の装備を脱いだこともあるが、やはり地べたに寝転がるよりも、我が家で布団に潜り込むほうが何倍も気持ちがいい。


 砂ではない、足の裏をくすぐるふわふわの感触。

 草ではない、頬に感じるふかふかの感触。


 夜風が吹き抜けるわけでもなく、草や土の匂いがするわけでもない。魔物の遠吠えなどではなく、とたとたといった可愛らしい足音が聞こえる。全力で体を伸ばしても、岩に触れることもなく、やわらかな──


「……なんでみんなおれの布団に入っているんだ?」


「いいの! きょうはとくべつにいいの!」


 まっすぐ伸ばした右腕を枕にしているのはメルだろうか。ほっぺのかんじでわかる。左わき腹にひっつくようにしているのはクゥだろう。腹をさする尾っぽがくすぐったい。お腹にずしりとのっかっているのはレンだ。ぴょこっとした耳の感覚がする。イオは……感覚的にクゥの横あたりにいるのがミナミには感じ取れた。


ほぉ──ぅ


 ごろすけもまた子供たちに倣ってミナミの枕元にうずくまる。ミナミの目には真っ暗やみの中に走るごろすけの一条の白い胸の毛が映った。


「ほら、ごろちゃんだって」


「……今日だけの特別だからな」


 子供たちがちょうどいいポジションを探してもぞもぞと動く。密着しているミナミはくすぐったくてしょうがないが、身動きが取れないので耐えるしかない。


 ミナミは、なんだかんだで子供たちに甘い。特別だ、といったのももう何度目だろうか。特別なのはもはや特別ではなくなっていた。


ほぉ──ぅ


「やっぱりにーちゃのうではいいかんじにやわらかくていいね~。れーねーちゃだと、ちょっといたいんだよね」


「ふぃーねーちゃのおなかもいいけど、にーちゃのほうがあんていかんがあるね!」


「ねぇクゥ、もうちょっとつめて? ボクもうふからはみでそうなんだ」


「……ちょっとだけだからね」


 うちの子供たちは甘えんぼが多いらしい。話を聞く限りでは、ソフィやレイアもこうしているのだろうことが分かる。スキンシップが激しすぎると思わなくもないが、可愛いのだからしょうがない。


 ……ちょっとだけ恥ずかしいことを聞いてしまったような気もしたが、子供に悪意はない。レイアの腕が硬いのは、きっと冒険者としていろんな修行をしたからだろう。ソフィのおなかがやわらかいのは……考えないことにしようとミナミは決めた。


 なお、余談ではあるが、ミナミはガリガリは好きではない。女性が太ってきたかも、なんて言ってるくらいがちょうどいいと思っている。


ほぉ─ぅ


「あしたは……なにしてあそ……ぼうか……な?」


「おみやげばなし……わすれないでよ」


「まほうみせてよ……」


「ん……」


 暗い部屋にごろすけの静かな鳴き声がゆっくりと響き渡る。少しずつ、本当に少しずつ子供たちの口数が少なくなってきていた。


 それに比例するかのように、ミナミへの密着度も上がっていく。はたから見たらさぞかし面白い光景になっていることだろう。お腹周りが異様に大きい、毛布をかぶった病人がいるのだから。


ほぉ──ぅ


 久しぶりのことで興奮していたとはいえ、やはり子供は子供だ。こんな遅い時間にもなれば眠くなるというものだろう。ぎゅっとしていた手も幾分か弱まり、やがて可愛らしい寝息がごろすけの鳴き声に混じって部屋に響き始めた。


ほぉ──ぅ


「……みんな、寝たか?」


 返事はない。ごろすけの鳴き声だけが暗闇に響き渡る。


 ミナミはぽんぽんと子供たちの背中をたたいてやるつもりだったが、その必要はなさそうだった。


 しかし、なぜアレをやると子供の寝着きが良くなるのだろうかと、疑問に思わずにいられない。だいたいどこの保育園でもやっていると思うが、未だにその理由はミナミにはわからない。ただ、なんとなく安心するのだけはわかるのだが。


「……よく考えたら身動きとれないんだった」


ほ、ほぉ──ぅ


 ごろすけの鳴き声がミナミをバカにしたように聞こえたのは、たぶん気のせいではないのだろう。ミナミがじろりとごろすけをにらむと、それがどうしたと言わんばかりに尾っぽで頭を叩かれた。


