夜空に星はなく、ただ狂気は走るのみ。
一瞬だった。容器からこぼれた柔らかい中身が赤い液体とともに床にぶちまけられた。液体から立ちのぼる湯気と、独特な臭いがひとりの若い青年――名前をケンゴ・グレッグソンという――の鼻孔を通じて脳を震わせた。
「何やってんだ馬鹿野郎!」
厨房に響き渡った怒声に、グレッグソンはびくりと身をふるわせた。彼の目の前の床には、たった今手をすべらせて床にぶちまけてしまった激辛担々麺の残骸が広がっている。陶器のどんぶりは粉々に砕けており、床のタイルの溝にそって、真っ赤なスープが今もじわじわと範囲を広げている。
「作り直しじゃねぇか!」再びの怒声があって、グレッグソンの頭に固いものがぶつかる痛みがあった。見ると、彼のすぐ背後で店主のメイスンが片手に大きなおたまを持って怒りをあらわにしている。グレッグソンは「す、すいません!」と謝りながら掃除用具の入ったバケツを厨房のテーブルの下から引っ張り出そうとする。
「なにやってんだ! そんなことより他の注文をさっさともってけ!」三たび、メイスンの怒声が響く。グレッグソンはバケツから手を離し、テーブルの上に用意されたラーメンを対応する伝票がのったお盆に移動させる。
「今度は落とすなよ、バカが!」メイスンの言葉を背中にうけながら、グレッグソンは厨房からホールに出る。ラーメン屋の店内はこじんまりとしていて薄汚く、4つのテーブル席はすべて埋まっていた。
「お待たせいたしましたぁ……」
座っている客の目の前にラーメンを置く。そのとき、客の男が鋭い目でグレッグソンを睨んだ。
「兄ちゃんよぉ、さっきの大声は何だい」男はすごんだ。大柄な男は両方の袖を肩までまくっていて、その太い両腕には頑丈そうな金属製のインプラントが埋め込まれている。素人目にもわかる違法な戦闘用のものだ。それだけで、男がサイボーグ化したアウトロー――『サイバーパンク』のひとりであることは明らかだった。
グレッグソンは返答できなかった。彼の視線の恐ろしさに足がすくみ、声が出なかった。手がぶるぶると震えだし、血の気が引いているのがはっきりとわかった。
「厨房からあんなでけぇ声出されちまったら、おっそろしくておちおちメシも食えねぇよなぁ?」男がにやにやとグレッグソンを見上げる。
「あ、あの……」
「店長出せよ、店長」
「い、いえ、その」
「聞こえねぇぞコラッ!」おもむろに男がテーブルにあった水のコップをひっつかんで、グレッグソンの顔めがけて中身をぶちまけた。グレッグソンの顔面が水にまみれる。きつい消毒薬の臭いがした。
「す、すいませ――」グレッグソンが言い終えるより先に「申し訳ありませんお客様!」と言いながら、メイスンが厨房から飛び出してきた。彼はグレッグソンの頭をわしづかみにし、無理やり下げさせる。
「たいへん失礼いたしました! このお代は結構でございますので、どうか穏便にお願いいたします!」
「話がはえぇな。あんた、長生きするぜ」サイバーパンクの男は満足そうにうなずくと、用済みとでもいわんばかりに「さっさと失せろ」のジェスチャーをした。
「ありがとうございます!」メイスンがそう言いながらグレッグソンを無理やり厨房にひっこめる。彼は言った。
「このグズ! これで何度目だッ!?」ぴしゃりと音がした。メイスンがグレッグソンの頬をはたいたのだ。
「すいませんメイスンさん」グレッグソンは頭をさげた。
メイスンは声をひそめる。「いいか、何度も何度も何度も何度も言ってるだろ!? 『サイバーパンク』には逆らうな! この街の警察は人でも死ななきゃ通報をうけても知らんふりだ。ヤツが店の中で暴れたらどうなる?」
「すいません……」言いながら、グレッグソンは奥歯のところにかすかに血の味がするのを感じた。
「今回もおまえの給料から引いとくからな! わかったら作り直したやつをテーブルにもってけ! 今度はこぼすんじゃないぞ」メイスンはそう吐きすてて、次の注文の料理を作るために寸胴なべのところへ戻っていく。グレッグソンは自分の服の袖でいちど顔面を拭くと、作り直された激辛担々麵のどんぶりをお盆に移した。慎重に持ち上げる。
つよい刺激臭が鼻孔と目にささる。浮かんだ涙が身体の反射行動なのか、自分の胸からあふれたものなのか、今のグレッグソンにはわからない――直後だった、さっき床にこぼした汁に足をすべらせて、激辛担々麵が再び宙を舞ったのは。
退勤時間を迎えたグレッグソンは、交代のアルバイトと入れ替わりでバックヤードに引っ込んだ。途中に勝手口のドアがある幅の狭い廊下を通り抜けると、ロッカールームにたどり着く。狭苦しくて換気の悪い小部屋には、アルバイトが自分の荷物を保管する簡単なロッカーが二つ並んでいる。片方がグレッグソンのものだった。パスコードを入力してドアを開ける。
中にはグレッグソンが私物を入れているリュックと、ナイロン製のギターケースがおさまっていた。グレッグソンはしばらく突っ立ったまま、ぼうっとそれらを眺めていたが、ふと周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、リュックを引っ張りだして、中からあるものをとりだした。
拳銃だった。ひどく古めかしいデザインの、しかし未だに一部の軍隊などでは現役な、.45口径の弾丸を使用するものだ。弾丸はきっちりと弾倉にいっぱい装填されていた。スライドの側面には『K・G』のイニシャルが刻まれている――『ケンタロウ・グレッグソン』で、ケンゴ・グレッグソンの父の名前だった。
グレッグソンは、これでメイスンの――あの暴力的で不快なクズの――頭を撃ちぬいたらどれだけすっきりするだろうと考えた。
