1 彼が現世を去った理由
「──それじゃ、朝のホームルームはこれで終わり。掲示物係さん、これ黒板のとこに貼っといてね? みんな一度は目を通しておくこと。重要だから掲示するってのを忘れないように。あと、図書委員会は昼休みに打ち合わせがあるそうです。……ちゃんと行くのよ?」
ガヤガヤとした教室の中では、その声は聞き取りづらいものだった。
教室の中の誰も返事をしない。教師の話を聞いているものなどほとんどいなかったのだ。
「わかったら返事をするっ!」
教師の若い女性は少し大きい声を出す。教室の前の方の席だけが一瞬静かになったがわずかばかりの静粛はすぐに騒音に飲み込まれ、その名残を一切感じさせない。
ただ、まったくの効果がなかったかと聞かれればそういうわけでもなく。携帯電話を弄くっていたある男子生徒がその言葉に反応した。
「はいはい、いきますってば」
にやけながら返事をするも、彼は携帯電話からは目を離さないでいた。
もし彼が本当に行く気があるのならばどこで打ち合わせがあるのか聞き返しただろう。どうやら今回も、彼は委員会に行く気はないようだ。
「わかればいいのよ」
しかし、そのことに気づかない教師は返事をもらったことに気分をよくし、教室を出て行ってしまった。だいたい、自分が集合場所を言い忘れたことに気づいていない。
彼女のこういうところが甘いのだ。そうして一度なめられてしまったらその立場はそうそう変わることはない。ましてや中途半端に知恵がある高校生ならばなおさらである。後で集合場所を言われなかったとごねれば悪いのは彼女になるのだ。
男子生徒はそこまで考えてわざわざ返事をしたのであった。遊んでいる様に見えて、彼は数少ない“話を聞いていた人”だった。
「……」
そして同じ“話を聞いていた人”であった、眼鏡をかけた小柄な女の子が教壇においてあったプリントを掲示物スペースに貼り付けた。
彼女は掲示物係だ。しかしそのプリントを読むことなく、席に戻って読書を始めてしまう。
彼女が行動したのはそれが彼女の仕事だったからだ。そして、彼女は本を読むことが好きであり、誰にも邪魔されたくなかった。なので、後で難癖をつけられるかも知れない仕事を出来るだけ早めに片付けたのだ。
そう、本当にそれだけなのだ。話を聞いていたのも後で面倒なことになってお説教でも食らったら時間の無駄だと考えていたからだ。決して好きで聞いていたわけではない。
「……お」
しばらくして掲示物スペースに近づく一人の男子生徒がいた。
他の生徒のような茶髪ではない、日本人らしい黒髪。お洒落などに興味がないのだろうか、その髪の毛には若干の寝癖が付いていた。
寝癖が付いているといっても髪の毛が長いわけではない。ただなんとなく、そんな感じのヘアスタイルなのだ。さらに顔も一般的だった。特徴らしい特徴がない。
彼が話を聞いていたのはただ単に、他にすることがなかったからだ。掲示物を見ようとしたのも他にすることが見つからなかったからだ。それに、見ておけといわれたのだから、見ておいたほうがいいのだろうと単純にそう思っただけだ。
このなんだかパッとしない面白みのない少年──『三条 ミナミ』がこの物語の主人公である。
「……変質者、ね」
プリントは保健委員会からの風邪予防についてのお知らせと、先月の不審者情報だった。どうやらこの近所に変質者が出たらしい。ついでにストーカーまで出てくる大盤振る舞いである。
隣町でも露出狂がでたようだが、こちらは防犯パトロール中の高校生に取り押さえられたと大きく見出し付きでコラムが載っていた。
どれも自分には関係ない。そう結論付けるとミナミは自分の席へと戻っていった。
(そういえば先月、県央の方で男子高校生が刺されて亡くなったんだっけ?)
