第5話「記憶の重なり」
煌都の街は、年に一度の大きな祭りの前触れで浮足立っていた。
窓を開ければ、遠くから笛や太鼓の軽快な音が風に乗って流れてくる。街のあちこちには色鮮やかな提灯が飾られ、人々の笑い声が夜遅くまで響く季節だ。
しかし、店の中だけは、そんな浮かれた空気から切り離されたように静まり返っていた。
『祭りの音は、嫌いだ』
紫苑は窓を固く閉ざし、分厚い布の帳を下ろした。
祭りの喧騒は、過去の忌まわしい記憶を呼び起こさせる。幼い頃、孤児として街の片隅で生きていた身にとって、祭りは自分たちのような存在をより惨めに感じさせるものでしかなかった。
机の前に戻り、水盤の前に座った。
水盤には、すでに数枚の紅い花びらが浮かべられている。それは今日の運勢を占うためではなく、ここ数日、心を占めて離さない一つの疑問への答えを求めるためのものだった。
『私と彼の間にある結びつきは、本当にただの本能によるものなのか』
水面をじっと見つめた。
花びらは互いに強く引かれ合い、水盤の中央で離れることなく静止している。何度占っても、結果は同じだった。縁は、運命という言葉では片付けられないほど深く、強固に結びついていると水盤は告げている。
両手で顔を覆い、深い深呼吸をした。
毎日この店を訪れるようになってから、心に張られていた氷の壁は確実にもろくなっていた。不器用な優しさ、真面目すぎるほどの誠実さ、そして一個人として尊重してくれる態度。それらに触れるたび、本能の恐怖を忘れ、ただの人間として惹かれていく自分を感じていた。
「……馬鹿な。私がアルファに惹かれるなんて」
声に出して否定しても、胸の奥で早鐘を打つ心臓の鼓動は誤魔化せなかった。
その時、カランという鈴の音が店内に響いた。
弾かれたように顔を上げると、扉の向こうから李翔が入ってきた。
今日の彼は、いつもの濃紺の軍服ではなく、動きやすい麻の私服姿だった。軍服の堅苦しさが抜け、大柄な体躯が幾分か柔らかい印象を与えている。新鮮な姿に、思わず見入ってしまった。
「急に来てすまない。今日は非番だったから、少し街を歩いていたのだ」
照れくさそうに頭を掻きながら、手に持っていた紙包みを机に置いた。
「祭りの出店が出ていてな。これを見つけたら、なぜかあなたに持っていかなければならない気がして」
紙包みの中から現れたのは、色鮮やかな鳥の形をした飴細工だった。透き通るような紅と金の飴が、精巧な形に練り上げられている。
息を呑んだ。
飴細工。それは、心の奥底に眠っているある古い記憶の断片と深く結びつくものだった。
「……どうして、これを」
声が微かに震えていた。
動揺に気づかないまま、優しい声で言った。
「外は賑やかだ。紫苑殿、ずっとこの暗い店内に籠もっているのだろう。少しだけ、外の空気を吸いに出ないか。店の前の路地までで構わないから」
いつもなら即座に断るはずだった。しかし、真っすぐな瞳と机の上の飴細工を見つめていると、なぜか断る言葉を見つけられなかった。
***
促されるまま、重い扉を開けて店の外へと出た。
裏路地は薄暗いが、夜風は驚くほど心地よく、大通りから漏れてくる提灯の光が石畳を微かに照らしていた。
店の入り口の木組みの段差に、少し距離を空けて並んで腰掛けた。
遠くからは、やはり祭りの陽気な音楽が聞こえてくる。
「良い夜だな」
夜空を見上げながら、つぶやくように言った。横顔は穏やかで、軍人としての厳しい表情はどこにもない。
「私は、祭りはあまり好きではありません」
手の中の飴細工を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「そうか。実は私も、昔は祭りが嫌いだったのだ」
意外な言葉に、顔を向けた。
「なぜですか」
少し懐かしむように目を細め、静かに語り始めた。
「幼い頃、この煌都の祭りで両親とはぐれたことがあってな。暗い裏路地に迷い込み、怖くてたまらなくて、ただ一人で泣きじゃくっていた。祭りのお囃子の音が、自分を置いてけぼりにする怪物のように思えたものだ」
心臓がドクンと大きく跳ねた。
『迷子になって、泣いていた……?』
言葉が、頭の中で激しく響き始めた。
「その時、一人の少年が私を見つけてくれたのだ。彼は私よりも少し年上で、とても静かで透き通るような目をしていた。彼は泣いている私の頭を小さな手でなでて、『泣かないで』と言って、自分の持っていた飴細工を私にくれたのだ」
自分の大きな手を見つめながら、愛おしそうに言葉を紡いだ。
「その飴細工をもらった時、恐怖が嘘のように消えていった。彼の温かい手のひらと、その優しい声が、今でも私の心に深く残っている。私がずっと探していた忘れられない人というのは、その少年のことなのだ」
呼吸を忘れたように見つめた。
目の前がくらくらと眩暈を起こしそうになる。
あの夜。孤児として街をさまよっていた、祭りの夜。
暗い路地の片隅で、自分よりも体の大きな少年が膝を抱えて泣いていた。その哀れな姿を見て放っておけず、なけなしの小銭で買ったばかりの飴細工を差し出した。
『泣かないで』
確かに、そう言って頭をなでた。
「嘘だ……」
無意識に声が漏れていた。
驚いてこちらを見た。
「紫苑殿? どうした、顔色が悪いぞ」
手の中の飴細工を強く握りしめた。冷たい感触が、夢ではない現実を突きつけてくる。
目の前にいるこの大柄で不器用な軍人が、あの夜の泣き虫な少年だったというのか。彼が長年探し続けていた「忘れられない人」が、自分だったというのか。
頭の中で様々な感情が激しく渦巻いた。
惹かれたのは、オメガとしての本能によるものではなかった。あの夜の温かな記憶、過去の確かな縁がここまで導いてきたのだ。
運命という呪わしい言葉ではなく、純粋な人と人との繋がり。
それがわかった瞬間、心の奥底に張り詰めていた恐怖の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「李翔、さん……」
震える声で呼びかけた。
心配そうに身を乗り出し、顔を覗き込んだ。距離が縮まった瞬間、纏う雨に濡れた森の香りが優しく包み込んだ。
もう、その香りから逃げ出したいとは思わなかった。ただ、真っすぐな瞳の中にあの夜の少年の面影を探すように、じっと見つめ返すことしかできなかった。