銃は父の形見だった。グレッグソンの父はごく普通の工場労働者だったが、射撃場で銃を撃つのが趣味で、この銃はそういったときによく使っていたものだ。グレッグソンが荒野にある小さな宿場町を出てこの『都市』に移り住むという話になったとき、母――ケイト・グレッグソン――が護身用にと持たせてくれたのだ。ケンゴはその通りに、常に肌身離さず持ち歩いていた。
ちりちりと胸の内に黒い炎がくすぶっているのを感じながら、それでもグレッグソンは考える。
(――でもあんなクズにも、きっと悲しむ人がいるんだろう……)グレッグソンは父が死んだときのことを思い出していた。
冬の夕方、自分の部屋で端末を叩きながら、オンラインゲームで知り合った友達とバーチャル空間で談笑していると、視界の端にメッセージの通知が浮かんだ。それは警察からの通知で、ただ件名に『ケンタロウ・グレッグソンさん死亡のお知らせ』とあり、本文には遺体の引き取りと死亡に関連する手続きをするようにとの簡単な案内があっただけだった。それがすべてだった。
その日から父は家に帰ってこなくなり、母だけが唯一の家族となった。しばらくは現実味がまるでなかった。どこか頭の奥底で夢を見ているような感覚があったことを覚えている。そして父の葬儀が終わったある日、母がひとり自分の部屋で泣いていたことも。
(――どんな人にも、少なくとも両親はいる……あんな風に悲しむ人がいるはずなんだ)
ふと、自分の顔面に水をぶっかけたサイバーパンクの男のことを思い出す。
(彼のような人間にも、悲しむ人がいるのだろうか?)そんな考えがよぎったが、それよりも顔面にかかった水のぬるさと臭いが先に思い出されて、腹の中で怒りがかぁっとこみ上げるのを感じた。
グレッグソンは深呼吸をした。どんなに腹の立つことがあっても、数回深呼吸するあいだにたいていは気分が落ち着くのだった。グレッグソンは拳銃をロッカーに戻すと、リュックをちゃんと背負い、またギターケースもひっぱりだして、片方の肩にむりやり背負った。
店を出ると、夜だった。しかしまったく暗くない。この『都市』の建物は何もかもがギラギラとした色とりどりの照明に飾られていて、真夜中も昼間もたいして変わらないのだ。暴走を続ける資本主義が無数の無遠慮なネオン管の商業看板になって、通りを歩く人々を下品に照らしている。振り返ると、今しがた出てきたばかりのラーメン屋の看板もそれらの例にもれず、ピンクとブルーのネオンでできた大きな看板を掲げている。点灯と消灯の切り替えで女性がラーメンをすするちょっとしたアニメーションが表現されているが、どう見てもフェラチオの暗喩だ。グレッグソンはこの店構えが全然好きじゃなかった。
「……くそったれ……何もかも気持ち悪い……」グレッグソンは毒づいた。市民IDが発行されていない人間でも雇ってくれるところが見つかれば即辞めてやるという、何度目かわからない決意を固めた。1年前に役所で申請した市民IDは発行の順番待ちで、処理が完了するまでは少なくともあと半年はかかるはずだった。
公共機関は何もかもが破綻しかけていた。警察は殺人以上の重大犯罪以外は捜査せず、病院の診察には賄賂が必要で、ゴミは通りにあふれて悪臭に満ちている。それでもこの街に人が集まるのは、『都市』の中心に堂々と聳え、すべての人間を高みから見下ろす巨大なビルの持ち主――『企業』が多くの雇用を生み出しているからだ。この『都市』に住む人間は、赤ん坊から老人まで、すべて『企業』の製品を買い、『企業』の工場で働き、『企業』のために人生を使うのだ。当然、経済的格差はとどまるところを知らない。
グレッグソンは通りを歩く。彼が歩いているのはアジア系の人間が多く住む、あまり豊かでない地区だった。他人とのすれちがいざまに聞こえるのは多くが中国語か韓国語で、グレッグソンの視覚インプラントには常に彼らの話す言葉の自動翻訳結果が表示されて鬱陶しい。派手な色づかいの塗装がされている建物の外壁は多くがしかし薄汚れ、頭上を横切る無数の電線は、ときおり電柱の上で奇怪な黒い塊となっている。辻にはときどき娼婦のほかに顔面にインプラントを施した物騒な雰囲気の男たちが立っている。彼らも『サイバーパンク』で、このあたりを『自治』している中国系のギャングたちだ。目を合わせたらどんな因縁をつけられるかわかったものではないから、グレッグソンは肩をすくめ、視線を落として歩くのがクセになっていた。
少し歩くと、やがて広い公園に出た。市民の憩いのためにと作られた公園は、一部がホームレスたちの住処となり果てているが、しばしば警察による『清掃活動』が行われるので、まだわずかに本来の機能を保っていた。またこの公園はいまの地区から隣のやや栄えている地区へ歩いていくのに便利な位置にあるから人通りもそこそこ多く、治安らしきものも保たれているようだった。
グレッグソンは円形の広場に出た。中央の噴水は枯れているものの、円周に沿って配置されているベンチには休憩をとっている人や談笑する若者なども見られる。グレッグソンはすみっこに陣取ると、リュックからとりだしたものを地面に並べていく。
空き缶と小型のアンプ、ポータブル電源、それに小型の折り畳み椅子だ。最後にエレキギターをケースから取り出して、セッティングとチューニングを終えると、軽い緊張を自覚しながら、ピックで弦をはじく。心が弾む音がして、グレッグソンの頬が緩んだ。ほかに用事がないとき、グレッグソンはいつもこうして過ごしていた。
最初の一曲は指ならしに簡単な、誰でも知っている曲を演奏する。よくやるのはビートルズだ。それからやや複雑でメジャーな曲を演奏する。最近のお気に入りは、2100年代を代表するロックバンドの曲だ。3曲目にはとうとう、今最もアツいアーティストの曲を演奏する――すなわち『スパルタクス』だ!
