第1話 七月、隣の席の声
七月。
蝉の声が、教室の窓から遠慮なく入り込んでくる。
俺の名前は、瀬能淳弥。
身長は百七十センチ。
髪は黒で短め、顔は……フツメン。たぶん。
クラスでモテるタイプではない。
理由は簡単だ。女子と話すのが苦手で、特別な取り柄もない。
そんな俺の隣の席にいるのが、笠井夏羽。
黒縁メガネに、肩にかかる黒髪。
姿勢はいつも少し猫背で、存在感は限りなく薄い。
「……せ、瀬能くん……」
小さな声。
「……ぷ、プリント……見せて……」
ボソボソ。
風が吹いたら消えそうな音量だ。
「……あ、ああ。はい」
俺はプリントを渡す。
「……ありがとう……」
その声だけは、不思議と可愛らしい。
だけど、クラスでは完全に目立たないタイプだ。
友達と騒ぐこともなく、休み時間は一人で本を読んでいる。
俺と同じ、静かなポジション。
◆◆◆◆
放課後。
俺は駅前のカラオケボックスでアルバイトをしている。
「いらっしゃいませー」
冷房の効いた店内。
制服のシャツは、汗で少し背中に張りついていた。
(七月って、こんな暑かったっけ……)
ドリンクを持って、廊下を歩く。
そのときだった。
『――君の声が、世界を照らす』
聞こえてきた声に、足が止まる。
(……え?)
低くて、落ち着いていて、どこか優しい声。
俺のスマホに毎日流れている声。
イケメンバーチャル声優、灰崎龍斗。
(……なんで、ここで?)
個室の前で、俺は固まった。
『大丈夫。君の声は、ちゃんと届いてる』
イヤホン越しではない、生の声。
なのに、違和感がある。
(……近い)
ノックする。
「し、失礼します……ドリンクです」
扉が開いた。
「……あ」
そこにいたのは――
笠井夏羽だった。
制服姿で、マイクを持っている。
モニターには、灰崎龍斗のアバター。
「……え……?」
俺の頭が追いつかない。
「……か、笠井さん……?」
夏羽は、ゆっくりマイクを置いた。
「…………」
沈黙。
「………………」
長い。
「……せ、瀬能くん……」
「……うん」
「……いまの……聞いた……?」
「……聞いた。もしかして、灰崎龍斗……なのか……?」
正直に答えた。
「う、うん、そ、うなの……」
夏羽の顔が、みるみる赤くなる。
「……お、お願い……!」
「……?」
「……このこと……誰にも……言わないで……!」
必死だった。
メガネの奥の目が、震えている。
「……ばれたら……学校……いられなくなる……」
胸が、少し締めつけられた。
「……わかった」
俺は、頷く。
「誰にも言わない。約束する」
「……ほんと……?」
「ああ」
夏羽は、ほっと息をついた。
「……ありがとう……瀬能くん……」
その声は、
いつものボソボソじゃなかった。
少しだけ、
灰崎龍斗に似ていた。
◆◆◆◆
その日の夜。
「兄ちゃん、今日もバイト?」
妹の千雪が、ソファでスマホをいじりながら言う。
「そうだけど」
「……はぁ。兄ちゃん、バイトばっかで、全然女子に興味ないよね〜。
なんでイケメンボイス声優が好きなの?」
「ほっとけ」
俺は天井を見る。
(まさか……)
クラスの隣の席が、
推しの中の人なんて。
◆◆◆◆
翌日。
「……お、おはよう……瀬能くん……」
少しだけ、大きな声。
「……お、おはよう」
目が合って、同時にそらす。
空気が、変だ。
(秘密、知ってるの……俺だけか)
胸の奥が、ざわつく。
「……放課後……」
夏羽が、消えそうな声で言う。
「……時間……ある……?」
「……ある」
「……話……したい……」
俺は、頷いた。
七月。
暑くて、うるさくて、
でも、どこか始まりの匂いがする季節。
隣の席の地味な女子は、
イケメンバーチャル声優の正体だった。
これは、
誰にも言えない秘密から始まる、
ちょっと不思議で、
少しだけ甘い物語だ。




