34 ぽかぽかのおふろで
いくらか日が沈んだ黄昏時。もうだいぶ暗くなっていて王都の街並みからも人が少なくなってきている。冒険から帰ってこれから一杯やりにいくのであろう汚れた姿の冒険者や、買い物袋を手に提げて慌てて帰路につく主婦くらいしか道にはいない。
王都、というかこのセカイ全体で言えることだが日が沈むのは一日の終わりを示している。明かりがなければ何もできないからだ。
例外として酒場と宿屋だけはかなり遅くなっても開いてはいるが、一般市民はあまり利用することはない。利用するのは専ら冒険者で、帰宅時間がかなりあいまいな彼らのためだけに開けてあるようなものだ。
市民には市民の、冒険者には冒険者の酒場がある。別に市民が冒険者の酒場に行っても何ら問題はないのだが、やはり空気というのだろうか、そういったものがあるため、一般市民がわざわざ冒険者の酒場に行くことはない。
楽しい話も聞けないこともないのだが、彼らは酔っぱらうとだいたい酷いことになる。もともと冒険者というのは知的好奇心の旺盛なものや危険・スリルを求めるものが多い。そんな奴らが我を忘れるほどに酔っぱらったりしたら、一般市民には対抗できないのだ。
酒場の店員も、実は引退した元冒険者だなんてことはざらにある。むしろ、そうでもないと酔っぱらったあの連中の対処が出来ないというのが実情だ。
なお、冒険者の酒場というのは彼らに憧れている少年少女たちにとってはある種の聖地のような場所である。ただ、ようやく冒険者になって初めて入った酒場でいろいろな“歓迎”を受けるということは言うまでもない。
酔っぱらった連中はなにをしでかすか判りはしない。もちろん、命にかかわることや犯罪行為などをやることは絶対にないが、逆にいえばギリギリなことは平気でやらされるのだ。
そして、その少年少女は一人前に近づき、新入りが来たら“先輩”として熱く歓迎するのである。
さて、そんな酒場がそろそろ繁盛し出すころ。王都の片隅、郊外になっていてあまり建物のない場所で、一人の少年がキツネの耳の少女の頭を押さえつけていた。
少女、といってもまだまだ幼い。幼女といったほうが適切だろう。
少年と幼女がいるのは家にしては小さな建物。中は少し薄暗く、普通に動く分には問題ないが、この中で本を読め、といわれたら難儀することだろう。むわっとした湯気が室内全体に満ちており、もしも服を着た状態なら、さぞや不快であることは疑いようがない。
そして、頭を押さえつけられた幼女は服を一切着ていない。正真正銘全裸だった。
対する少年のほうも全裸に近い。タオルを下腹部に巻いているだけである。
幼女の気弱そうな瞳はもともと赤いが、今回目が赤いのはそれだけではない。目の端に光るものがあるといえば、ぴんとくるはずだ。
そう、幼女は泣いていた。
髪の毛と同じく白い尾っぽと耳をぴんと立て、頭を押さえる少年の腕から必死になって抜け出そうとしている。湯気で視界が悪い部屋の中に幼女の泣き声とも、嗚咽ともつかない声が断続的に響いていた。
だが、必死の抵抗もその少年には通じない。
もともとの体格差が圧倒的すぎた。確かに少年は同年代と比べるといくらか頼りなさげな体格をしているとはいえ、幼女と少年が力比べをしたとしても結果は歴然としている。
それでも幼女がもがき続けるのはそのことが理解できないからか、それとも理解してなお、そうせざるを得ないのか。
ともかく、幼女があがいたところで何も変わりはしない。涙目になって抵抗を続ける幼女に対し、ほとんど全裸の少年はあきれたように死亡宣告を言い放った。
「いいかげん観念しろ、クゥ。あと頭からざばんしたらおわりだから」
「ぜったい、いやぁ!」