さすがに今最も勢いのあるロックバンドの曲だけあって、足をとめる通行人も出てくる。『スパルタクス』の複雑かつ激しいメロディはエネルギーにあふれていて、体制や貧困、権力による抑圧に対する怒りと不満がとてもつよく感じられる。そのためこの『都市』の若者はみんな『スパルタクス』が好きだった。グレッグソンもその一人だった。
ギターをかきならし、声を張り上げて歌をうたっているときだけは、グレッグソンは自分は自由だと感じられた。しがらみだらけのこの世界で唯一できる自己主張だと確信していた。だからグレッグソンはわざわざ地元の宿場町からこの『都市』に移り住んできたのだ。いま演奏している『スパルタクス』のリーダー『スティーブン・ザ・スリーアームズ』のようなロックスターになるのがグレッグソンの夢だった。
最後の一音を演奏し終え、グレッグソンは額の汗をぬぐう。
「ありがとうございます!」グレッグソンは自分の前に足を止めてくれた数人に頭を下げた。
「『スパルタクス』は最高! スリーアームズこそ真の反逆者だ!!」彼が腕を頭上に突き上げると、見物していた若者たちの何人かが応えてくれた。グレッグソンはうれしくなる。このままの勢いに乗ろうと思った。
「よし! じゃあ次はオリジナルだ! 聴いてくれ!」
グレッグソンは再びギターをかき鳴らす。今度の曲は誰のものでもない、完全なオリジナル曲だ。メロディには『スパルタクス』のような激しい怒りをこめ、歌詞には切ない苦悩をこめた自信作だ。グレッグソンは歌った。
すると、自分の前に足をとめてくれていた通行人のひとりが再び歩き出す。それにつられるように、ひとり、もうひとりと再び足を動かしはじめる。グレッグソンの前から人がいなくなるのはあっという間だった。彼はそれを見ながらもギターを弾く手はとめず、声を張り上げ続ける。最後の一音まで魂を込める――それでも、グレッグソンはひとりだった。
「……ありがとう!」彼の前に人はいない。しかしグレッグソンはこれっぽっちも気にしてはいなかった。ここで演奏するようになってから、ほぼ毎回経験していることだからだ。彼は少し休憩しようと、椅子に腰をおろし、ギターのストラップを肩から外した。
(……なに、次はきっとウケるさ)そう思った時、彼の耳に飛び込んできた音があった。ぱち、ぱち、ぱち――拍手だ。グレッグソンはそっちを見た。
「なんだ、あんたか」苦笑した。
拍手をしていたのは、この公園に住むホームレスの男のひとりだった。髪は汚らしく伸びているのを後ろでまとめていて、ボロボロの服は軽い異臭を放っている。
「いい曲だったよ」ホームレスの男――以前に名前をきいたときはジョンと名乗っていた――は二カッと笑って足りない歯を見せつけた。
「そうか、ありがとう」グレッグソンはほほ笑んだ。そしてたばこをひと箱リュックから取り出すと、ジョンに投げる。
「おお、ありがとう。いつもすまんね」ジョンは歩きながらさっそく箱を開け、中身を一本くわえた。グレッグソンのすぐそばに腰を下ろすと、電子ライターで火をつける。
「ああ、これだよ、これこれ……」ジョンはうまそうに煙を吐いた。
「あんたには恩があるからな」グレッグソンは目を細める。
「まだあそこで働いてるのか?」ジョンはグレッグソンを見上げた。彼がうなずくのを見ると、ケケケと皮肉っぽく笑う。
「ひどいとこだろう、店主も客層も」
「でもあんたの言ったとおりだった」グレッグソンは大きくノビをし、酷使して疲労した指を思いっきりのばした。
「市民IDがなくても雇ってくれる」
「安いカネでこきつかえるからな」
「でもカタギの仕事だ。助かってるよ。どうして知っていたんだ?」
「この街は俺たちを害虫扱いするけどよ、害虫はあらゆる場所にいるんだぜ。そしてずっと耳をそばだててる」ジョンはまた紫煙を吐く。そのときに、左手の甲に刻まれた大きな蜘蛛のタトゥーが目についた。「ホームレスには独自のネットワークがあるのさ。カネさえあれば市長の隠し子の人数だってわかるぜ」
「路頭に迷ってた俺に声をかけてくれたのは?」
「こいつのため」たばこの箱を握りながら、ジョンはピースをした。グレッグソンは笑う。
「安月給から出してるんだ、大切に吸ってくれよ」
「つぎにおまえさんがこの公園にくるまでは持たせるさ。明日の夜は来るのか?」
「いや……明日は予定があって」
「当ててやろう。『プリズン』だろう?」にやりと笑うジョンに、グレッグソンはまた苦笑する。自分がときどきバンドメンバーの穴埋めなどで演奏させてもらっているライブハウスの名前は、これまで一度もジョンに言ったことがないはずだったのに。
「なんでもお見通しってわけか」グレッグソンは肩をすくめる。「でもいつもみたいに、カラオケのBGMのアルバイトとは違うぜ。」
「『スティーブン・ザ・スリーアームズ』が来るんだろう?」
「そうさ!!」グレッグソンは興奮して拳をふりまわした。それから周りを見渡して人がいないことを確認すると、それでも声をひそめて言う。