「……」
もしかしたらストーカーと何かしら関連性があるのだろうか。ミナミはひとりで考えこんでいた。
普通ならば友人と一緒に話をしたりするだろう。一人で考え込む生徒なんていないだろう。
高校生はとにかく誰かの傍らにいないと不安になるのである。彼らの言葉を借りるなら、つるんでいないと不安になるのである。
しかしミナミは違った。
一人で弁当を食べたりもするし、みんなの意見に真っ向から反対をしたりもした。たとえ班員全員が掃除をサボっても、彼だけは掃除をした。すこし見方を変えれば、酷く空気が読めない人間だったのかもしれない。
ミナミに友達がいないわけではない。必要なときにはしゃべりかけるし、無駄話だってする。休日にみんなでカラオケに行く事だってあった。尤も、彼はあまり歌わなかったが。
彼は合理的なだけなのだ。自分がやりたいことをやるが、やってはいけないことはやらない。それを忠実に守っているだけである。
たとえみんなと違っても自分の意思を貫き通す。たとえ一人でも弁当は食べられる。間違っていることは間違っていると指摘する。みんながサボっているからといって自分がサボっていい理由にはならない。
すべて自分で出した結論であり、彼はその答えに自信はあっても疑いなどなかった。ただまぁ、変わり者といえば変わり者ではある。
幸運なことに、そんな彼を周りの人間はよく理解していた。たしかに最初こそいくらかクセのある性格に近づくのを躊躇ったが、一度話をすれば彼の人間性は理解できたからだ。それに、その性格ゆえ変に気を置くこともなく安心して話せたし、一緒にいてそれなりには楽しかったのである。
それでも変わり者という認識が変わることがなかったのは、もはやしょうがないことだろう。
「……」
やがてミナミは考えるのをやめた。考えてもつまらなかったからだ。
最近ミナミはボーっとすることが増えた。俗に言うスチューデントアパシーというやつなのかもしれない。なにをやってもつまらないのだ。
死んだ魚のような目をしていることは彼も自覚していたが、だからといってどうするわけでもなかった。ただやるべきことをなすだけで、そこから先が続かない。
(これじゃ、まるでゾンビみたいじゃないか)
実際、彼にとってどうでもいいことだった。
この無気力症も、普通は時間がたてば改善されるのであろう。しかし、彼の場合は思わぬ形で解決することになる。そのことを、今のミナミが知る由もない。
その日は午前授業でミナミはいつもより早い時間に帰路についていた。
彼は通学に自転車を使わない。抜け道として公園内を歩いていったほうが早いからだ。
ちょうどお散歩から帰るところなのだろうか。二十人くらいの幼稚園児が列を作って歩いている。ころころしたかわいい顔で、笑いながら歌を歌っていた。一人は眠ってしまっていて、引率の先生がおんぶをしている。
自分にもあんなころがあったなぁとミナミはその様子を目で追いかけた。
「……ん?」
幼稚園児をジッと見つめている男子高校生は不審者になるのだろうか、そんなことを考えながら通りこそうとしたときだった。彼は見てしまったのだ。
(あそこにいるのはだれだ?)
「……ッ!?」
気づいた瞬間、ミナミは園児の列の先頭に向かって走り出した。
(なんだあいつ!?)
前方にある木の陰に、黒いパーカーを来て眼鏡をかけた明らかに不審な男がいた。
今は昼をちょっと過ぎたばかりだ。この辺には飲食店やコンビニなどはないので
昼休憩の会社員などはいない。少なくともミナミは十七年ほど生きてきた中でここでお昼休憩をしている会社員などを見たことがない。たまに幼稚園児がお弁当を広げているのを学校の窓から見るくらいだろう。彼らは遠いところからでもカラフルで目立つのだ。
「はーい、青になったらみんなでおててを上げてわたりましょうねー」
引率の先生はその男に気づいていない。一人はおんぶしている子に注意をむけていて、もう一人はその分、子供たち全体に注意を向けているようだった。
そう、彼女らは十分に“子供たちには”注意を払っていた。”子供たちにしか”注意を払っていなかった。
いや、もし彼女らが前方を見ていても気づかなかっただろう。それほどまで男はうまく隠れていた。
ではなぜミナミはその男に気づいたのだろうか? そして、走り出したのだろうか?
