第2話「雨上がりの再訪」
店は、いつにも増して静まり返っていた。
木枠の窓から差し込む光が、空気中を舞う細かな埃を照らし出している。紫苑は一人、机の上の水盤を見つめていた。
李翔という男が訪れてから、すでに五日が経過していた。
あの日、冷酷な言葉で彼を突き放した。過去の幻影など捨ててしまえと、占いすら行わずに断言したのだ。真面目な軍人である彼なら、占い師の言葉を重く受け止め、二度とこんな裏路地の店には足を向けないはずだった。
『これでよかったのだ』
自分に言い聞かせるように、心の中でつぶやいた。
オメガである自分にとって、運命のアルファと関わることは破滅を意味する。理性を奪われ、本能に支配されるだけの人生など絶対に認めない。
白磁の器に入ったお茶は、すでにすっかり冷めきっていた。口に運ぶ気にもなれず、ただじっと水面を眺め続けた。
水は鏡のように穏やかで、何の波紋も生み出さない。平和な日常が戻ってきただけだ。それなのに、なぜか胸の奥に小さな棘が刺さったような、奇妙な違和感が消えなかった。
ふと、雨の気配がした。
窓の外を見ると、いつの間にか厚い雲が煌都の空を覆い隠していた。細かい雨粒が、古い瓦屋根を叩く音が聞こえ始める。
椅子から立ち上がり、窓を閉めようと手を伸ばした。
その時、カランという鈴の音が店内に響き渡った。
肩がびくりと跳ねる。ゆっくりと振り返ると、そこには見覚えのある大柄な影が立っていた。
「突然やってきてすまない」
濃紺の軍服を雨で濡らした李翔だった。
紫苑は呼吸を止めた。彼から漂う香りが、本物の雨の匂いと混じり合い、あの日よりもさらに色濃く感覚を刺激してきたからだ。
「……なぜ、また来たのですか」
窓辺に立ったまま、警戒を隠そうともせずに問いかけた。
「あなたにはもう、お伝えしたはずです。あの人とは縁がないと」
李翔は扉を静かに閉め、帽子を手で払って水滴を落とした。表情は相変わらず真面目で、どこか思い詰めたような硬さがある。
「わかっている。あなたの言葉は、ずっと頭の中で繰り返していた」
一歩、こちらへ近づいた。無意識に後ずさりしそうになるのを、必死にこらえた。
「過去にしがみつくなという助言は、正しかった。私は、幻影を追いかけているだけだったのかもしれない」
「それなら、どうして」
「だが、どうしても納得できないことがあってな」
真っすぐな瞳が、こちらを捉えた。その眼差しには、隠しきれない熱が宿っている。
「縁がないと言われた時、私は絶望すると思っていた。だが、不思議と心は穏やかだったのだ。あなたの声を聞いていると、長年の胸のつかえが下りるような、そんな気がして」
紫苑は眉間にしわを寄せた。彼の言っている意味が、まったく理解できなかった。
「私は占い師です。あなたの心を癒やすための医者ではありません」
「わかっている。だが、もう少しだけ、あなたの話を聞かせてくれないだろうか」
不器用に頭を下げた。
「どんなに厳しい言葉でもいい。あなたが紡ぐ言葉には、不思議な力がある。ただ、それを聞きたいのだ」
絶句した。
占い師として生きてきて、こんな客は初めてだった。未来を知るためではなく、ただ言葉を求めてやってくるなど、聞いたことがない。
『この男は、何を考えているのだ』
混乱していた。彼を遠ざけるために投げつけた冷たい言葉が、逆に彼を引き寄せる結果になってしまったのだ。
***
断るべきだ。今すぐ店から追い出さなければならない。
しかし、雨に濡れた姿を見ていると、どうしても冷酷な言葉が口から出てこなかった。不器用な誠実さが、頑なな心を少しずつ削り取っていく。
「……服が濡れています。風邪を引きますよ」
自分でも信じられないような言葉を口にしていた。
棚から清潔な布を取り出し、無造作に投げ渡す。驚いたように布を受け取り、顔をほころばせた。
「すまない。感謝する」
布で頭や肩を拭く間、紫苑は再び椅子に腰を下ろし、新しいお茶を淹れ始めた。
茶葉の香りが店内に広がり、放たれる森の香りと静かに溶け合っていく。手元の茶器を見つめながら、心を落ち着かせようと努めた。
「勘違いしないでください。ただ、店の中を水浸しにされたくないだけです」
「わかっている。気遣い、痛み入る」
嬉しそうに言い、前回と同じ客用の丸椅子に遠慮がちに座った。
温かいお茶の入った器を、無言で差し出した。両手で大切そうに器を包み込み、ゆっくりと口をつける。
「美味い。冷えた体に染み渡るようだ」
その飾らない笑顔を見て、微かに息を吐いた。
『運命のアルファが、こんなにも鈍感で素直な男だなんて』
本能が恐れていたような暴力性も支配欲も、彼からは微塵も感じられない。それがさらに戸惑わせていた。
「それで、私に何を聞きたいというのですか」
冷たい声色を保とうと意識しながら尋ねた。
李翔はお茶の器を机に置き、真剣な表情に戻った。
「あなたは、運命というものを信じるか」
唐突な問いだった。指先が、わずかにこわばる。
「占い師にそれを聞くのですか」
「すまない。おかしな問いだったな」
自嘲するように笑った。
「私はずっと、幼い頃の出会いを運命だと思っていた。いつか必ず再会できると、信じて疑わなかった」
視線が、虚空をさまようように遠くを向いた。
「だが、あなたの言葉で目が覚めた。運命などというものは、自分が勝手に作り上げた幻想にすぎないのかもしれないとな」
胸が、チクリと痛んだ。
「幻想、ですか」
「あぁ。だから私は、もう過去の幻影を探すのをやめる。これからは、自分の目で見て、自分の足で探すことにした」
真っすぐに見つめ直した。
「だから、ここへ来たのだ」
息を呑んだ。瞳の奥底にある真っすぐな感情が、痛いほど伝わってくる。
『彼は、自分の意思でここに来たというのか』
運命に引き寄せられたからではなく、彼自身の選択として、会いに来た。その事実が、心を激しく揺さぶった。
「あなたは、本当に変わった人ですね」
視線をそらし、手元の水盤を見つめた。水面には何も映っていない。ただ、揺れる心だけがそこに存在していた。
「迷惑だっただろうか」
不安そうに尋ねる。
「迷惑です」
即答した。しかし、その声には以前のような冷たい刺はなかった。
「ですが、雨が止むまでなら、ここに居ても構いません」
顔が、ぱっと明るくなった。
「感謝する」
外の雨音は、まだしばらく止みそうにない。冷めた自分のお茶を一口だけ飲んだ。喉を通る冷たい液体が、なぜか少しだけ温かく感じられた。
運命を回避するためには、彼を遠ざけなければならない。頭ではわかっているのに、店から追い出すことができなかった。
静かな雨音と、二つの異なる香りが混ざり合う空間で、心に小さな迷いの種が芽生え始めていた。




