番外編「お茶の温度と微かな嫉妬」
季節は巡り、煌都の空気に冷たい冬の足音が混じり始めていた。
乾いた北風が裏路地を吹き抜け、古い木造建築の隙間を鳴らして通り過ぎていく。しかし、占い所の中だけは、炭火の入った火鉢の柔らかな熱気と、立ち上るお茶の湯気によって、驚くほど温かい空気に満たされていた。
「紫苑、この棚の上の古い書物は、どこへ片付ければいい?」
脚立の上に立ち、大きな背中を丸めながら李翔が尋ねた。
彼は非番の日になると、当たり前のように店へやってきては、高い場所の掃除や重い荷物の移動など、力仕事を買って出るようになっていた。軍服ではなく厚手の綿入れを羽織った姿は、すっかりこの薄暗い店内の風景の一部として馴染んでいる。
「それは、右側の奥の箱に入れておいてください。あまり乱暴に扱わないでくださいね。貴重なものもあるのですから」
手元の薬研で乾燥させた薬草をすり潰しながら、少しだけ口調をきつくして答えた。
「わかっている。赤子を扱うように丁寧にしまうさ」
苦笑しながら、大きな手で古い書物をそっと箱の中に並べていく。その不器用だが真面目な動作を見ていると、胸の奥にじんわりとした温かさが広がる。
互いの想いを確かめ合ってから数ヶ月。
関係は劇的に変化したわけではなかった。急に情熱的な言葉を交わすようになったわけでもなく、人前で親しげに振る舞うわけでもない。
しかし、お茶を飲む時の視線の交差や、すれ違う時に微かに触れ合う肩、そして店内に満ちている森の香りと甘い香りの完璧な調和が、二人の間に存在する絶対的な安心感を静かに物語っていた。
カラン、と真鍮の鈴が鳴った。
顔を上げると、華やかな絹の衣をまとった若い女性が二人、連れ立って店に入ってきた。香水の匂いからして、裕福な商家の娘たちだろう。
「ごめんください。あの、紫苑先生の占いは今日お願いできますか?」
「ええ、構いませんよ。どうぞ、そちらにお掛けください」
客用の丸椅子を示すと、女性たちは小さく会釈をして座った。しかし、彼女たちの視線はすぐに、脚立の上で作業をしている大柄な姿へと釘付けになった。
「まぁ……あの方は?」
一人の女性が、頬を赤らめながら小声で尋ねた。
「ただの手伝いです。気にしないでください」
平坦な声で答えたが、女性たちの興奮は収まらないようだった。
長身で鍛え抜かれた体躯を持ち、彫りの深い端正な顔立ちをしている。加えて無意識に放たれる特有の存在感と、雨に濡れた森のような落ち着いた香りは、女性たちにとって非常に魅力的に映るのだ。
「あの、手伝いの方。もしよろしければ、後でお名前を教えていただけませんか?」
もう一人の女性が、勇気を振り絞ったように声をかけた。
脚立から降りようとしていた李翔は、突然話を振られて驚いたように目を丸くした。
「私か? いや、私はただのしがない軍人であって、名乗るほどの者ではない」
誠実に、しかし困惑した様子で頭を下げた。その真面目で飾らない態度が、かえって女性たちの好感をさらに煽ってしまったらしい。彼女たちはクスクスと笑い合い、熱っぽい視線を向け続けている。
手元で、薬研の棒を握る力が無意識に強くなった。
ガリッ、と薬草が不自然な音を立てて潰れる。
胸の奥に、チクリとした痛みが走った。それは劣等感や、気を引きたいという本能的な欲求ではなかった。
ただ純粋に、自分の愛する人が他の誰かに熱を帯びた目で見られていることに対する、ひどく人間らしい嫉妬だった。
『馬鹿馬鹿しい。私は何を苛立っているんだ』
小さく息を吐き出し、心を落ち着かせようと努めた。なびくはずがないことは、誰よりもよくわかっている。それでも、心がざわつくのを止めることができなかった。
***
「では、占いを始めましょう」