「おいっ! そこに刃物もったやつがいるぞっ!」
「え──!?」
それは男の手に持った“なにか”が銀の光を反射し、それがたまたま後ろのほうにいたミナミの目に届いたからだ。何かとはもちろん……包丁である。
「えへへへへへ……!」
「!」
男が木陰から飛び出してくるのと、ミナミが列の先頭──すなわち男の正面に躍り出したのはほぼ同時だった。血走った目をした男は両手で包丁を構えると、品定めをするように園児を見回し奇声あげる。
「えへ、えへへ、えへあぁぁぁぁぁ!」
それを見てしまった園児たちの反応は大きく二つに分かれた。泣き出すものと、恐怖で腰を抜かすものである。引率の先生もパニックになっており、とても子供たちのことを考えられる状態ではない。
「う、うぇぇぇ……!」
「お、おかあさあん……!」
男は一番近くにへたり込んでいた一人に狙いを定めたようで、包丁を構えて突進してきた。男と真正面から対峙したミナミは子供を背中にかばいながら出来る限り優しく、されど毅然とした声で告げる。
「早く逃げるんだ!」
「うわぁぁぁん!」
が、子供はミナミの数歩後ろでへたり込んだまま動かない。動けと言うほうが無茶だろう。
「くそっ!」
ミナミの決断は早かった。
自分には武術の心得などないし、かといってここにいる子供たち全員を瞬時に移動させることはできないのもわかっている。ヒーローよろしく素手で相手を倒せるとも思っていない。
ならば、どうするか。合理的な彼の脳みそはここでもっとも合理的な答えを出した。
「こっちだ!」
特に構えを取ることもなく、そのまま男を自らの体で受け止めたのである。
ドスッ!!
「が、フッ……!」
金属バットでサンドバックを殴ったような音と共に、ミナミのわき腹から血があふれ出た。銀色の狂気がそれはもう立派にわき腹に刺さっている。
「えへ、えへ、えへへへへ!」
じくじくと熱を持ったような痛みがあったが、ミナミは頭のどこかでまだダメだとかんじていた。
男はぐちゃぐちゃと包丁でミナミの内臓を掻きまわし、狂ったように笑っている。自分の右耳のすぐ横から聞こえる荒い息遣いが、男がまだ満足していないということを知らせてくれた。
(時間稼ぎにもなりゃしないとは刺され損か?)
男はいずれ包丁を引き抜いて後ろの子供たちを襲うだろう。お話で人をかばって刺されるのはよく聞くが、それだけでは守れないことをミナミはこの最悪のシチュエーションで理解してしまう。
ならば、どうすればよいのか。ミナミはさらに合理的な──ある意味では狂っているとも取れる行動をした。
どうせ風前の灯火であり、長くはない命なのだ。今のミナミに躊躇う理由はなかった。
「ふん、ぬ……ッ!」
グチャッ……!
ミナミは男の両手を掴みこむように持つと、自分で自らのハラに刺さっている包丁をより深く突き刺した。そして出来るだけハラに力を──文字通り死力を尽くしてこめ、骨と筋肉でがっちりと挟み込む。
「う、ェ……」
同時に口から血があふれ出た。むしろリアリティに欠けるほどに鮮やかなそれがびちゃびちゃとミナミの足もとに水たまりを作っていく。
ここでようやく男の注意が自分に向いた。
「えへ……?」
「よ、お……! や、っと、み、てく、れた、な……!」
男はおびえた目でミナミを見ている。それもそうだろう。自分で自分のハラを刺すようなヤツと密着しているのだから。
「い、いこ、と。おしえ、てや、んよ」
そんなおびえる眼を見てミナミはいいことを思いついた。
今の自分のにぴったりなことを、おぼろげな意識の中でふと思いついたのである。そして緊急事態であるのに、いや、緊急事態だったからこそやってみたくなった。
尋常じゃないくらいに重く、震える腕を伸ばし、べっとりと血でぬれた右手で男の頬をなでる。『あ゛ー……』とそれっぽい息を漏らしながら、生涯最後のベストスマイルをにちゃりと浮かべて見せた。
「え、あ……」
男の目が恐怖に震えた。
ミナミはその様子を見て満足すると、力を振り絞って──といってももうほとんど入らなかったが──男の首に噛み付き、血を吹きだしながら耳元でささやいた。
「おれ、さ……ゾンビ、な、んだよ、ね。この、てい、どじゃ、しなな、い、んだよ」
これがミナミの最期の言葉となった。
20120504 ちょっと修正。久しぶりに読み返したけどやっぱ読みにくいね。
20130228 ちょっと修正。
20150416 文法、形式を含めた改稿。
20150501 誤字修正。
20160213 誤字修正。