第11話「泥の中の告白」
暗い洞窟の中に、激しい雨音が反響して不気味に響いていた。
李翔は体を抱き起こしたまま、信じられないというように固まっていた。
放たれる甘く濃厚な香り。それは間違いなく、オメガが発する特有のフェロモンだった。
体内の本能が、その香りに呼応して激しくざわめき始める。心拍数が跳ね上がり、呼吸が荒くなり、目の前にいる華奢な体を強く抱きしめ、自分のものにしたいという強烈な衝動が喉元までせり上がってくる。
「紫苑殿……あなたは、オメガだったのか」
声は、欲望を抑え込むために低く掠れていた。
腕の中で、恐怖と屈辱に顔を歪めた。
「……そうです。私はオメガだ。だから、あなたから逃げていた」
涙で濡れた瞳で、睨みつけた。
「運命のアルファ。本能に支配され、私からすべてを奪う存在。私がどれだけあなたを憎み、恐れていたか……あなたにわかるはずがない!」
声は洞窟の中に悲痛に響き渡った。
これまで必死に隠してきた秘密。事実を知られれば、真っすぐな誠実さもあの温かい時間も、すべて本能という暴力によって塗り潰されてしまう。それが何よりも恐ろしかった。
「お願いです。私に触れないで。私を、支配しないで……」
胸板を押し返そうとしたが、疲労困憊の体には何の力も残っていなかった。
震える体を感じながら、深く目を閉じた。
本能が「組み伏せろ」と激しく命令を下している。その衝動は恐ろしいほどに強く、理性の防波堤をあっという間に決壊させそうだった。
しかし、脳裏に浮かんだのは、煌都の裏路地で過ごした穏やかな時間と、あの幼い日の祭りの夜の記憶だった。
泣いていた自分に飴細工を差し出してくれた小さな手。冷ややかだが、どこまでも繊細で優しい瞳。
オメガであろうとベータであろうと関係ない。愛しているのは、一人の人間の魂なのだ。
「……紫苑」
静かに、しかし力強く名前を呼んだ。
「私は、あなたを支配などしない。決して」
押し倒すどころか、自分の腕の力をわずかに緩め、逃げ出せるだけの隙間を作った。
驚いて目を見開いた。
瞳は、本能の熱に浮かされながらも驚くほど澄んでいた。そこにはアルファの傲慢さや支配欲はなく、ただ大切に思う純粋な愛情だけが存在していた。
「本能など、どうでもいい。私はただの李翔として、あなたを愛している。あなたが私を恐れるなら、私はこの手を離す。だが、これだけは信じてほしい」
頬に流れる泥と涙を、荒れた指先で優しく拭った。
「あなたがオメガだからではなく、あなたが私を見つけてくれたから。私があなたに惹かれたのは、あの夜の温かさを、あなたの魂の中に見つけたからだ」
目から、せき止められていた涙が溢れ出した。
運命でも本能でもない。確かに、自身を見てくれていた。
胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
「李翔、さん……李翔さん……!」
ずっと張り詰めていた心の糸が、完全にほどけていくのを感じた。
呪いも運命に対する恐怖も、真っすぐな誠実さの前では雪のように溶けて消え去った。
泣き崩れる背中を、ただ静かに、壊れ物を扱うように優しくなで続けた。
本能を完全にねじ伏せ、自らの意志で抱きしめる。その姿は、これまで憎んできた「支配者」とは対極にある、真の強さと優しさを持つ人間の姿だった。
洞窟の入り口で、負傷した部下たちが静かに見守っていた。彼らもまた、二人の間に流れる言葉を超えた強い絆を感じ取っていたのだろう。
雨音は次第に小さくなり、灰色の空の向こうからかすかな光が差し込み始めていた。
腕の中で、漂う雨に濡れた森の香りを深く吸い込んだ。
それはもう、恐怖や本能を呼び起こす匂いではなかった。心を安らげ、すべてを委ねてもいいと思わせる、温かい香りだった。
「……助けに来てくれて、本当にありがとう」
耳元で、低く優しい声で囁いた。
「あなたが来てくれなければ、私はあの泥の中で死んでいた。あなたは私の、二度目の命の恩人だ」
涙で濡れた顔を上げ、小さく微笑んだ。
「占い師が、客を死なせるわけにはいきませんから」
少しだけ強がった言葉に、小さく吹き出し、そしてもう一度、今度は確かな温もりを込めて抱きしめた。
運命は、変えられた。
水盤が示した死の予兆は、勇気と絆によって完全に打ち砕かれたのだ。
泥と血にまみれた戦場の片隅で、二人は初めて、本当の意味で互いの心を通い合わせたのだった。