わざと少し冷たい声を出して、女性たちの意識を水盤の方へと引き戻した。
その後、一時間ほどかけて二人の恋愛相談をこなし、女性たちが満足そうに帰っていくまで、ずっと無表情を貫いていた。
扉が閉まり、再び店内に静寂が戻る。
「ふぅ、終わったな。紫苑、少し休憩にしないか。お茶を淹れよう」
女性たちの熱視線などまったく気に留めていない様子で、のんきな声で火鉢の上の鉄瓶に手を伸ばした。
その無神経さに、心の中の小さな棘がチクリと痛みを増した。
「結構です。私はまだ薬草の整理が残っていますから」
冷たく言い放ち、薬研の作業を再開した。
ガリガリと無心に薬草をすり潰す音が響く。お湯を注ぐ手を止め、不思議そうに背中を見つめた。
「紫苑? どこか具合でも悪いのか。香りが、少し尖っている気がするが」
鋭い指摘に、肩がびくりと跳ねた。
香りは感情の起伏に直結している。苛立ちや不安を感じると、甘い香りの中に微かな苦みや鋭さが混じるのだ。隠そうとしても、お見通しだった。
薬研を置き、深くため息をついた。
「……具合など悪くありません。ただ、あなたが無自覚に愛想を振りまくから、少し呆れているだけです」
「私が? 愛想など振りまいた覚えはないぞ」
心底驚いたような顔をした。
「あの女性たちが、あなたに見惚れていたのに気づかなかったのですか。あなたが少し微笑んだだけで、彼女たちはすっかり心を奪われていたじゃないですか」
言葉にした瞬間、激しい自己嫌悪に陥った。まるで子供のわがままではないか。こんな見苦しい嫉妬を口にするなど、これまでの自分なら絶対にあり得ないことだった。
店内に、重い沈黙が落ちた。
気まずくて顔を上げられない。呆れられてしまうのではないかという不安がよぎる。
しかし、背後から聞こえてきたのは、小さく、しかし嬉しそうな笑い声だった。
驚いて振り返ると、大きな手で口元を覆いながら、肩を震わせて笑っていた。
「……何がおかしいんですか」
顔をしかめ、少し尖った声を出した。
慌てて笑いを収め、隣の椅子に腰を下ろした。その瞳には、深い慈愛と愛おしさが満ち溢れている。
「すまない、笑うつもりはなかったのだ。ただ……あなたが私のことで、そんな風に感情を乱してくれることが、どうしようもなく嬉しくて」
不器用な手つきで、細い指先をそっと包み込んだ。
「私は不器用な男だ。他人の視線など気にしたこともないし、気づきもしない。私の目には、この店で薬草をすり潰している、あなたの横顔しか映っていないのだから」
その真っすぐすぎる言葉に、思わず息を呑んだ。
瞳に嘘はない。漂う森の香りは、不安を優しく包み込むように限りなく穏やかで温かかった。
胸の奥で燻っていた小さな嫉妬の炎は、その温かい言葉によってあっという間に消え去ってしまった。代わりに、恥ずかしさと胸を締め付けるような愛おしさが込み上げてくる。
「……本当に、あなたは口が上手くなりましたね」
顔をそらし、ほんの少しだけ赤くなった頬を隠すようにうつむいた。
「本心しか言っていないつもりだが」
真剣な顔で答え、手をさらにしっかりと握りしめた。
小さくため息をつき、抵抗するのをやめて手の温もりに身を委ねた。冷たい隙間風が吹く外の世界から切り離されたこの小さな空間には、二人だけの絶対的な安心感が存在している。
「お茶、冷めてしまいますよ」
静かにつぶやくと、はっとして急須に手を伸ばした。
白磁の器に注がれた琥珀色の液体からは、香ばしい湯気が立ち上っている。二人は肩が触れ合うほどの距離で並んで座り、ゆっくりとお茶を口に運んだ。
喉を通る温かい液体と、隣から伝わってくる確かな体温。
体から放たれる香りは、いつの間にか尖った苦みを完全に失い、春の陽だまりのように柔らかく、甘い香りへと戻っていた。