「明日のライブ、あの『スリーアームズ』がサプライズで出るらしいのさ。なんでも無名時代に世話になった場所らしくて」
「むしろ驚きだな。おまえさんはどこでそれを知ったんだ?」
「ベティからさ。俺が『スパルタクス』のファンだって知ってるから、こっそり教えてくれたんだ」
「そいつは誰だ?」片眉をあげるジョン。グレッグソンは、今日はじめてジョンの知らないことを喋れて少し得意げな気分になった。
「『プリズン』のオーナーの娘だよ。いつも受付とかやってる」
「仲がいいのか?」
「まぁ、それなりに」グレッグソンは頬をかいた。
「どんな女だ?」
「ええと……ミステリアスで素敵な人だよ。なんていうか、精神世界に詳しくって、ときどきお金もらって占いとかやってる」
「オッパイはでかいのか?」ジョンの言葉に、グレッグソンは眉をひそめた。
「サイテーだよ、あんた」
「なるほど、つまりおまえさんはそのベティって女が好きなんだな」
グレッグソンはどきりとし、ジョンにカマをかけられたのだとあとから理解した。ジョンは笑う。
「まぁそう睨むなって。なんならその女の好きなタイプでも調べてやろうか?」
「いや、いいよ」グレッグソンは立ち上がり、ギターなど道具を片づけはじめた。
「今日はもう終いか?」ジョンも立ち上がり、短くなったタバコを地面に落とす。
「ああ、今日はもう帰るさ。明日は仕事が休みだから、いろいろ家事とかもしないと」
「そうか、まぁ、楽しんでくれや」ジョンはそう言って、グレッグソンに手をふりながら立ち去った。きっとこの公園のどこかに彼の寝床があるんだろう。この『都市』はヒートアイランド現象で一年中暖かいから凍え死ぬことはない。だけどそれでもホームレスと再会できるとは限らない。街の害虫が一匹殺されたところで、誰も気にしないのだから。遠ざかるジョンの背中を眺めながら、グレッグソンは(どうか元気で)と、心のなかで呟いた。
翌日、グレッグソンは自分の住む安アパートの掃除や洗濯を終えると、リュックだけをひとつ背負って家を出た。時刻は正午をすぎたところでまだ陽は高いが、『プリズン』には早入りして掃除などの営業準備を手伝う予定だった。それがベティがライブチケットを一枚都合してくれる条件だった。
途中、モノレールの駅の前を通る。その駅の壁で、今週末に『都市』のスタジアムで行われる『スパルタクス』のコンサートの告知ポスターを見た。彼らはこれに出演する予定でこの街にきているらしい。このコンサートのチケットはとてもじゃないが買えないが、今夜、こういうかたちで憧れの『スティーブン・ザ・スリーアームズ』の姿を生で見れると思うと、ついつい足取りも軽くなる。鼻歌で彼らの代表曲を歌いながら、グレッグソンは『プリズン』のある場所へと急いだ。
『プリズン』はやや古い建物が集まる地区の中心にほど近い場所にあった。大きく長い坂の途中に入口につながる下り階段があり、建物自体は完全に地下に作られていた。入口ドアの周りの外壁はセメントで塗り固められていて、店名を示す控えめな青いネオン看板がかかっている。ともすれば気づかずに通り過ぎてしまいそうな地味な雰囲気だったが、洗練されたクールさも感じさせる店構えだった。
グレッグソンは入口をくぐり、奥に進んだ。短い廊下の先にある受付ブース(今は誰もいない)をすぎると、すぐライブ会場だ。最大100人程度収容可能なフロアがあって、奥にステージがある。フロアの反対側にはドリンクを提供するブースと、裏手につながるドアがある。ブースの椅子にこしかけて、渋い顔で何か伝票の束をたぐっている中年の女性がいた。このライブハウスのオーナー、ハンナ・マーキュリーだ。
「マーキュリーさん」グレッグソンが呼びかけると、彼女は顔を上げ「ああ、来たね」と言った。
「おはようございます」グレッグソンが会釈する。ハンナは吸っていたタバコを灰皿に押し付けると、彼に向き直った。
「今日はよろしく。アンタのことは娘に任せてあるから、詳しい仕事はベティに聞きな。いま呼ぶよ」言って、ハンナはこめかみの通信インプラントを使ってどこかと通話しはじめた。おそらくベティだろう。グレッグソンは自分がちょっぴり緊張しているのを自覚した。
「すぐ来るよ……なにか飲むかい? おごるよ」ハンナはブースの上に並んだ酒の缶を親指で示した。グレッグソンは「まだ昼だ」と答える。
「つまんないやつ。そんなんでロックスターになろうってんだから笑わせる」ハンナはケタケタ笑いながら、手近なビールの缶をつかむと、グレッグソンに差し出す。彼はあんまり断るのも悪い気がしてしぶしぶ受け取った。
ハンナも自分の分を取り出して、タブを開ける。炭酸の抜ける気持ちのいい音がした。
「乾杯!」ハンナがグイッとひと口飲んだ。それを見て、グレッグソンもタブを起こす。とたんに中からビールの泡が噴水みたいに噴き出して、グレッグソンの顔に直撃した!
