エピローグ 動き出した未来
なんでもない、そこにある日常。違和感なく過ぎ去っていく会話に、特色の無い話題。平穏な時間は、いつも周りを覆い隠しているように見える。
世界は、目まぐるしく変動している。国際情勢のニュースに耳を傾けて他人事の気分でいる場合ではない。昨日と一切変わっていないように思えても、内部は変異しているかもしれないのだ。
陽介の放課後は、空っぽの下駄箱から。友達の少なさを自虐ネタで武器とする陽介に、同一方向で帰る友人はいない。無味無臭の授業を受け、肩を潰そうと企む課題を持ち帰り、淡々と解く。刺激のない毎日だ、
今日は、一味違った。
……早く、出てこないかなぁ……。
学年が違うと、階層も異なる。一年生の教室は、最下段の一階に存在する。最上位の生徒が階段をわざわざ上らなくてはいけない構造に、多少なりとも違和感を抱くのは陽介だけなのだろうか。
流石に、教室扉の前でタムロはできない。変質者と見間違われ、彩と再会できるのが面会室になってしまう。校門が開けっ放しになっている以上、誤認逮捕のリスクは常に含まれるのだ。
昇降口の簀の子を往復運動していると、たくさんの絡んだことも無い同級生に素通りされる。巨大な石ころが立っていると見なされているのは、新鮮でちょっぴり物悲しい。
「……何やってるんだよ、陽介。……ははーん、恋人が一個下に出来たんだな?」
「……後で放火されても文句は言わせないぞ?」
珍しい待ち客状態をからかわれもしたが、軽くあしらっておけば追及してこない。表面の粗さがしだけをして、即興記者は自らの持ち場へと帰っていく。手の届かないところにあるお宝など取ろうともしない。『費用対効果』に逃げている。
昨日、近所付き合いの長い少女に呼び出された。事前の取り決めであるので、拒否権や人権の適応外である。
基本的には高校へ行くための準備だったのだが、一晩という時間は長すぎた。結論として、泊まらせてもらうことになった。彼女は満面の笑みで追加の敷布団を引っ張り出していたので、これが狙いだったのだろう。闇にまみれていても、策士は策士のままだった。
余計な詮索をしても、スキャンダル記事は出版されないようになっている。熱愛は『絆が深い』と解釈でき、女子と一夜を共にしたからと憶測を並べられても証拠が無い。寝る部屋は、きちんと別々であった。
彼女の家にお邪魔している間、何事にも集中できなかった。時程をつい十秒前に確認したばかりで間違えたり、彩に今までのお返しをされるくらいの凡ミス。高校生の年で階段を踏みそこなうとは思わなかった。
……不思議な感情が、また沸き上がってきて……。
彩を外に連れ出した日は、アドレナリンが体中を循環していたのだろう。彼女が怖がって胸に吸い付いてきても、胸苦しさは覚えなかった。頭を撫でる事に羞恥心も抱かなかった。
呼吸器系の病院を受診して、治してもらうのが先か。体調が万全でなくては、無茶ぶりに体がギブアップしてしまう。
しかしながら、彩はスタートラインに立ってすぐである。制限時間付きのマラソンで、補助を借りてでも完走しなければならない。健康で一年を過ごすことの難易度は、星が複数個つく。
今朝の登校も、彼女は平常運転していた。瞳の色は相変わらずで、墨汁をまき散らした底の見えない闇があった。多量の水で洗い流しても、尚澄まなかったのである。
『……頑張って……みる……』
彩の勇気が、一番の頼り。固定概念とトラウマを打ち砕くのは、自身の精神力だ。治療薬の投与やカウンセリングで底上げを出来ても、最終的にラスボスを倒すのは当事者。脇役がダンジョンをクリアするRPGなど存在しない。
もう、何度簀子を往復しただろうか。木目の形状が、脳に焼き付いてきた。あみだくじの横棒を引きたくなる形をしている。景品は用意できない。
壁の時計が告げる一秒が、引き延ばされている。陽介の周辺だけ時空が歪み、タイムスリップしているようだ。天空から、高校を客観視しているような……。同級生が横をぶつかって通っていく度に、現実に引き戻される。
これなら、砂時計の方がまだ救いがある。上部の砂の量は確実に減っていき、全て尽きればチャイムの時間。大雑把でミリ単位の調整ができない時計は、不器用な少年そのものだ。
……彩、大丈夫かな……。
荒波にもみくちゃにされ、萎れてしまってはいないだろうか。植物が海水で育たないのは百も承知の上で、自力でろ過するのを期待した陽介は愚か者だったのだろうか。
人間は、行きたくもなく義務教育でもない高校へ行かされる。居心地がいい淡水の自宅を離れて、住みづらい海水の学校へと移動するのだ。友達を百人作れるコミュニケーションお化けは例外である。
人生を俯瞰してみると、わざと生活を苦しくする選択の連続である。真綿で首を締めるのが大好きな種族だと捉えられてもおかしくない。
それでも、海水にダイブする。泳げるようになるまで、海へと飛び込む。泳法は、実践せずには手に入れられない。
陽介がここで拳を貫こうが、今までの行いを後悔しようが、賽は投げられた。出目を操作するヤクザまがいの不正は出来ない。
教室内から、元気のいい挨拶が零れた。次いで、部活魂に火をつけた男子軍団が壁に穴をあける勢いで飛び出してきた。学校を傷つけた場合は、弁償してもらえるのだろうか。
二年生で一人残っている陽介には目もくれず、一年生は一目散へ下駄箱へと寄っていく。冴えない男子に構っているヒマは無いということだ。
教室から出てくる生徒を抜かりなく確認していく。髪が伸び放題でジャングルのメガネ、いかにも女王様の風格をした女子、ゲームをこっそり手に持っている校則違反組……。
……いた!
