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009 G

 この部屋は、ピンクと黒で彩られた女の子の部屋である。慣れないにおいがより強く、はっきりと鼻腔をつつく。全体的に温かみがあり、体を凍らせた遭難者の体温も平常に戻る。


 ある意味魔境の部屋にも、空気を読まずに出現するブツ。どこから侵入したかは不明で、気が付くと増殖する嫌われ者。


 部屋一帯を恐怖に陥れる奴の名は、ゴキブリであった。オブラートに包むため、ここでは仮名をGとしよう。


「……そうだ……、新聞紙……!」


 錯乱して今朝の新聞紙を手に取った彩を、危うく制止させた。丸まった新聞紙が、あと一押しでGの体を捉えるところだった。


「今日ので潰してどうするんだよ。……それに、潰したら体液が……」


 番組表が憎むべきGで読めなくなるのも心外なのだが、それ以上のデメリットを孕む。ドライアイスを額に当てて冷静さを取り戻せば、すぐに真の恐怖が見えてくる。


 Gの破片が、そこら中に飛び散るのだ。フローリングやカーペットにはもちろん、普段彼女が横たわるであろうベッドにも。洗濯で天日干しにしても、体液がかかった事実を記憶から拭い去るのは不可能である。


 正対して構えた新聞紙を、彩は後ろに放り投げた。これはこれで、新聞紙が可愛そうだ。


 殺虫剤を吹きかけるのが、この状況でのベストアンサーになる。トイレ用洗剤でも生理食塩水でも被せ、息の根を止めてしまえばいいのだから。


 陽介がドアノブを回転させると、待ったの声がかかった。他の誰でもない、Gの絶滅を願う会会長の彩だった。


「……開けたら……ゴキブリが……」


 ドアを開けて逃げられるのと、このままGと共生生活を強いられるのと、どちらを望んでいるのか。出かかった問いかけを、陽介は飲み込んだ。火に油を注いで、強硬な態度になってもらっては困る。


 奴は、特有のカサカサ踊りで勉強机から彩のベッドへと移動している。背中に付く羽は役立たずのようで、羽ばたいて掛け布団に着地する様子は無い。飛び回られると厄介な分、ひとまず助かった。


 ……しっかし、ゴキブリをこのままにはしておけないし……。


 暗闇の迷路に誘い込まれ、袋小路に入ってしまった。


 殺虫剤を取りに行こうとすると、気が動転してエラーを吐き出す彩が止めにかかる。デメリットを伝えたばかりの実力行使は、もう彼女の選択肢からは消えている。二股に分かれた道路は、どちらも通行止めに変化していた。


 幸いにも、この部屋には窓が付けられている。彩が外気で液体になる危険性もあるが、背に腹は代えられない。


 窓の鍵を解除し、ガラスを開け放った。待ってましたと、窓に詰まっていた風が中に吹き付ける。


 彩は、外殻を形成してうずくまってしまった。外から漂う熱気に、か弱い彼女の皮膚はやられてしまったようだ。赤ペンを片手に、球体となって一様に震えている。


 肝心のGはと言うと、外界の風を感じつつも歩を止めていなかった。茶色の物体は、着実にピンク薫る彩のベッドへと進軍していく。


 何としてでも、この単騎を留めなければならない。近所に住む女の子を救う、緊急ミッションが発動した。『Gを倒せ!』と、単純明快で難易度の高い試練だ。


 ……いっそのこと、手でつまんで捨てるか……。


 一部の昆虫好きは置いておいて、Gが好きな偏った人は少数派である。心理的にも、衛生的にも、素手で彼らと交信することは適切でない。


 それでも、禁忌を破らなければならない時もある。数学の発展のためには、無いとされていた無理数を誕生させねばならなかった。


 今こそ、その時。衛生観念を捨て、邪魔者の排除に全力を注ぐ時だ。


 触覚を刺激しないよう、緩慢な動作で手を近づけていく陽介。ベッド横で丸くなった彩を庇うようにして、考えられる限り一番よろしくない事態を避ける。


 刹那、ゴキブリが飛び上がった。手動ゴキブリ獲りを華麗なステップでいなし、羽をバタつかせて肩を越えて行った。ベッドのにおいに惹かれた変態ゴキブリでは無かった。


「彩、顔をあげるなよ……!」


 陽介の背後には、気流とGから逃れるべく殻を形成した彩がいる。急造品の外殻は完璧でなく、ボールペンの吹き矢が貫通してしまう強度だ。天敵の襲来報知は、防護壁を突破するだろう。


 ゴキブリの行方を追って、陽介は身を反転させた。無人のベッドには目もくれず、一目散に年下の不登校女子高生へと飛び込んでいくGがいた。


 叫び声に反応して、うずくまっていた彩が頭をあげようとした。黒渦は小刻みに振動していて、瞳だけでも動揺が見て取れる。顔に表情が現れるとは、無表情でも成立するのだ。


 ……上げるな!


 陽介のテレパシーが弾丸となって彩に届く、コンマ数秒前。彼女の目は、真っすぐ向かってくる一体の茶色戦闘機を捉えた。いや、捉えてしまった。


 声にならない口パクを、彩は繰り返した。巨大隕石が地球に衝突する最期の日と錯覚する、直近で見たことのない震えが生じていた。


 ちょこんと、虫大嫌い女子の脳天にGは降り立った。点Pと結んだ線の軌跡は計算で求めるには複雑すぎて、高校で理解することはできなさそうだ。


 そして、次の瞬間。


「わぁぁぁぁぁぁぁ!」


 闇夜をつんざく金切声が、久慈宅に轟いた。一階の住人は、二階でコンクリートが切断されていると思ったことだろう。


 頭に張り付いたゴキブリと一緒くたになって、陽介の胸に彩が飛び込んできた。最近買った服なのだが、クリーニングに出す運命が確定した。


 グチャ。生を受けた人間として耳に入れたくない音が、胸からした。陽介と彩で板挟みになった茶色生物の、余りにもあっけない最期だったのはしばらく後で判明したお話である。

※毎日連載です。内部進行完結済みです。


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