「うわっ!?」
「ハハハ! ついてないね!」ゲラゲラと笑うハンナ。グレッグソンは服の袖で自分の顔面を拭きながら、ドアの開く音を聞いた。
「ケンゴ、なにやってんの?」グレッグソンはどきりとした。顔を上げると、彼女がそこに立っていた。
すらりと長い手足。肩まである髪はもともとブロンドだが、今は外をグリーン、内をイエローに染め分けている。鋲のたくさんついた短い合成皮革のジャケットをバンドTシャツの上から着て、大きくダメージ加工がされた細身のジーンズがよく似合っていた。片方の眼球はインプラントになっていて、影になると瞳が虹色に輝いて見える。もう片方は生身のままだが、深い青色の大きな瞳は、目が合うと胸が切なく締めつけられる感じがした。
「仕事前にビール? いい度胸してんね」ベティ・マーキュリーは片眉をあげ、鼻で笑った。
「ち、ちがう。これは君のお母さんが――」グレッグソンの言葉に、ベティはあきれ顔でハンナを見る。ハンナは新しい煙草に火をつけると、にやにやとしながら言った。
「アンタがただツイてなかっただけさね。ほれ、さっさと飲み干して仕事にかかりな。床にこぼれたやつも後で掃除しときなよ」
「ママさぁ……」ベティがなにか言いかけたが、グレッグソンをちらりと見て、やめた。「ほら、残りもさっさと飲んで。もったいないし」ベティの言葉に、グレッグソンは残りを一気に飲み干そうとするが、半分までいったところでむせた。ベティはますますあきれた顔でグレッグソンを見る。
「もういい、貸して」ベティはグレッグソンの手から缶をもぎとって、残りを飲み干した。グレッグソンは缶のフチに彼女のグリーンの口紅がついたのを見た。
ベティは飲み終えた缶を握りつぶし、ブースわきのゴミ箱に突っ込む。
「よし、いこう? ケンゴ」
「あ、ああ」
そうしてグレッグソンはベティについて、裏手へ続くドアをくぐっていった。
「ごめんね、ママはいつもあんな感じだから」廊下に出たベティは、壁によりかかってそう言った。
「いいよ、気にしてない」グレッグソンは指で口元をぬぐう。まだビールの味がする。「それに泡が噴き出たのは単に俺のアンラッキーだ」
「それよ」ベティが急にグレッグソンに近づき、両目をまっすぐ覗き込んだ。グレッグソンはどきりとし、体がこわばるのを感じた。
「ケンゴ、いまあんたの頭上にはとんでもない不幸の星が輝いてる。近いうちに人生を一変させるような不幸が降りかかるかもしれない」
「なんだいきなり、怖いことを」グレッグソンは顔をそむけようとしたが、ベティに両の頬を手で押さえられた。彼女の虹色に輝く瞳を見ていると、不思議な感覚におそわれる……。
「いいから聞いて。しかもこれは本当にタチの悪い星よ。不幸の星なのだけれど、ケンゴだけが不幸になるわけじゃない。ケンゴの周りの人間も不幸にする星なの。最悪の星――でも大きな転機の前触れでもある」ベティの言葉は頭の奥に届くような感じがした。
「大きな転機……? それってどんな?」
「それがなにかはわからない。でも今考えるべきはその前の不幸に備えることよ。決して冷静さを失わないで。そして忘れないで、いつもあなたを大切に思っている人がいることを」
「……あ、ああ」グレッグソンは彼女が言っていることはこれっぽっちもわからなかったが、それよりも、彼女の顔が自分のすぐ目の前にある状況に耐えられそうになかった。胸がどきどきとして、自分を抑えるのに必死になっていた。
「わかったよ、ベティ。できそうなことがあれば、なにかしとくよ」
「そう……」そういうと、ベティはすっと離れた。グレッグソンは胸をなでおろす。
「本来だったら見料をもらいたいとこだけど、今のは出血大サービス。だってあんまりにもあんまりだったから……」
「そ、そんなになのか?」さすがにグレッグソンも少し不安に感じた。ベティの占いはよく当たると評判がいいのだ。
「まぁでも、考えすぎてもそれはそれでよくないし……かといって何も対抗策とかはないし……」
「おいおいそりゃないだろ? 人を不安にさせるだけさせて何もなし? お守りとか売ってくれないの?」
「……あんた、今ちょっと占いのこと馬鹿にしたでしょ」彼女は口をとがらせた。
「そ、そんなことは!」グレッグソンは慌てて否定する。その様子がおかしかったのか、ベティはクスクス笑った。
「まぁさっきも言ったとおり、運命には逆らえないから甘んじて受け入れることね。ただ事前に覚悟ができてれば、いざその時がきても心穏やかにいられるかもしれない。占いってそういうものよ」
「……つまり、相談に来た人全員に不安をあおるようなこと言って返してるのか?」
「あんたマジで占いのことバカにしてない?」ベティの眉間にしわが寄った。グレッグソンはまた謝る。
ベティは諦めたように肩をすくめた。
「ま、信じるも信じないもケンゴしだいよ」そうして彼女はウインクをする。青い方の瞳に輝く光が、グレッグソンの胸をぎゅっとつかんだ。
「さて、じゃあそろそろ仕事しましょか。チケット代分は働いてもらわなきゃね!」
ベティは再び歩きだした。その背中を見ながら、グレッグソンは自分の胸の高鳴りが、はたして不安と緊張なのか、期待と興奮なのか、判断がつかないでいた。
ステージがいきなり暗くなる。満員の観客席が緊張に静まり返る。グレッグソンは最前列のど真ん中で、とうとうその時がきたのだと確信した。
完全に静かになったころ、にわかにスピーカーから曲が流れだす。彼らの代表曲のイントロだ。気づいたほかの観客たちがまさかの予感にどよめく。興奮のボルテージがあがっていく――――ステージのスポットライトがついた瞬間、それは爆発した!