「……」


ほぉ──ぅ


 死人と夜獣。ヒエラルキーは夜獣のほうが上だったらしい。


「だ、だめだよにーちゃ……」


「うん?」


 右腕のメルがなにやらもぞもぞとつぶやく。起こしてしまったのだろうか。


「だんろでしちゅーにまきわりしても、ごろちゃんはおよがないよ?」


「…」


……ほぉ──ぅ


 えへへ、とむにゃむにゃ呟くメルだが、言っていることがなんだか怖い。寝言であることはほぼ間違いないのだが、いったいどんな夢を見ているのだろうか。


 と、思っていたら今度はお腹のあたりがもぞもぞと動く。レンだ。


「ねこのおっぽはひきかえけん……いっとうしょうは……」


「……」


……ほぉ──ぅ


 一等賞は、なんなのだろうか。なんとコメントすればいいのかわからない。そもそもなぜ尾っぽが引換券なのだろう。それに、引き換えに一等も二等もあるものか。


 野良猫の尾っぽを集めてきたりとかはしないだろうかと、ミナミは少しだけ不安になった。


 と、今度は腹の横辺りで一瞬魔力が溢れたのを感じる。順番的に行くとイオだろう。まぁ、イオなら変なことも言わないはずだと、ミナミは高をくくった。


「……ボクのまほうはせかいいち。あらぶるにーちゃとぜったいしはい。さぁつくろう、ゆめのていこく、えれめんたるばたぁ」


「……」


……ほぉ──ぅ


 魔法を使う夢だということは十二分にわかる。イオは魔法が好きだし、それで世界一になるという夢を見るのもうなずける。


 ただ、その後の荒ぶるにーちゃとはいったいなんだろうか。しかも世界征服してしまっている始末である。妙にリズムもよく、標語のようだが、案外イオは政治家に向いているのかもしれない。絶対支配についてはおいておくとして。


「ん……」


「……今度はクゥか」


 わき腹でもぞもぞとクゥが動いているのが分かる。ミナミに思い切り抱きつき、尾っぽでミナミを抱え込むように締めてくる。小さくて柔らかい手が、だんだんときつく……いや、とても幼子のそれとは思えないほど、ぎりぎりと尋常じゃない力でしがみ付いてきた。


「に、にーちゃも、ご、ごろちゃんも、とられるくらいなら、いっそクゥのてで、クゥのこのてでぇぇ……!」


「……」


……


 ごろすけの鳴き声が止まった。

 ミナミの思考も止まった。


 暗闇がより深く感じられた。一瞬、確かに世界が止まった。


 この手で、いったい何をどうするというのだ。


「……考えないことにしよう。なんだか、どっと疲れた」


ほぉ──ぅ


 肯定するかのようにごろすけも鳴く。ふと、なんだか今日は妙にごろすけが鳴いていることにミナミは気づいた。いつもは割と静かなのに、なにかあったのだろうか。


 しばらく考え、思い出す。


「そういやおまえの声、眠りの魔法になるんだっけか」


ほぉ──ぅ


 ごろすけもそれなりに気を使ってくれていたのかもしれない。この場合はミナミではなく、レイアにだろう。


 疲れというものを感じないミナミと、元気の有り余っている子供たちが一晩中騒いでいたらレイアは寝不足になるだろう。まぁ、冒険者にとっては脅威の鳴き声も、子守唄として見るとなかなか悪くない。低くて腹に響くような鳴き声は、気分を落ち着かせてくれるものであった。


 惜しむらくは子供たちの可愛い寝顔を見れないことだろう。暗いことはともかく、こうも体にくっつかれていては碌に動くことが出来ない。それはつまり、顔を動かすこともできないというわけで。


 腹の上のレンはもちろん、わき腹にひっついているクゥは体すら見えないし、腕のメルとイオはぎりぎり絶妙な角度で顔が見えない。きっと可愛い寝顔をしているだろうに、ミナミは残念でならない。


 ぽかんと口を開けているのかもしれない。夢にまどろみ微笑んでいるのかもしれない。


 無表情というのはないだろう。ほっぺを突きたくなるような顔がミナミは一番好きだ。


 尤も、この子たちならどんな顔していても可愛いに違いないという確信がミナミにはある。


 レイアには悪いが、明日もみんなと一緒に寝よう。そして今度こそ、可愛い寝顔を一晩中眺めて楽しむのだ。


 だから、今日はもぞもぞとした身じろぎときゅっと握ってくる小さな手だけで我慢だ。


 子供の高めの体温と、トクトクと動く心臓の鼓動がどうしようもなく愛おしい。やわらかな、あたたかな、簡単に壊れてしまいそうなそれらが今、自分のすぐそばにあるというだけで、たったそれだけで疲れなんて簡単に吹っ飛んでしまう。


