婚約破棄、そして 〜婚約者から婚約破棄された令嬢の回顧録~
アレクセイはどうして、王家主宰の夜会という時と場所を選んで婚約破棄を宣言したのだろう?
王子と公爵令嬢の婚約は王命であり、王家と公爵家の家同士の契約である。契約を結ぶにしろ破棄するにも、それを行うのは家長たる国王だ。婚約の当事者と言えど、王子に婚約を破棄する権限はない。
国王の了承もなく婚約破棄を宣言することは、厳密に言えば王命違反だ。
王太子教育で王国法を学び成績も優秀だったアレクセイは、充分に理解していたはずだ。
真実の愛の宣言も、不可解だ。
どんな美辞麗句で言い繕っても不貞は不貞だし、堂々と公言しようと、どうして考えたのか。自ら有責カウンターを回し、公爵家への賠償金を増やしに増やす言動である。
そして、断罪。
たった一人の言葉を盲信し、貴族令嬢に罰を与えようとしたのだ。そのような人物を支持する者は、多くない。そのような者が権力を持てば、いつ断罪されるのか分かったものじゃないからだ。
為政者にしてはいけないタイプの人間として、上に立つ者としての資質に欠けると判断されよう。
アレクセイの真意はどこにあったのか。
幼い時からアレクセイの婚約者だったわたしは知っている。彼は我慢強い性格で、感情を抑制することなど容易く出来る。
だから真実の愛に溺れて愚かな行為に走ることなどあり得ないし、他人に唆されてということはもっとあり得ない。
夜会で婚約破棄を宣言した場合の自分の未来など、簡単に予測出来るはずなのだ。
アレクセイが王家主宰の夜会という時と場所で婚約破棄を宣言することに、何か意味があるはずなのだ。
※※※
公爵家を敵に回すことになる婚約の破棄を、国王が了承するとは考え難い。
だけれど王子が衆目の集まるパーティーで婚約破棄を宣言してしまえば、国王もその言葉を無視することは出来ない。
婚約破棄の現場に立ち合った者たちも、王子に婚約を破棄する権限がないことくらい理解している。まさか国王の了承を得ていない婚約破棄とは思うまい。
それに、王族の口から発せられた言葉なのだ、疑うことが不敬というものだろう。
破棄を告げられた相手は尚更である。
婚約破棄という政治的に高度な意味を持つ話が冗談で済むわけもなく、王命として受け入れるしかない。
それに王侯貴族の婚姻は家と家を結び付ける政略を意味するところが大きいのだから、一方的な婚約破棄は、相手の家に泥を塗るのに等しく、お前の家の力は要らないと関係性を断ち切る様なものだ。
政治的な意味で言えば、婚約破棄は王家と公爵家との関係性を捨て去る行為だ。
元々公爵家との婚約は公爵家の後ろ盾を受けるためのもので、アレクセイが王太子、遠くない未来に国王となるために必要なものだった。アレクセイは自らそれを投げ捨てた。
断罪はさらに問題だ。
衆目の前でありもしない罪を並び立て、公爵令嬢を断罪したのだ。公爵家に対する裏切り行為である。報復として公爵家が王家の喉元に剣を突き付けても不思議ではない。
公爵家が王家からの宣戦布告だと解釈すれば、国が割れ内戦が起こり、多数の国民が巻き込まれる事態になっていた。
アレクセイはそういった可能性を考慮しなかったのか?
そんなことはないと、わたしは考える。
幾度となく繰り返した彼との会話。時にはわたしたちが国王と王妃となった先の未来の話もしたことがある。
彼は貿易、経済、福祉、防犯、インフラ、外交と様々な視点で国の行く末を想定し、数多くの政策、施策を研究し、国の舵取りをするための知識や経験を貪欲に求めていた。
公爵家当主である父の領地経営の手腕について問われることもあったし、領地経営に関してわたし自身の考えを尋ねられることもあった。
領地や国の経営に妻が口を挟むことなどありませんよと言えば、アレクセイは『民のうち半数は女性なのだから、女性のあなたの意見も聞きながら国の舵取りができれば、より良い未来を作れると思うのだけれどどう思う?』なんて。
そんなアレクセイがわたしを断罪した場合の国の行く末を想定しなかった訳がない。わたしは彼には裏切られたけど、彼の聡明さと思慮深さに対する信頼は揺らいでいない。
そうであれば。
アレクセイは内乱の危険性をも秤にかけ、それでも選ぶ必要があったと言うことになる。
『真実の愛』が理由であったとは、どうしても思えない。でもやっぱり疑問は解けないままだ。
※※※
視点を変えて考えてもみた。
例えばアニタが何処かの国の間者だったとしたら?
王家と公爵家の間に確執を生めば、国は弱体化する。公爵家の出方次第では、内戦まで起こる。
アニタ一人の命で国を弱体化出来るのだ、何処かの国が間者としてアニタを潜り込ませたという自身の意思可能性は高いかもしれない。
アレクセイのアニタへの執着は異常に見えた。少なくとも貴族子息と令嬢の関係ではなかった。王族の、それも王太子教育が為されている王子の立ち振舞ではなかった。まるで昔話に出てくる夢魔の魅了魔法をかけられたのように、どこに行くにもアニタを連れて歩いていた。
だけどアニタに誑かされたからと言って、アレクセイの聡明さや思慮深さ、人としての性質は変わらないのだから、それだけで愚行に走ったとは思えないのだ。
それならば。
もしアニタから、精神に作用する媚薬が盛られていたとしたら?