つよい照明に照らされて現れたのは、マイクを握った筋骨隆々の男――背中から生えた3本目の腕でマイクを握り、両手でエレキギターをかき鳴らす、最高にクールな男――現代最高のロックバンド『スパルタクス』のリーダーであり、反逆者のなかの反逆者――『スティーブン・ザ・スリーアームズ』だ!!
観客席は一気に興奮の叫びにつつまれ、床や天井がびりびり震えるのが分かった。グレッグソンもその叫びのうちのひとつだった。もはやスティーブンの演奏なんて全然聴こえていなかったが、それでもライトの中で光り輝く彼の姿にグレッグソンは釘付けだった。
『スティーブン・ザ・スリーアームズ』は『スパルタクス』で最も有名な曲を演奏していた。それは激しいギターソロと暴力的な歌詞の曲で、ほんの3分程度の短い曲だった。しかしその3分は、間違いなくこれまでのグレッグソンの人生でもっとも興奮した3分間だった。あのロックスターが、自分に『都市』に出てくることを決意させた最高の反逆者が、そこにいる。つらいことがあったとき、いつもブロードキャストの向こう側から強烈な反抗心を見せつけてくれていた憧れの男が、ちょっと手をのばせば届きそうな場所にいる――そう思ったとき、グレッグソンは彼のサングラスの奥の瞳と視線がかち合った気がした。
もう卒倒しそうだった。あまりの興奮に呼吸が浅くなり、頭がくらくらしていた。それでも彼から目が離せない。離したくない。一秒でも長く彼の姿を目に焼き付けていたい――――そう思った。
ギターの最後の一音が消えて、『スティーブン・ザ・スリーアームズ』はひと言「最高のプリズナーズ、ありがとう!」と言った。再びフロアが歓声に包まれて、スティーブンは軽く手を振ると、さっさと舞台袖へと姿を消す。それでも歓声はずっと鳴りやまず、充満した熱が下がる気配はなかった。
真夜中だった。グレッグソンはアジア地区の通りを家に向かって歩いていた。その目は未だ覚めない熱に浮かされてギラギラと輝いてる。口元は緩みっぱなしで、体中が熱い。気分の高揚がおさまるのはいつになるかもわからない。頭の中ではライブハウスのあの3分間が何度も何度も繰り返されている。あの一曲が耳の奥で無限に繰り返されている。グレッグソンはまた、確実にスティーブンと目が合った一瞬のことを思い出し、軽く歩きながらステップを踏んだ。
忙しそうで、帰りぎわにベティにあいさつできなかったのだけが残念だったが、それ以外はすべてが最高の一日だった。
家に帰ってもグレッグソンは一晩中おちつくことができず、彼がやっと眠りにつくことができたのは、夜明け前の一番暗い時間だった……。
目覚めたとき、グレッグソンは直感的に「まずい」と思った。
ベッドからがばりと跳ね起き、視界の端に表示されている時計を見る。お昼をゆうに過ぎている。ラーメン屋のバイトは9時始業だ。
慌てて出かけようとして、自分の服が酒と汗の臭いにまみれていることに気がつく。昨日、興奮のあまり着替えも忘れてしまっていたのだ。髪の毛の寝ぐせもひどい。このままでは出かけられない。
(とにかく連絡しないと……!!)そう思って電話を視界に表示するが、その時に録音メッセージが届いていることを示す通知があることに気が付いた。送り主はメイスンだ。嫌な予感がしつつも、とりあえず再生する。
<<メッセージを再生します――『メイスンだ。グレッグソン、おまえはクビだ! 毎日毎日店に損害ばかり出しやがって、おまけに遅刻だと!!? 今度という今度は我慢ならん!! このクズめ! 二度とそのツラ見せるな!! 警察にタレこまんだけでもありがたく思え、この害虫野郎!! クビだ! クビだ!! クビだ!!!』――メッセージは以上です。>>
しばらく動けなかった。その場に立ち尽くしたまま頭が真っ白になっていた。
まだ自分に市民IDは発行されていない。この『都市』で市民IDなしで合法的に働ける仕事は希少だ。違法な仕事ならば数はあるが、ギャングや犯罪組織とかかわらざるを得なくなるし、警察におびえながら生活しなくてはならなくなる。
今から出向いて頭をさげれば許してもらえるだろうか? いや、そんなのは都合のいい妄想だ。ありえない。
「どうしよう……」脳裏に昨日のベティの言葉がちらつく――(「あんたの頭上には不幸の星が輝いている」)――まさかそんな!
「まさか、そんなわけあるか……」いちど深呼吸をした。冷静になろう。とにかく仕事をクビになってしまったなら仕方ない。新しい仕事を探さないと……でもどうやって?
