4 初めての戦闘
その魔物は文字通り獣臭い息を漏らしながらミナミを獰猛に睨みつけていた。
体長は一メートルほどであろうか。狼と猿を足して二で割ったような外見をしている。全身が仄暗い色の毛皮で覆われ、口にはびっしりと鋭利な牙が生えていた。
今はいつでも飛びかかれるように二本足で立ち、前傾姿勢を取っているが、どうやら四足走行もできそうで、よく見れば前足が普通の狼のそれと異なり人間に近い形をしている。爪が長く鋭いことと肉球がなければ、毛深い人の手ということで通るかもしれない。
ミナミは後で知ることになるのだが、この魔物は通常複数で行動し、連携して獲物をしとめる森の狩猟者であった。
見た目通りの猿らしい身のこなしと狼らしい獰猛さは森の中でこそ真価を発揮する。彼らは高い樹木に潜んで獲物を待ち伏せ、囲んでから高低さをも利用した集団攻撃をするのだ。
もし、これが平地で単体なのであれば、物理的な攻撃手段しかない彼らはある程度の実力者にとってそこまで厄介なものではないのだが、「森の中」で「群れている」場合は恐ろしい脅威となる。
そんな魔物──《ウルフゴブリン》が森の中とはいえ、一匹で現れたことはミナミにとっては実は幸運なことだった。
「くそったれが!」
あまり大きな声を出さずに、いや出せずにミナミはつぶやいた。
あの血走った目を見る限り穏便に話し合いで済む可能性など皆無だろう。どことなく自分を刺した男のツラに似ているとミナミは心の中でごちる。
せっかく新しい人生を歩めるチャンスを手に入れたというのに、開始早々腕はもげ、生きていないかもしれないことがわかり、挙句に魔物に襲われたりとまさに散々な現状である。
いや、魔物に襲われること自体は別にいいのだとミナミは思っている。だってファンタジーってそういうものなのだから。
問題は、今ミナミには右腕がなく、この魔物に抵抗するための武器もないということだった。
下手に動けないでいるミナミを見て、魔物はニタリと笑ったように顔を歪める。ちょっとでも隙を見せれば、そのまま跳びかかられてこの場にめでたくミナミの骨格標本ができることだろう。どこかの大学教授が喜んで引き取ってくれるに違いない。
「やるだけやるしか……ないのかな?」
もし神様がちゃんとお願いを聞いていてくれたのなら、この身一つでもある程度の抵抗はできるだろうとミナミは考える。
蹴って殴って引っ掻いて噛み付いて。
意外とやれることはあるのだ。いきなりゲームオーバーになるつもりはさらさらない。ミナミは覚悟を決めた。
ガァァ!
ミナミが観念したのだと思ったのだろうか。魔物は前傾姿勢を崩し、狼のようにミナミの喉笛めがけて喰らいついてきた。
「うぉっ!?」
とっさに残った左腕でミナミは首筋をガードする。三メートル近くあった距離が一瞬で埋まり、生ごみとホームレスの体臭が混じったかのような悪臭がミナミの鼻を突く。
魔物の速さに間に合わないかもしれないと思ったがどうやらちゃんと間に合ったようで、少なくとも首と胴体はお別れしていない。身体能力はちゃんと強化されいてるようだった。
ガゥッ!