精神系の薬は脳に作用し、人の思考力や判断力を奪う。そうして洗脳され、婚約破棄に及んだのかもしれない。
だけどもアレクセイに精神に作用する薬が用いられた可能性は限りなく薄い。アレクセイの身体検査は王家だけでなく、公爵家の医師も同伴し行っている。繰り返しの検査の結果、薬は使われていないと結論付けられた。
アニタが他国の間者かもしれないとの疑いも、徹底した身辺調査の結果、彼女も彼女の家にも他国との繋がりは見つからなかった。
それならば。脅かされ、愚者を演じることを強制されていたという可能性は?
脅しの内容は、王太子の地位や将来を失っても守りたいと思えるもの。そうでなければ脅しに屈する必要がないのだから、当然の条件だ。それでいて、王家と相談出来ないようなもの。
そのような内容の脅しがあるとは思えないし、わたしには思いつかない。結局、いくら考えてもやっぱり答えは分からない。
※※※
あの夜会の光景が、脳裏に焼きついて離れない。
豪奢なシャンデリアの下で、アレクセイは冷ややかにわたしを見下ろしていた。いや──冷ややか、というよりも、どこか悲しげで、遠くを見ているような、そんな目だった。
「私は、公爵令嬢アレクサンドラとの婚約を、破棄する。」
その声は驚くほど静かで、けれど誰よりも鋭く空気を裂いた。
あのとき、怒りよりも先に思ったのは――彼がそんなことをするはずがない、ということだった。
アレクセイは、決して他者を辱めるような性格ではない。
幼い頃から彼を知るわたしには分かっていた。
彼は優しく、まるで天使のような微笑を絶やさず、人を踏みにじることに快楽を覚えるような嗜虐心とは無縁だった。
感情を抑える術を知っていた。
王子としての責務を、誰よりも深く理解していた人だった。
──ならばなぜ?
その問いが、夜会の空気よりも重くわたしを押し潰した。
わたしとアレクセイの婚約は、王家と我が公爵家との政治的な取り決めに過ぎなかった。
愛などという言葉は、契約の文面のどこにも書かれてはいない。
けれど、それでも──
(……愚かだったわね、わたし。)
あのときは疑いもしなかった。
「アニタとは真実の愛なんだ」とアレクセイが言ったとき、わたしはただ「そうですか」としか返せなかった。
心がきちんと反応しなかったのだ。
そう、わたしは──ゆっくりと、けれど確実に、絹の縄で首を絞められるように、信じ込まされていたのだ。
『彼が選ぶのは私で当然だ』と。
少しずつ、会話の頻度は減っていた。目が合うことも減り、彼の口から聞こえる「忙しい」という言葉が、まるで呪文のように耳にこびりついて離れなかった。
その一方で、アレクセイとアニタとの噂だけが増えていった。
けれど、その変化に、わたしは何の危機感も持たなかった。政略結婚とはそういうものだと思っていた。
アニタのような平民上がりの娘を側妃に迎えるのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。
その油断が、滑稽なほど甘かったと、いまなら分かる。
王妃教育で学んだ「傾国の美女」の故事が、頭をよぎる。愛に溺れ、政に失敗し、国を傾かせた王たちの愚行──。
けれどその責任は女にあるのではない。愛に抗えなかった男たちの弱さにこそある。だから、きっと、アニタがアレクセイを狂わせたのだと、わたしは自分を納得させた。
彼の目が曇ったのは、愛に溺れたからだと。
そして、心に固い蓋をした。
わたしはアレクセイ殿下を愛してなどいない――それが公爵家の令嬢として私に与えられた「仮面」だった。
……けれど、わたしは知っていた。
どれほど理屈を並べたところで、わたしの中に渦巻く感情の名は、ひとつしかない。
──。
ああ、思い出す。
剣を振るう彼の横顔。
学者と議論するときの、あの自信に満ちたまなざし。
わたしが発した些細な冗談に、肩を震わせて笑ってくれた、あの夏の日の午後。
彼はわたしの誇りだった。
王子である前に、アレクセイというひとりの青年として、わたしは彼を心から尊敬していた。
──そして、慕っていた。
そのことを、自分でも直視しなかった。
だって、意味のない感情だから。
政治の中で恋を語るなど、ただの愚か者のすること。
わたしは冷静で、分別のある令嬢であり、次代の王妃として教育を受けてきたのだから。
それでも、たとえ過去になってしまったとしても。
アレクセイが、あの夜会でわたしを選ばなかった理由に、彼なりの思惑があったと信じている。
彼がただの恋に溺れて、国家を危うくするような男ではないと、知っている。
あのパーティーという“場”を選び、衆目の前で断罪を演じたのは──何かを守るためだったのではないか。
それが何かは、まだ分からない。
分かる日が来るとも限らない。
けれど、わたしは知っている。
あれはただの「別れ」ではなかった。
あれは彼からわたしへの──
置き手紙のようなものだったのだと。
沈黙の中に込められた「さようなら」を、わたしはようやく受け入れることができる。
そして、ようやく思える。
(……さよなら。あなたを慕っていたわたしー。)
評価ありがとうございます!
婚約破棄を宣言する王太子側の物語
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