「ジョン……とりあえずジョンに相談してみよう」ひとりごちると、グレッグソンはシャワーを浴び、服を着替えた。それからリュックを背負い、家を出る。
空はどんよりと曇っていた。『都市』の上には分厚い黒い雲が覆いかぶさっていて、太陽光を完全にさえぎっていた。ただでさえ暗い気分がますます沈むおもいがしたが、街並みは無数のネオンに照らされて、いつもと変わらず明るいままだ。荒野の宿場町で育ったグレッグソンにとってその光景はひどく不自然で不気味なものに見え、気が滅入りそうだった。
いつ雨が降ってきてもおかしくなさそうだったので、グレッグソンは公園に急いだ。
だが公園には入れなかった。公園の周囲にはパトランプを点灯させたままの警察車両が幾台も停まっていて、入り口は立ち入り禁止のテープで封鎖されていたのだ。周囲には銃とボディアーマーで武装した警官たちがたむろしていて、入口わきには人間サイズの黒い袋がいくつも並べられている。
この光景は以前にも見たことがある――警察の『清掃活動』だ。血の気がひいた。
「そんな……!」つい取り乱しそうになるが、すぐに思い直す。警察の『清掃活動』――『実力によるホームレス狩り』は、これまでに何度も行われてきた。だけどジョンはそのたびに警察の手をかいくぐってきたのだ。
「そうだ、きっとそうだよ……」呟いて、自分に言い聞かせる。
グレッグソンは、公園入口わきに並んだ死体袋たちを見た。あの中には警察に射殺された哀れなホームレスがおさまっているのだ。でも今回もきっとジョンはうまく逃れているに違いない。『都市』のことはなんでも知ってる男だ。自分の安全にかかわることなのだから、とくに気をつけているにちがいない。
(――そんなことは都合のいい妄想だ、ありえない――)つい数十分前、自分に言い聞かせた言葉がふたたびグレッグソンの脳裏に浮かんでしまい、その縁起でもなさに、ひとり頭をぶるぶる振る。
ちょうどそのとき、担架を担いだ警官たちがグレッグソンの前を横切った。担架にはビニールシートがかけられていて、また新たな死体が袋に詰められるために持ってこられたのにちがいなかった。グレッグソンは目をそむけたくなったが、ビニールシートの下から地面に向かってだらりと垂れ下がる左手の甲に、大きな蜘蛛のタトゥーが入っているのを見てしまい、息をのんだ。
(あのタトゥー――!!)グレッグソンの頭に昨日の夜の光景が浮かぶ。笑いながら煙草を吸う歯抜けの男。その手の甲に刻まれた毒蜘蛛のタトゥー……。
グレッグソンは顔をそむけた。そして走り出した。この場に一秒もいたくなかった。こんな恐ろしいことがこの世に存在するだなんて信じたくなかった。どこかで自分は――自分の周りの人間だけは――大丈夫だと思っていたのだ。
(都合のいい妄想だ!! 俺は妄想のなかに生きていた!!)
グレッグソンは、建物と建物のあいだの薄暗い路地に駆け込んだ。広い場所が嫌だった。何もかもを無遠慮に照らしだすこの街の暴力的な照明群が嫌だった。なんでもいいから、暗い影のなかに逃げこみたくてしかたがなかった。
路地の汚い外壁によりかかり、落ち着くために深呼吸をしようとして、吐き気をもよおす。路地に充満しているのは小便とゲロと腐った生ごみの臭いだ。落ち着くどころかますます気分が悪くなり、グレッグソンはふたたび通りにまろび出た。
頭がくらくらとしていた。とにかくどこかで座って休みたい。この不運の連鎖をどこかで断ち切らねば。
そう考えて顔をあげたグレッグソンは、周囲の風景に見覚えがあることに気がついた。少し先にある大きな上り坂は『プリズン』の目印だ。先も決めずに走り続けていたつもりだが、生き物としての本能は知らず知らずのうちになじみのある場所へ足を向かわせていたらしい。
「ベティ……」彼女の名前が口をついて出た。嫌な予感がする――もし彼女にも何か起こっていたら?
グレッグソンは頭を振った。
(ばかばかしい! いつから自分はそんなスピリチュアルに傾倒するようになったんだ!? こんなのただの偶然だ!)