小さい子供はお風呂が苦手なことがある。その理由はただ単に入るのが面倒臭いだとか、入るまでが寒くて嫌だとか、まぁ、いろいろあるだろう。だが、一番の理由は──頭を洗うことだ。
頭をがしがし。これはまだいい。よほど強くやられない限りは痛いわけでもないし、別段どうってこともない。
ただ、泡がたち始めると地獄だ。石鹸が容赦なく目に流れてきて目がしくしくと痛くなる。慌てて手で擦るともっとひどいことになる。目を開けようがつぶっていようがずっとしみ続け、最終的には泡が目全体を覆ってしまう。こうなったらもうどうしようもない。
そして、一番の問題はその泡を落とすところだ。いちいち水を掬って泡を落とすなんて面倒なことをする人間はいない。盥いっぱいのお湯を、頭からざばん、だ。
大人にとってはそうでもないが、子供にとってはなかなかの衝撃だ。相対的に見ればまさに滝に打たれる様なものである。
一回だけならまだいい。だが、たいていは泡が落ちるまで、二回、三回と続く。お湯が顔全体にかかるのだって怖いのに、それが何度も続くのだ。
しかも自分では泡が全部落ちたと思っても、はたから見れば全然落ちていないことがある。加えて、迂闊に目を開けようとするならば、再び容赦なく石鹸が目を刺激する。
このような苦行を、好きになれというほうが難しいだろう。大人になるにつれ楽になる、むしろすっきりしてさわやかな気分になるのだが、子供にとっては拷問を受けるのとさして変わりはしない。
クゥはそんな子供の典型だった。
「ぜったい、いやぁ!」
「だーめだ。あわ落とさなきゃ、風呂には入れないぞ」
ミナミがじたばたともがくクゥを押さえつけて諭すように言うが、それでもクゥはあきらめない。
もうすでにイオ、メル、レンは湯船につかっている。クゥが最後だった。
ここ数日四人まとめて風呂に入れていて、ミナミは理解したことがある。
当然だが、子供を風呂に入れるのは大変だ。はしゃいだりするし、子供の小さな体を洗うというのは意外と難しい。素早くやらなければ風邪を引かせてしまうし、かといって素早くやってもきれいに洗えてなければ意味はない。
まずは腕。
全体的にごしごしと洗えばいいのだが、特に関節のところが汚れやすいので重点的に洗わないといけない。意外と肘も汚れているのでそこも忘れないようにしないとならない。あんまり力強くやると痛がるのであくまでやさしく、だ。くすぐたがって身をよじるが、脇もごしごししないとダメ。あそこもなんだかんだで汗をかく場所なのだから。
手首も忘れてはいけない。
まだまだ子供だから、四人とも手首がプニプニとしていて大人のそれと比べてやわらかい。ただ、手首のくびれ部分がその分うずまっているので、指でこするようにしてやらないといけない。一周ぐるりとやればOKだ。四人ともくすぐったそうにするが、その顔も可愛い物である。
足の指も意外と忘れがちだ。指と指、爪の間をしっかり洗う。このとき爪の長さチェックも忘れない。かかとから親指の先まで丹念に洗う。足の裏もくすぐったそうにするが、後ろから抱っこするようにして洗えば逃げまどうこともない。みんなまだ土ふまずが出来ていないところがなんとも子供らしくていい。
それに耳の後ろ。
ミナミもそうだったが、洗い忘れてしまうことが割と多い。耳の後ろを中指でこするようにごしごしと。猫の耳をもつレンとキツネの耳を持つクゥは比較的やりやすい。どちらもふかっと、もふっとしていて洗っていてとても気持ちがいい。
レンとクゥは尾っぽも重要だ。割と汚れやすいらしく握りながら揉むようにして洗っていく。もちろん、尾っぽの付け根もしっかりと。先端とここが一番汚れが付きやすい場所なのだ。