 これを守るためなら、このセカイにバイオハザートだって起こせるだろう。いつかこの子たちが大人になって一緒に寝なくなる日が来るのが、オウルグリフィンよりも、月歌美人よりも、霊鋼蚯蚓よりもミナミには恐ろしい。


ほぉ──ぅ


「そろそろおれも寝るかね」


 冒険者の仕事はともかくとして、やらなければならないことはまだまだありそうだ。子供たちともいっぱい遊びたいし、今起きていても仕方がないだろう。


 最後のつぶやきからいくらもたたないうちに四つの寝息が五つになり、しばらく続いていた夜獣の鳴き声も静かに止まった。








「はぁ……♪」


「ふむぅ、やはり休憩時間は格別ですねぇ。これがなかったらと思うとぞっとしますよ」


 遠い遠い遥かなる場所。どこか胡散臭い男と、妙に機嫌のよい女がいた。


「……今のセンパイがそれを言いますか?」


「何も休憩とはだらけるだけのことを言うのではないのですよ」


 私はぺらりと本をめくる。本一つ読むのでさえ、短い休憩時間くらいしか読む時間はないのだ。


 それに職場ここにこの本を持ち込むのだって、頭の硬い上司うえにねちねちと嫌味を言われる。仕事はきちんとこなしているし、業務に影響を与えるわけでもないし、そもそも休憩時間なのだから何をしてもいいはずであるというのに。


「本なんて読んでも疲れるだけですよ。もうこっちを見るの、飽きちゃったんですか?」


「いえいえ、まさかそんなはずはないでしょう。いくらかけたと思ってるんです」


 それはもう、ものすごい量の給料を私は使っている。それを作るため、どれだけあのクソ面倒臭い業務に時間を費やしたのか、思い出したくないくらいだ。飽きるなんてことはあり得ないし、あったとしても有効利用する。


「私はどんだけかけたのか知らないんですけど……」


「貴女の今もっている給料の百倍以上はかけていると思いますよ。まぁ、貴女がどれだけ持っているかは知りませんが」


 本をちらちらと見ながら適当に相槌を打つ。


 ふむふむ、どうしてなかなか、人間というのは考えることがおもしろい。別にこんなこと、いちいち気にする必要もないと思うのだが。


「ふふん、センパイ。私の今の貯蓄はこんなにあるんですよ! 訂正するって言っても遅いですからね!」


 ででん、と効果音でも鳴りそうな感じで後輩が私の前にそれを広げたのが目の端に移る。仕方なしに本から目をはずしてそこを眺めると……


「なるほど、確かに……謝らなければなりません。訂正が必要ですねぇ」


「えっへん」


「これの千倍はかけましたよ」


「……えっ?」


 固まる後輩をよそに視線を手もとの本へと戻す。


 あまっちょろい。これだから新人は。


 そう簡単にできるものだったらこのクソ面倒で退屈な業務だってもう少し楽しく取り組むことができる。やってもやっても見返りがないからこそ、モチベーションは下がるのだ。


「私、けっこうがんばって貯めたんですけど……」


「確かに、かなりの量があることは認めましょう」


 彼女の給料を考えれば、ここ最近まったく使っていなかったくらいの量はあった。だが、所詮は新人の給料だ。そこそこのベテランである私だってここまで来るのにかなりの時間を要したのだ、彼女程度がそう簡単に私の域までたどり着けるはずがない。


「それよりどうやって貯めたんです、それ」


 本を読みながら、気にかかったことを聞く。彼女は基本的に入った給料はすぐに使うタイプだったはずだ。


「センパイのをずっと見てやりくりしてました」


「……そんなことだろうと思いましたよ。ですが、自分でやらなきゃいつまでたってもうまくなりませんよ?」


 私は別に構わないが、それでは彼女の目指すところには行きつけないだろう。


 まぁ、上達の近道としてうまいのを見て真似るというのも間違いではない。同僚のほとんどは自分のは人には見せないし、彼女としても私を頼りにしているのだろうことは簡単にわかる。


「かちょーはどうやったんでしょうかねぇ。仕事のコツとかあるんですかね?」


「あったら私が教えてほしいですよ。少なくとも、私たちが今まで稼いだ分を合わせても、課長の一割にもなりませんよ」


 頁をめくる手が思わず止まる。


 本当に、あの人は一体どれだけの時間をクソ面倒な業務にあてたのか。それも、文字通りの不眠不休で。出来る出来ないで言えば出来なくはないのだろうが、私だったら気が狂う。


