0.海に立つ女神
カーン、カーン、と音がする。
遠くで響く教会の鐘の音にも似ているが、違う。
ドリルの音はここまでは響かないので、聞こえてくるのは木槌でノミを打っている音だ。トントンカンカンと短く聞こえるときもある。
女神を削る音。
頭上、百五十メートルさき。姿勢も相まって、下から見ると上にいる数人は黒っぽいただの点のようだ。ザイルもあるから、全体は線だが。
薄青に少しピンクの混じった、壁ではないが壁のような巨大なものに、とりついている。
《潮の女神》と名づけられた、塩の塊だ。これを掘るのが、俺たちの仕事。
いまやロストテクノロジーと呼ばれる無線機で、俺は頭上に声をかけた
「ウィーザー、そろそろ時間だ。おりてこい」
間を置かず、クリアな音で返答がある。
『リック……いいところなんで行きたくない、と云ってもいいか?』
「駄目だ。約束だろう。次の仕事の話だっていうからな」
『まだこっちが終わってないのに、すぐに移れるはずないだろ』
そんなのは、あちらさんも承知のうえだろ。この仕事だって、雇い主はおなじだ。
「一か月後だか二か月後だかの予約って話だったが」
『こっちが終わってからにしてほしい。正直』
俺の立っている足場は、海上にある。波があれば揺れるが、揺れを感じないほどには慣れていた。
見上げても、いまの俺の位置からは、女神は薄青やピンクが斑に浮かぶ、白っぽい壁にしか見えない。まっすぐではなく、少し斜めだ。おうとつもある。
落下防止のため、黄色いネットも二か所にぐるりとかかっていた。
「次の仕事がなくなってもいいのか?」
『それは……困る』
だよな。俺も困る。そうなったら、おまんまの食いあげだ。
チーム十名、全員の命が危ういな。
貯えはなくはないが。この仕事は、金も稼げるが、金もかかる。どれか機材が壊れたら、いっきに貯えが減る。
三十代で引退するのがふつうの仕事なので、以降の人生のためにも、たっぷり稼いでいかなきゃいけない。
休暇は必要でも、三か月も期間が空いたら、どうなるか怪しいな。次の話があるなら、できるだけ引き受けておきたい。
幸運の女神には、前髪しかないんだってよ。擦れ違ったあと、過ぎ去ったあとに追いすがろうとしても、無理なわけだ。
女神に逢える話を雇い主が持ってきてくれているんだから、これは聞いておかなきゃ駄目だろ。紹介されるのが幸運の女神かは知らないが。
いまのところ、前髪しかない女神は見たことないな。概念としての女神と、実在する女神とは、違うもんだが。
俺たちに係わりが深いのは、実在する女神のほうだ。
「出かければ、作業中の女神を遠くから眺められるぞ、キャプテン」
女神の全体像は、ちょっと離れないと見えないのだ。
いや、まあ、海の下にどれくらい体が浸かっているのかは調べられないから、全体像と云っても「海の上に出ている部分」に限定されるが。
むろん、仕事をはじめるまえにも姿は見ているが、「作業中」がポイントだ。
「おりてこられないなら、《飛行機》でお迎えにあがりましょうか、キャプテン?」
『……いや、いい。おりる。待っていてくれ、リック』
了解、と返した。
百五十メートルも上にいるのに、ウィーザーがおりてくるのは、十分もかからなかった。たまに女神を蹴って、ザイルを頼りに重力にまかせている。もうちょっと安全を考慮してほしいな、と俺は思った。摩擦でザイルの寿命も短くなるし。
途中のネットも、うまくくぐっている。
「さすがにアイゼンは外せよ。向こうじゃ要らないから」
「わかってる」
赤毛の男は靴から登攀用の爪を外し、気を利かせたキースが持ってきたアイゼンケースに入れた。すごいな、キース。執事みたいだ。
「行ってくる、あとは頼んだ、キース」
「了解。お気をつけて」
キースに俺の使っていた無線機のヘッドセットを渡し、チームを任せ、キャプテンとふたりで《飛行機》に乗る。足場につないであった。三人が乗れるサイズのやつだ。これもロストテクノロジー。使えているが、新たに開発はできない代物。技術よりも、材料がないんだ。困った話だな。材料がないままだと、そのうち、技術も失われる。
いつまで保つかは怪しいが、使わないわけにもいかなかった。できるだけ長持ちしてほしいし、いつか材料も潤沢になってほしいもんだ。
座席に座るから、俺もウィーザーも装備付きのハーネスは外していた。俺は船に置いてきたが、ウィーザーは装着していないだけで、足元に置いている。落とすなよ。
「いい天気でよかったな」
青い空、エメラルドグリーンの海。ロケーションは最高。
しばし海上を走って勢いをつけてから、《飛行機》は宙に浮いた。
いつも思うが、金属の塊がよく浮くよな。翼がついていたって鳥と違って羽搏かないし、信じられん。
こいつは水陸両用とかなんとか。理屈は知らんが、動かせてはいる。飛行機ってのは、ふつうはタイヤがついていて、飛ぶまえに陸上を滑走するものなんだそうだ。少なくとも、《第七災害》と呼ばれる洪水以前には、そうだった。
いまは、そんな飛行機はない。地上にそんなスペースは、とれなさそうだ。
(旅客機が見つかっても、役に立たんしな)
できれば役に立つものを女神には出してほしい。
「風が気持ちいいな」と、後ろの男が云った。そうか? ヘルメットや耳当てをしていても、へたすりゃ痛いが。というか、よくしゃべる気になるな。
本当はまっすぐ島に向かうつもりだったが、「女神が見られる」と云った手前、サービスで横に逸れてやった。燃料の無駄だが、しょうがない。
「お、女神が見えた。やっぱり美人だ。姿がいいな」
仲間たちがとりついている女神。色とりどりのザイルが何本も垂れ下がり、腹から下にはネットがふたつ張られている。この状態の女神を見るのは、俺たちにも稀だった。
「あの女神は多産だぞ。恵みが多い。ありがたいな」
離れると色のこまかさは見えなくなり、女神はたいてい、白の柱、あるいは彫像に見える。かろうじて、あの女神はちょっと青っぽいか。
ウィーザーほど素直に女神を褒める意識は、俺にはない。
あれは、俺たち人類の命運を握るもの。
生活に、なくてはならぬもの。
好意も感謝もあるが、畏れもまた、俺にはあった。




