027 正念場
靴底が地面を蹴る足音が、無情にも空気へと抜けていく。髪が降臨して願いを叶えてくれる……などというイベントは、設定されていない。プログラマーは融通を利かせてくれなかった。
効率を極めた格闘ゲームの余韻が、筋肉にまだ残っている。彩に引き戻された後、コマンドを発掘しようと親指がコントローラーを駆け巡った影響で、腱が痛む。
……やらなきゃいけない日が、来たんだな……。
一番近い場所に入り込める女の子の家は、目の前だ。呼び出し鈴を鳴らせば、渡ってきた橋が切り落とされる。助走をつけても、深く大きい溝は飛び越えられない。
時間経過を服用して薄まったとは言え、トラウマは根性で征服するのは手ごわい存在だ。外部から介入できるのは一部で、病原体は患者本人が倒すしかない。免疫機能は増強させられても、精神の安定はどうにもならない。少なくとも、一般人には。
それも、あと一週間で完結は不可能。通院生活の中で、投薬やカウンセリングを経て社会復帰するという内容だ。悪化のリスクを削ぐには、デコボコ道の高速道路を下りて下道を進むより無いのである。
彩に許された期間は、一週間と少し。一年間を耐え忍ぶための、最後の資金である。この貯金が尽きた先には、単位不足で留年の未来が待っている。
留年は、絶対悪なのか。彩を無理やり外へ引っ張り出して、素人の陽介に施しが出来る代物なのか。噴き上がる疑念が、両肩に重石としてのしかかる。
友人関係が多少なりとも構築されている陽介ならともかく、彩は繋がりが皆無だ。学年が一年スライドしたところで、彼女の環境に差は生まれないかもしれない。
……一年後になると、もう手伝えなくなる……。
両端に何も載っていない天秤は、釣り合って静止する。物を量る器具としては不本意だろうが、この状態で平穏が保たれる。
高校へ独り立ちするようになった未来の彩は、空の天秤そのもの。些細なトラブルを受けただけで、一方に心が傾く。陽介を過保護だと思うのなら、群衆の中に彼女を放置してみればいい。考えを改めざるを得なくなるだろう。
陽介の補助は、彩の意思決定を蔑むものになってはいけない。彼女に危害が及ばないちょっかいに、癇癪を起こして出ていくのは擬似兄として失格だ。
来年となると、陽介は受験シーズン。高校受験とは格が違う。自らの課題をこなすことに時間を取られ、彩に目をかけてやれなくなる。
拭えない懸念点は、まだある。彩をかつて虐めていた一学年下の年代が、高校に入学することになるのだ。折角完治しても狩られてしまうのでは意味がない。
「……エゴなのは、分かってるんだよ……」
一年を犠牲にしてでも、病院に連れていく。確実な解決の糸口を求めるのなら、これしかない。彩も、本来の自分を取り戻せる。
果たして、そうだろうか。『確実』と便宜上の言葉を付けはしたが、それは客観的なデータに基づいての話。最も親しい陽介からの視点は届いていない。
彼女の瞳の色は、時が経過するにつれて闇を増している。虹彩も、白目も、子供がペンキで乱雑に塗りつぶしたような黒色なのだ。
小さい時から肌身離さず付き添ってきた彩が、かつては外で腕を奮わせていた彼女が、もぬけの殻になってほしくない。願望が見え隠れして、批判を食らっても仕方のない意見である。
……もちろん、彩が拒否したらやめるけど。
彩を邪の抜け道へ誘おうとしていないかが気になって、インターホンが押せない。標識を回転させ、一方通行に変貌させる詐欺を行っている気分だ。
彼女にとっての幸せは、留年を何が何でも回避することなのか。辛抱強くリハビリをして、やり直す方策が正解ではないのか。解の無い数式に、脳細胞が疲弊してへばりつく。
昨日、彩に抱きしめられた。何気ない絆表現の一個だったに違いないが、陽介の垂みに割って入られた。スイッチがオフになっていたところを、急襲されたのだ。
