崩壊
セナは、大きな白いキャンパスと、黒い筆と、何色かの絵の具を買って部屋に戻った。
キャンパスは、買ってみると店で見たよりも大きく、運ぶのに苦労した。
いつもと同じ自分の部屋の筈なのに、半透明の膜の外にあるように、遠くに感じられる。
セナはそれに気付かないふりをして、キャンパスの設置にかかる。
数分後、キャンパスの前に佇むセナは、髪を一つにまとめる。
絵の具はパレットに出してある。
赤と黒と青。
三色で十分なように思えた。
筆にたっぷりと水を含ませると、静かに瞳を閉じる。
心の声を聞いてみる。
怒り。
全てをぶち壊した、カズマに対する怒り。
虐げられるだけで、何ひとつ反撃する事が出来なかった自分を呪った。
ゆっくりと開かれた瞳には、普段は消してみせる事のない暗い炎が宿っていた。
しかし、セナの瞳は一瞬正気に戻る。
「小さい・・・」
巨大なキャンパスが、突然小さな紙切れのごとく感じられた。
心の声は、大きすぎて、それにはとてもおさまりそうになかった。
あるいは、長くやっていなかったせいで、方法を忘れてしまったのかもしれない。
セナは混乱する。
羽音のうるさい虫の大群が近づいてくるように、頭の中でパニックが広がってゆくのが分かった。
理性のたがが外れてゆく。
ふと顔を上げるとそこには部屋で一番大きな鏡があった。
鏡の中のセナは表情のない顔でじっとこっちを見つめている。
ふいにその頬を一筋涙が伝った。
再びセナの瞳に、暗い炎が燃え始めた。
手に持っている筆を、力の限り鏡に向かって投げつける。
音と共に、鏡に亀裂が入る。
今度は、側にあった陶器の花瓶を鏡に投げつけると、鏡は粉々に割れた。
「誰にも知られてないって思ってたから、今までやってこれたのに」
震える声でそう呟いて、側にある植木鉢を手にとる。そこにはかわいらしい観葉植物が根付いている。
「ねえ、令人、なんで知ってるの?」
植木鉢は部屋の中央のパネルに投げつけられ、砕けた。
割れたパネルの破片が飛んできて、セナの肌に切り傷を残してゆく。
「どれだけ人を傷つけたら気が済むのよ!!」
絶叫に近いその言葉は、カズマに向けられた物だった。
顔は怒りと悔しさと涙でゆがんでいる。
部屋の中にあるものを手当たりしだい破壊した。
すべて壊してしまおうと思った。
忌まわしい過去も、現在も全部。
どれだけ時間がたっただろうか。
部屋の中は戦いの女神が通り去った後のように、酷い有様だ。
しかしセナの怒りは冷める事を知らぬマグマのように、まだ脈打っている。
顔は切り傷から流れた血と涙とが混ざった物で汚れていた。
その時、ふと背後に気配を感じた。
「なんでここにいるの」
振り向かなくても、イースだと分かった。
誰にも気付かれずいつの間にかそこにいる。
そんな芸当が出来る人間は、セナの知る限りイースしかいない。
「勝手に入ってこないで!」
セナは手に持っていた物をイースに向かい思いっきり投げつける。
身をかわしてよけた為、それは後ろの壁にあたって砕けた。
「止めないから、続けて」
イースは静かにそう言った。
しかしその落ち着いた態度は、セナの怒りの炎にさらに油を注いだ。
「出ていってよ!!」
あらんばかりの剣幕で迫っても、イースは悲しそうな、さみしそうな、顔のままそこを動かない。
セナはイースを憎しみをこめて睨みつけるのをやめ、踵を返すと、つかつかと台所へと向かう。
シンクの横の引き出しを乱暴に開けると、包丁を取り出す。
「セナ?」
イースは包丁を自分の方に向けたままセナが近づいて来ても、その場を動かなかった。
それはかえってセナを落胆させる。
イースが一切動揺しない事によって、自分が無力な人間なのを再確認させられているようであったから。
セナは刃先を自分に向けた。
それを見て、即座にイースが動く。
次の瞬間、セナはイースの腕の中にいた。
「セナを傷付けるのは、許さないよ、たとえセナ自身でも」
包丁はどこか遠くへ飛ばされ、もうセナの手には握られてなかった。
イースはセナを抱きしめる手に力を込める。
「助けになりたいよ、何か出来る事はない?」
セナは温かい涙が再び目から溢れ出すのを感じた。
こんなにも泣いたのに、どこからまだ溢れ出てくるんだろう、イースの腕の温もりの中、そんな事を考えながら、セナは意識を失った。