「それはそうと、かちょーはどちらへ? まだセンパイの管轄の中ですか?」


「もうずっとそうですよ。しばらくは戻りそうもないですね。それに、ちょくちょく変なこと頼んできますし、 管轄内を縦にも横にも行ったり来たりですからね。縦はここしばらくありませんが」


 しかし、よもや貯めた給料で管轄の中に行き、自分で流れに乗るとは。


 はっきりいってその発想はなかった。


 長期休暇を無理やりもぎ取った事だって前例がないし、自分が動くことなんて、このクソみたいな業務に縛られている限り絶対にできないのだから。


 課長はそれだけを考えて頑張ってきたのだろうか。


 ああ、きっと楽しいだろう。私も次はそうしてみたい。……どれくらい後になるかはわからないが。


「やれあっちに行きたいから繋げろだの、ちょっとこれを手に入れてくれだの。確かに管轄内ならどうにでもなるんですがねぇ。ちょっとは考えてほしいですよ」


「……で、やってあげたんですか?」


「もちろん。課長に貸しを作れることなんてそうそうありませんからね」


 まぁ私自身、かなり楽しんでいたのは認める。課長のおかげで私のものもずいぶんとおもしろくなるだろうし、実際いいかんじに物事は動いている。


 頁をめくる手が、思わず喜びに震えてしまった。


「さっきから、いったい何の本を読んでいるんです?」


「ああ、これですか? これは──」


 後輩をみてくすりと笑いかける。これがあるから、課長の頼みだって断りきれないのだ。


 あの人はこちらに要求したことの何倍も大きい見返りをくれる。実質こっちだけがおいしい思いをしているようなもの。本当に部下思いのいい人だと思う。クソ上司共はみんな課長の爪の垢でも煎じて飲めばいいのに。


「課長からのプレゼントですよ。これに目を通して試験に合格するだけで、私も短期の臨時休暇が貰えるんです」


「えぇぇぇぇぇ!?」


 そうだ、その顔だ。やっぱり人がびっくりする様は見ていて楽しい。


 おまけに試験だって人間のもの。私だったら眠っていたって楽勝で合格できるものだ。


「えっ、ちょっ、冗談、ですよね……?」


「冗談なものですか。課長の計らいですよ。ほんのちょっと課長の手伝いをするだけの、出張という名の休暇がもらえるのです。管轄内なら楽勝ですし、そうでもなきゃわざわざ私が休憩時間に資格の本なんて読むわけないでしょう?」


 そう、私が読んでいるのはとある資格の本だ。この資格の取得を条件に、私の時間を課長の給料からとってくれるのだ。


 正直管轄内であるなら人間の資格なんてわざわざ正式な手順でとる必要はないのだが、妙に律儀なところが課長らしい。


「あの、センパイ、それ、私には……?」


「定員一名でしたよ?」


「ちくしょぉぉぉぉ!」


 後輩が悔しがるのをひとしきり眺めてから助け船を出してやる。たしかにこれの定員は一名だが、もう一つ別なものもあるのだ。


「貴女には、これとこれを預かっておりますよ」


「………え?」


「課長はやさしいですねぇ。貴女にも休暇のチャンスですよ」


 しかも、私のとは違って本当に目を通すだけでいい。資格なんて必要ないし、引き受けた段階で休暇は確定だ。


 まぁ、簡単とはいえあれは私の趣味ではない。どっちでもいいと課長は言っていたが、彼女が適任だろう。そもそも、用意された段階で──


これ(●●)を着て、この通りにするだけですか?」


「ええ、本当にそれだけです」


 このクソ面倒で退屈な業務に比べれば、この程度屁でもないだろう。おまけに、休暇の途中でうまいものだって食べられるかもしれない。なんせ拘束時間なんてほんのわずかで、自由時間でいっぱいなのだから。


 課長は言っていなかったが、私たちへの個人的なボーナスのつもりなのだろう。本当に心の広い人だと思う。


「いよっしゃぁぁぁ!」


「盛り上がっているところ悪いですが、そろそろ業務に戻りますよ」


 これから楽しみがあるとわかっていればなんだってできる。それは誰にだって共通することだ。


 遠い遠い遥かなる場所。胡散臭い男──神様はやる気を出した新人に微笑みかけながら、自分の仕事に取り掛かった。


20160803 文法、形式を含めた改稿。

20180408 誤字修正

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