意識が飛びそうになって、内臓が軒並み飛び上がった。どうしようもない息苦しさに縛られて、思考が停止してしまった。
あの感情は、何だったのだろう。予想は封筒の中にしまってあるが、開封するのは明日以降にしておくことにする。雑念は、正常な判断を狂わせるだけだ。
唾を飲み込んで、呼び出しボタンに指をかけた。普段は気にかからない行動でも、罪悪感が付きまとう。警察に通報しても逮捕されない、幻想のストーカーである。
「……今日、だよね……」
彩の開口一番は、鉄芯が含まれていた。インターホンで応答するのではなく、玄関から直接身を乗り出したのは今日が初めてだ。
よれて隙間のある普段着ではなく、フード付きのパーカー。学校指定で渋々買わされた白靴を履いていて、外出準備は完璧だった。
扉を開けはしているが、玄関のタイルから足を出そうとはしていない。安全地帯を抜け出せない、人の迷惑な心理である。
……彩を連れ出して、悩みを全部吐き出させたいな……。
フラッシュバックや回避行動が、今日一日で完治すると目論むのは、更衣室の性別を間違える能天気くらいだ。精神の負担は、すぐ解消されやしない。
高校への登校が可能になるまで緩和させる。今日の目標は、そこにある。彩に心を全て暴露してもらい、沈殿した成分を消去するのだ。
家の中でも出来そう、と思うのはもっともな思考を持つ人間。理想と現実は似て非なるものである、残念なことに。
「本当に、いいのか……? 無理してるなら……」
「無理してる!」
彩史上一番の、大声だった。これでもかと口を大きく動かし、身体を唸らせた。小ぶりな体つきで、よく牙の威力を出せたものだ。
地球中に響き渡った叫びで、陽介は金縛りにあった。迎えに行こうとしても、脚が前に進むことを拒否する。
「……無理……、してる。でも……、そうしたい……」
すぐに視線を落とし、小さく呟いた彩。一撃の気迫は萎えて、通常走行に戻った。
彼女が持ち上げているバーベルは、骨折を覚悟するものだったはずだ。気を抜けば、頭上に落下するのは必至だったのだから。
外気に触れただけで、蕁麻疹が発症するほどのアレルギー。最悪の時期は脱しているが、それでも外出という行為は心労が大きい。
大丈夫なはずがなかった。クッションを敷こうとした配慮は、足がからまって点灯する惨事を引き起こすところだったのだ。
……無理、してるよな……。
準備満タンで玄関まで来てくれたのは、ダイヤモンドで叩いても割れない心を手に入れたから。ワニの潜むアマゾンを潜り抜け、瀕死の体でたどり着いた戦利品だ。
彩は、体を壊してでも陽介についていくつもりだ。精神を失っても、イジメっ子に遭遇しても、手を離さない。
「……そこまで言うなら、その通りにするぞ……」
硬直していた筋肉が、ようやく脳の命令を受け入れた。彩の手を取り、道路へと一歩踏み出させた。
彼女はフードを深くかぶり、目を隠した。視界はゼロで、道案内が陽介の手にゆだねられることになる。
「いくぞ、彩」
「……うん……」
彩の返事は、弱々しかった。腕は冷凍庫に保管したアイスになり、丸太を叩きつければ丸太の方が真っ二つだ。自身のテリトリーから離脱する耐性は、全く付いていないようだ。
彼女は、一年にも及ぶ迫害を受けてきた。親しみづらいという個人的な捉え方の差異から始まり、友達の消失。果てには、組織ぐるみの嫌がらせ。あの手この手で、たんこぶを切除しようとした。
歴史を、繰り返してはならない。これは、陽介の贖罪である。
彩を胸中に押し込んだ状態で、陽介は高校の通学路を歩き始めた。
※毎日連載です。内部進行完結済みです。
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