最後に首回りだろう。てのひらをこすり当てるようにしてやさしく洗っていく。どの子も柔らかい肌をしていて弾力もあるが、あまり力を込めると大変なので慎重に。ここもやっぱりくすぐったそうにするが、やはり後ろから抱き込むようにしていれば腕の中で身をよじるだけだ。
また、エレメンタルバターの子供たちは誰一人として同じ入浴スタイルではなかった。
まず、レン。
レンは脱衣所のときからすでに目が離せなくなる。着ていた服をたたむこともせず、ぱぱっと脱いでその場にうっちゃらかして猛烈な勢いで一番風呂を楽しもうとする。
もっとも、ミナミがそれを許すはずもない。レンより数倍速いスピードで回り込み、しっかり尾っぽと手首を握って確保する。捕まえてさえしまえば意外とおとなしい物で、体を洗ってやっているときも特にお湯や泡を怖がる様子もなくぱぱっと終わる。最初から最後までミナミが洗ってやっているからか、終わるのも一番早いのだ。
体も頭もきれいになると、風呂に飛び込もうとするのでここでもしっかり見ておかないといけないが、風呂に入りさえすればちゃぷちゃぷと水遊びをしているので安心だ。二つの浴槽のうち一つは子供用にと浅く作ってあるのでレン達でもよほどのことがない限り溺れる心配はない。
次にイオ。
やはりというかなんというか、手間がかからない。ミナミがレンを洗っている間に自分で体を洗い始める。最初こそうまく洗えていなかったが、今ではもう一人で頭を洗えるところにまで到達していた。ただ、まだちょっと洗い残しがあるので、レンが終わった後にミナミに仕上げとして洗ってもらうこととなる。
耳の後ろや足の指の間なんかが洗い残しが多い。湯船につかった後はレンと一緒に水遊びをしているが、最近数字の数え方を教えたためかそっちのほうに夢中になったりしていた。
そしてメル。
彼女は自分の体よりも人の体を洗いたがる。イオと同様、ミナミがレンを洗っている間にぱぱっと自分も体を洗い始めるのはいいのだが、ものすごく大雑把だ。頭も自分で洗えないが、自分でできることが終わるとだいたいミナミやごろすけに絡み出す。
ごろすけが毎日風呂に入るというわけではないが、ごろすけがいるときは全身で抱え込む様に、まさに自分の体をスポンジの様にしてごろすけの体を洗い始める。
ごろすけがいないときはミナミの背中をターゲットにする。まだまだ力が弱いから流すというよりもくすぐられているようでミナミとしてはむずかゆいが、ぷにぷにの手で流されるのは気持ちがいいとも思っている。ただ、いつの間にか背中が泡のお絵描きのキャンパスになっていることが問題だ。
最後にクゥ。
クゥは自分からは動かない。いっつもレンが終わり、イオも終わり、メルが洗い終わるまでじっとミナミを待っている。ようやく三人を洗ってフリーになったミナミの膝にちょこんと座るのだ。
基本的に体を洗われるのが好きらしく、体のあちこちを石鹸で擦られても鼻歌を歌っている。ただ、頭を洗うのだけはキライ、というか怖いらしく……
「一瞬だからこわくないって」
「やだ! クゥはこのままおふろはいるの!」
「レンもイオもメルもやったんだから、一人だけワガママはだめだぞ」
「やぁ~ぁ!」
普段はあまり自己主張はしないほうだが、頭を洗うときだけはものすごく主張する。ミナミにはよくわからないが、どうもキツネの耳の部分がふさがれることと、耳を通して伝わってくる水の音が怖いらしい。耳に水が入るのも極端に嫌がっている。
毎度のことのはずなのに、一向に慣れてもらえない。一応魔法を使えば耳に触れずにお湯を流すこともできなくもないのだが、将来のためにもここで克服して貰わないと困るので、ミナミは心を鬼にして最終手段をつかった。
そう、強行決行である。
「ほーらいくぞー目ぇつぶって息止めろよー」
「いやぁ! いやぁ!」
さばばん!