が、魔物の狙いは首ではなかった。ミナミが右足に違和感を覚えると同時に、右足に喰らいついていた魔物は一瞬で距離をとる。
小賢しいことに、首への攻撃はフェイントだったのだ。
「いった……くないね」
制服のズボンごと足の肉がわずかにえぐれていたがやっぱりミナミは痛みを感じない。
くちゃくちゃと肉片とズボンの切れ端を咀嚼していた魔物だが、ミナミに有効なダメージを与えられていないと気づくとゆっくりとミナミの隙を伺うかのように周りを回って様子を見ている。
どうやらただの狼より知恵があるらしい。猿らしい小賢しさといったところだろうか。
まずは獲物の足を狙って動けなくした後、ヒットアンドアウェイで安全にじっくり止めを刺す。ミナミはしらなかったがこれはウルフゴブリンの典型的な攻撃パターンだった。
「さて……」
最初の一撃を喰らってしまったことは痛いが、痛みを感じないし歩くこともできる。加えて身体能力は強化されているはずだし、隙を見て全力で殴れば撃退するくらいはできるだろうかとミナミは考えを巡らせる。
しかし、現状でまともに相手とやりあうには聊か分が悪い。せめて動きを止めてもらわないと、ミナミの素人パンチが日々生存競争の野生の塊に当たるはずがないだろう。
そう、なにはともあれまずは動きを止めないといけないのだ。
ミナミが思案していると──これは戦闘において致命的だが──突然その魔物は動きを止めて周囲を見回した。なにをしているのかは知れないが、ミナミはこのチャンスを逃すつもりはない。ミナミは雄たけびを上げながら全力で殴りかかる。
「消えろぉぉぉぉ!」
昔何かの本で読んだことがあったことだ。行動するのに一番重要なのは気合らしい。なにかをすることに信念を持つことが重要だそうで、強く念じながら行った場合とただなんとなくとではかなりの違いが出るそうだ。
ミナミはそのことを思い出し柄にもなく叫んで振りかぶったのだが、いくら身体能力が上がっていても所詮は素人のパンチである。
それも片腕がない状態で、しかも利き腕ではないほうだ。直前になって我に返った魔物にギリギリのところで避けられてしまう。
──まずい!
振り切った今の自分は隙だらけだとミナミは誰よりも理解している。
極度に時間が伸ばされたその空間で、ミナミの瞳は首の15センチ横を通り過ぎるぎざぎざの牙をとらえた。
痛みがないからといって首を落とされて生きていられる自信はない。あの牙だったら首の一つや二つ簡単に切り裂いてしまうだろう。
「……はい?」
たしかにミナミの首程度なら切り裂けていたのかもしれない。だが、そこには牙しかなかった。
正確にいうと、粉末状になっていく魔物の体と緩んだ口元から抜け落ちていく牙があった。
ふと首を動かせば、なんと、魔物の体が末端のほうからどんどん塵に変わってくのを見ることができた。死んだ魚の様に虚ろな瞳をした魔物が、生への失着を捨てたかのように体を風化させていたのだ。
先ほどまで普通に動いていたものがだんだんと粉末になっていく様は恐ろしくもあり、どこか美しくもある。魔物は一切の抵抗を見せず、ただ黙ってそれを受け入れていた。
「うそぉ……」
ぽかんとしたミナミを残して魔物は完全に塵になり、風に吹かれて消えてしまっていた。後に残っているのは二本の立派な牙だけだ。
「なんか釈然としないなぁ」
先ほどまでは高揚した戦意を纏い、ミナミを殺そうとしてきた魔物がいきなり塵となってしまったのだ。なんだか気持ちが悪くなってミナミはぽつりとつぶやく。
いや、助かったことはうれしいのだ。だが、自分の手で危機に打ち勝ったのではなく、相手はよくわからないうちに塵になってしまったのがミナミにはちょっと納得がいかない。こんなわけのわからない事実に納得しろというほうが無理だろう。
とりあえずは戦利品である二本の牙をミナミは拾っておく。魔物の全身が塵になったのにどうしてこの牙は塵にならなかったのだろうか不思議ではあるが、どういう形であれ初めて魔物を倒して得たものだ。いい記念になるだろう。一本はとって置いてもう一本は売ってお金にしようとミナミは心に決める。
「そうだ、右腕も回収しとかないと」
きっと回復魔法とかで繋がるかもしれないとミナミは淡い期待を抱く。幸いにも先ほどの戦闘の際に傷つけられることはなかったようで、血色の悪いそれがもげたときそのままの状態でそこにあった。いくら魔物であっても、新鮮で弱そうな獲物が目の前にいるのに落ちているものを選ぶという選択はしないということなのだろう。
「あっ、牙と腕って一緒には持てないじゃん!」
このときミナミは神様からもらったアイテム収納能力のことをすっかり忘れてしまっていた。
──この牙ポケットに入るかなぁ?
ミナミは今の戦闘でポケットが破れていないことを願いつつ制服のズボンに手を伸ばす。どうやら大丈夫のようだった。
恥ずかしい話だがハンカチだって入れていない。頑張れば何とか入るかもしれない。
「……なんだこれ?」
ミナミの手に何かがあたる。なにも入っていないはずのポケットの中に何かが入っていた。
恐る恐る取り出したそれは、可愛らしい柄のメッセージカードだった。
20150418 文法、形式を含めた改稿。
 