体格は小さめで、見慣れた顔の少女。近所のよしみで絆を深めてきた、妹分。まごうこと無き彩である。
陽介は、目が飛び出そうになった。
彩が、単独ではなく他の女子と話している。遠慮気味の目はしておらず、丸く緩んだ暖かい目で。会話の内容までは伝わってこないが、窮屈そうには見えない。
昇降口が近づいてくると、彩は話を切り上げた。陽介目掛けて、一目散に駆け寄ってくる。
「……おまたせ! ……遅かった……かな……?」
「カップラーメンが山盛りになるくらいには長かったかな」
給湯室が無いのが悔やまれる。即席で食事を済ませようとする今の時代こそ、お湯の捕球は死活問題だと言うのに。
元の生活をようやく取り戻した彩。みずみずしくて新鮮で、出荷しても高値が付きそうだ。余韻がまだ残っているのか、小刻みに跳ねている。
「クラス、どうだった? 悪い奴なんて、いなかっただろ?」
「……楽しい……。……みんな、……普通に……」
彼女の目が、冗談抜きで輝いている。光が底で反射して、一層の眩しさを創造している。スポットライトに当たっているかのようだ。
……これは……、大丈夫そうだな……。
彩の瞳は、雨雲がすっかり流れていた。少なくとも、闇が空を覆いつくしてはいない。天気予報はまだ不安定なのだろうが、今のところ晴れている。
か弱い少女というイメージ図は、陽介が作り出した幻想に過ぎなかった。手をかざしただけで崩れ落ちる女子など、アニメや漫画の演出でしかない。
彩には、踏み出すきっかけが無かった。準備は満タンでも、起爆剤が無いのでは爆発できない。外側にしか鍵穴の無い部屋で、彼女は脱出の糸口を掴めずにいた。
陽介は、その手助けをしただけ。自らの道を切り拓いていくのは、彩自身の手である。刀でも鍬でもよし、手に入れた土地を耕す。土地が豊かになれば、食料が手に入る。それを元手に、長旅へと出発するのだ。
「……明日も、……一緒に……?」
「あったりまえ。放っておけるわけないだろ」
彩の久しぶりに澄んだ瞳から、目が離せない。凝視するのに恥じらいを生じても、逸らしてはいけない意識が勝った。今はしっかり見ておこう、彼女の本来の姿を。
『可愛い』という気持ちが、絶え間なく心に供給される。長年の信頼構築の過程で、何もかも分かっている少女。客観視のクソ真面目なフィルタを外した時、熱い濁流が胸の中でせめぎ合った。
心臓の鼓動が、鼓膜のすぐ横で響いている。うるさくて、耳栓をしてしまいたい。
……彩……。
何も、言葉にならなかった。ボロボロに風化した言の葉の源泉が、無残にも崖を落下していった。
彼女の残された猶予期間は、後五日。デッドラインを越えると、もうどうなるか分からない。留年と隣り合わせの場所に、彩は立っている。現状は安定しているが、どんな災難が待ち受けているかは未知数だ。
彩と陽介、二人で一つ。一丸となって、襲い掛かる隕石を撃墜していく。力尽きるその日まで、がむしゃらに突っ走るのみだ。
口数の少ない近所付き合いの少女は、無垢な笑みを浮かべている。
……守っていきたいな、この笑顔を……。
陽介と彩の物語は、まだまだ続いていく。
ようやく、スタートラインに立った彩と陽介。『彩は無事に一年間を過ごせるのだろうか』という疑問が浮かんだかとは思いますが、物語の幕をここで一旦降ろさせていただきます。
お読みくださった全ての方々、本当にありがとうございました!
Thank you for reading!
2023/12/31 true177
※完結の日が大晦日になったのは偶然です。