「やぁぁうひゃっいぇげほっ……」
「ほーらできた。喋んなかったらもっと楽だぞ。さ、もういちど」
「うぇぇぇ……」
少し口に入ったのだろうか、ちょっとせき込んで上目づかいで怨む様にクゥはミナミを見上げてきた。尻尾も耳もへたりと垂れ下がっている。
「ほ、ほらあと一回だけだからな?」
「うぅ~……」
ちょっとかわいそうな気もするが、しょうがない。やっているこっちもつらいんだぞ、とミナミは心の中で言い訳する。
カズハも小さいときは頭を洗う時のシャワーを酷く怖がったものだった、とミナミは何となく思い出す。カズハがあまりに抵抗したので仕方なく母さんはシャンプーハットを買ったが、それもあまり効果はなかった。
小学校一年生の夏くらいまで頭を洗うときはずっと手を握ってやってた記憶がある。なお、ミナミ自身も小さいときは頭を洗うのが苦手で泣き叫んだことさえあるらしいが、何度も頭から洗面器でお湯をかぶっているうちに慣れてしまったらしい。にいちゃん──イツキもその方法で慣れたのだという。
「ふぃ~」
ようやくクゥも洗い終わり、ミナミは大人用の深い風呂で息をもらす。全身にしみわたるような心地よさは湯船につかる以外には体験できないことだろう。
ちらりと横を見れば四人ともなかよく湯船につかっている。本当ならミナミもそっちの湯船にいきたいのだが、いかんせん浅すぎる。子供たち用サイズだから、ミナミが座ったらお湯が胸にも届かない。
逆に、ミナミの大人用の風呂は子供たちだと立っていてもちょっと危ない。座ったミナミの肩までしっかりと届くくらいの水かさなのだ。
「にーちゃ、ぼくもそっちいきたい」
「ダメだ、こっちは深いからな」
レンとのこのやり取りも何回目だろうか。好奇心が旺盛なレンは何度もこっちの風呂に入りたがっていた。ただ単に大人の真似をしたいだけかもしれないが、今のレンではこのおふろはまだちょっとあぶない。
「ちょっとだけだから!」
「……ボクもそっちいってみたい。だめ、にーちゃ?」
普段あまりわがままを言わないイオも乗り出してきた。イオの場合はたぶん、純粋な知的好奇心だろう。子供たちの中で一番風呂を気に入っているのはイオである。毎回のぼせる直前まで入って上がるころにはふらふらになっている。そこまで風呂好きなのだから、入ってみたいのだろう。
「あたしもいく! ね、クゥもいくでしょ?」
「……うん。いっかいいってみたかった」
どうやらこの大人用のおふろは子供たちの密かな憧れとなっていたようである。四人全員ともが大人のおふろに入りたいと言い出してしまった。ミナミにとってはなにがいいのかわからないが、子供とはとにかく大人の真似をしたがるものである。
「……にーちゃ、さっきがんばったからごほうび」
「……」
「ね?」
「……今日だけだぞ」
がんばったことを出されてミナミは折れた。基本的にミナミは子供に甘い。さっきのは微妙な罪悪感もあっただけに、断るという選択肢は最初から存在していなかった。
まぁ、自分が付いているのだから万が一、なんてこともおこらないだろうとミナミは開き直ることにした。
「ほら、おいで」
「はーい!」
右ひざにレン、左ひざにイオ、右腕にメル、左腕にクゥを座らせて湯船につかる。膝上の二人を抱きかかえるようにしているので最初はきついかも、と思ったが意外と何とかなるものだった。
都合のいいことに、子供たちが膝の上に座るとちょうどいい感じくらいの水嵩であった。腕の上の二人はちょっとバランスが悪いためか、ミナミの頭にしがみ付いている。ちょっと肩が出ているが、そんなに問題ないだろう。
「にーちゃっておふろのなかでもひゃっこくてきっもちいいよねぇ~」
「ん、にーちゃんはゾンビだからな」
こないだ気付いたことだが、どうやらミナミの体は体温が上がらないらしい。そのためか風呂上がりにはちょくちょくほてった体を冷やすために子供たちに足に抱きつかれるのだ。
ミナミと違い、子供たちの体はじんわりと温まってきているのがミナミの肌を通して伝わってくる。こうして肌を通して触れ合うのもまたいいと、ミナミはリラックスして息を吸い込んだ。
腹に巻きついてくるレンの尾っぽのスポンジのような軟らかさ。
わき腹あたりに感じるイオのつるつるとした肌。
ぺたぺたと首に伝わるメルの子供特有の手の柔らかさ。
耳にときおり触れるクゥのさらさらの白い髪。
世の親というものはみなこの感覚をもつのだろうか。今ここに存在する全てがミナミは愛おしかった。
超感覚で聞こえる子供たちの心臓の鼓動が、息遣いが、他愛もないおしゃべりが、うれしそうな笑顔が、ときおりきゅっと握ってくる手の感触が、バランスを取るためにもぞもぞと動くその様が、ぐしぐしと髪をひっぱってくるときのいたずらっぽい笑い顔が……なにもかもが愛おしい。
いつか一緒のおふろに入りたくない、といわれる日もくるだろう。はやくても三年、遅くて五年くらいだろうか。もしかしたらもっといけるかもしれない。その日までに、この愛おしい感触を体に刻みこもうとミナミは誓った。
なお、まっさきに風呂に入ったレンがのぼせる直前になって、ミナミは両腕両膝がふさがれて身動きできないことに気付いた。
20160724 文法、形式を含めた改稿。




