異常
郊外にある時代遅れのビジネスホテル。
そんなビジネスホテルを利用するのは物好きが貧乏人だ、と洗練された東京の人なら思うだろう。
そかしそんなホテルにも、その日何人かに客が泊っていた。
とある客が部屋を出ていった時の小さな不注意、火の不始末。
その火は誰に咎められる事もなくどんどん大きくなり、やがて立派な炎となる。
その炎がパチパチと音を立ててワンフロアを包み込み、オレンジの染め上げた頃。
「火事だ!」
普段はビジネスホテルに目もくれない通行人が、指を差しそう叫んだ。
暇を持て余しいつの間にか眠りこけていたセナが目を覚ましたのは丁度その頃だった。
即座にセナは異変に気付く。
部屋の中にはうっすらと煙が立ち込めていて、微かだが確かに、静かなパチパチという音がする。
「うそっ…」
可能な限り頭を低くしてドアの下の隙間を覗くと、ちらちらと揺らぐオレンジ色の光が目に飛び込んでくる。
がたがたと体を動かすが、手足を拘束している物は無論びくともしない。
「誰か、誰か助けて!!」
力の限り声を出すが、こんなビジネスホテルに人がたくさん泊っているとは考え難かった。
セナは何か助けになりそうな物を探すが、無駄な努力だった。
パニックになりそうになるのをぐっと堪える。
その時だった、微かに人の足音がした。
セナは自分の耳に疑いを抱いたが、その音はだんだんとこちらに近付き、次の瞬間乱暴にドアが開かれた。
廊下は一面火の海だった。
眩しいほどの業火が生み出した灼熱の風に、セナの髪がぶわりと揺れる。
火の海をバックに立っているイースは、火の燃え移ったジャケットを遠くへ放り投げ、後ろ手にバタンとドアを閉める。
あけにとられているセナには目もくれず、イースはバスルームへ向かうと、バスタオルを水が滴るほどにシャワーで濡らす。
やがてそれを持ってくると、ドアの下の隙間にはめ込んだ。
作業が終わると、イースはつかつかとセナの方へと向かってくる。
何も言わないままイースはセナの手足を拘束しているテープをどんどん剥がしていく。
やがて手足が自由になると、セナはおずおずと立ち上がった。
イースはセナの事などお構いなしの様子で窓の方へと向かう。
その部屋には粗末な造りのベランダがついていたが、イースは窓を開けてそのベランダへと出る。
「ねぇ、どうするの?」
イースの後を追いベランダに出てきたセナが言う。
「救助待つ?」
イースはセナを無視して熱心に下を見ている。
セナもつられて下を見るが、地上は吸い込まれそうな程遠い。
次に何故かイースは、目の前の少し背の低いビルの屋上を見ながら何やらぶつぶつ言っている。
「ねぇってば」
いきなりイースはぴょんっとベランダの手すりに飛び乗った。
手すりはコンクリート製で厚みが30センチ程あるとはいえ、何十メートルと下の地上を目の当たりにしたセナはその様子を見ているだけで肝がひやりとする。
「選ばしてあげるよ、生きるか死ぬか」
イースはセナの方を向いて言う。
セナは、意味が分からず、困惑する。
答えられないでいると、イースが続ける。
「生きたいなら、この手すりに座って」
「この手すりに座るのって、落ちて死んじゃう方の選択肢じゃない?」
「常人には思いもつかない奥の手があるから」
「じゃぁそれ教えて」
「座ったら教えたげる」
セナはイースの事を警戒しながら、イースと一番離れた場所に座る。
下を見まいとするほど見てしまい、その度に手がじわりと汗ばむ。
「怖い」
ビル風に髪を遊ばれながら、セナは言う。
イースは不用心にぴょん、っと跳びはね、セナとの距離縮める。
セナが警戒心むき出しなのにもおかまいなく、セナの手を大事そうにしっかりと握る。
イースの手は熱されたヤカンのように熱い。
セナが状況を理解する為の糸口をなんとか探そうとイースの表情を覗き込んだ。
イースは顔になぜか楽しそうな微笑を浮かべ、その瞳孔は開ききっている。
異様に熱い手、開いた瞳孔、イースが普通の状態ではないという事にセナは気がついた。
しかし一足遅かった。
セナが何かアクションを起こせるよりも早く、イースはセナの腕を掴んだまま、手すりを足で強く蹴った。