あまりにも腹が立ったので、グレッグソンは自分で自分を思いきり殴りつけた。拳は顎に直撃し、頭が揺れ、バランスを崩してよろけた。
たまたま近くを歩いていた通行人が「くたばれ、ヤク中!」と罵声を浴びせる。だがしかしその言葉はグレッグソンを落ち着かせた。
(そうだ……自分はいま頭がおかしくなってる。だからしっかり落ち着かないと)呼吸を整えてから背筋を伸ばし、歩き出した。
(とりあえず『プリズン』だ。そこで少し休憩させてもらおう……)
グレッグソンは坂を上がり、途中の階段を下りた。
ネオン看板の電源は入っていないが、オーナーのハンナはだいたいは中にいるはずだ。そう思って入り口のドアを叩くが、何も反応はない。
(留守か?)ためしにノブをひねってみると、カギはかかっていなかった。ふと嫌な予感がして、頭だけ隙間から入れてみる。見ると、廊下の電気は点いていた。
「……あのー、グレッグソンです。誰かいますか……?」
呼びかけてみても何も返事はない。だけど電気は点いているから、中に誰かいるはずなのだ。不吉な胸騒ぎにいてもたってもいられなくなり、グレッグソンは恐る恐る中へ踏み込んだ。
短い廊下を慎重に歩く。フロアまではすぐだが、近づくと、グレッグソンは奇妙な音が聞こえることに気がついた。なにかうめき声のような――その正体がわかったのは、グレッグソンがフロアに足を踏み入れて、ドリンクブースのそばの椅子で、缶ビール片手にすすり泣く彼女を見たときだった。
「ベティ!?」駆け寄ろうとする。
「来ないで!!」彼女が怒鳴った。グレッグソンは足を止める。
ベティは、彼を睨んでいた。目元は真っ赤に腫れており、メイクは涙でグズグズに崩れている。生身の方の目だけが真っ赤に充血し、虹色の輝きを放っていた方の目は、紫色に腫れあがった瞼のせいでほとんど見えていなかった。
「殴られたのか……?」グレッグソンの言葉に、ベティは無言でうなずく。
「誰にやられたんだ!? 警察を――――」言いかけて、さっきの公園の光景が思いだされた――(ジョンを殺したやつらに?)――グレッグソンにそれ以上の声は出せなかった。
「ママが言うの……」ぽつりと、ベティが言った。「……この街の警察は、人が死ななきゃ動かないって……だから我慢しろって……」
「ハンナさんが……?」
「だからケンカしたの。娘がレイプされても我慢しろっていう母親なんか死んじまえって」
「えっ……」
「それでさぁ……ママはあたしを殴って出ていった。しばらく帰ってこないんじゃない?」そう言って、ベティは破滅的にケタケタ笑った。その目はどこも見ていない。
グレッグソンは混乱したまま何も言えなかった。あのハンナさんが実の娘にそんなことをするなんて信じられなかった。それでも今目の前で傷ついている彼女に、グレッグソンは何か声をかけてやりたかった。
「その――されたって、誰に?」口に出してからしまった、と思った。途端にベティは勢いよく椅子から立ち上がり、手にした缶ビールの中身をグレッグソンの顔面にぶちまけた。
「あの三本腕だよッ!! ババアとあの男は最初からそういうつもりだったんだ! 『伝説のロックスターが無名時代に通った伝説のライブハウス』っていうハクをつけるためにひと芝居うったんだ! あのババアは娘まで売りやがったんだよ!!」そういって、ベティは床に突っ伏して大きくむせび泣く。
グレッグソンの頭のなかはもうぐちゃぐちゃだった。この数時間でいろんなことが起こりすぎている。何をすればいいのかわからない。わからないが、とにかくベティを慰めてあげないと。
「あ、あの……」「出てってよ」ベティが顔を上げた。グレッグソンは息をのむ。彼女の顔には激しい憎悪があった。
「あんたのせいだよ。あんたの不幸の星があたしたちをこんな目にあわせたんだ。なにもかもあんたのせいなんだよッ!!」
「まってベティ、俺は――」グレッグソンの言葉をさえぎり、ベティは立ち上がる。
「出てけッ! 死ねッ!! 近づくな! この野郎――――ッ!!」ベティがむちゃくちゃにわめきちらしながら殴りつけてくるので、グレッグソンは逃げ出した。入り口を慌てて飛び出して、ふたたびあてもなく走り続けた。やがて息が完全に上がってしまって足を止めると、今度こそほんとうに見覚えのない場所にグレッグソンは立っていた。
そこはどこかダイナーの駐車場だった。周囲にひと気はなく、相変わらずのよどんだ空気が満ちている。ただ駐車場自体が広いので、中心部は周囲の建物のネオン看板の光が届かずやや薄暗い。グレッグソンはその中心に立っていた。
口を大きく開けて、何度も何度も呼吸する。天を仰ぐが、空には相変わらず黒くて分厚い雲がのさばっていて、ずっしりと重苦しい。呼吸をしてもぜんぜん息が吸えている気がしない。
そのとき、グレッグソンの鼻に何かが当たった。水滴だ。それはすぐに夕立となって、グレッグソンの体をつよく叩きつける。
グレッグソンは立ち尽くしていた。有害物質のたっぷり溶け込んだ雨は深刻な健康被害をもたらすことを知っていたが、それでもひとり雨のなか、一歩も動く気がしなかった。
昨日までの世界は一変してしまっていた。
職を失い、友達が警察に殺されて、好きだった相手は強姦されたうえに絶縁されて、しかもその犯人は自分が心から尊敬していた人物だった。
「こんなの……なんの冗談だよ……」
不思議と涙はこぼれなかった。心はすっかり冷えていた。自分の頭上にあるはずの不幸の星がうらめしかったが、星にはどうしても手は届かない……。
「死にたい……」激しい雨音のなかでも、自分のその声ははっきり聞こえた。
グレッグソンはリュックを背中から外すと、その中に手を突っ込んだ。彼は雨が中に入ることも気にせずしばらくごそごそとやっていたが、違和感を覚えて、大きくリュックの口をあけた。
(……銃がない)
いつも持ち歩いていたはずの銃がない。大切なものなのに……。
とうとうグレッグソンは立つ気力もなくなって、その場に腰を下ろしてしまった。
全身の雨は容赦なく体の熱を奪っていく。このままここに居座り続ければ、そのうち死ねるだろうかと、グレッグソンはぼんやりそんなことを考える……ふと彼は思い出した。
(……ああ、あそこだ……銃を置いてたとこ……)
グレッグソンは、自分がおとといラーメン屋のロッカーのなかに父親の形見の銃を置きっぱなしにしてしまっていたことを思い出していた。そして間もなく、ぞっとしない考えが浮かんだ。
「このままじゃ、あのクズ野郎に捨てられる……!?」
自分はあの店をクビになってしまったから、ロッカー内の私物はメイスンに処分されてもおかしくない。そう考えたとき、グレッグソンの全身を恐怖が貫いた。自分の命よりもよっぽど大切な何かが、自分の最も嫌悪する人間によって奪われてしまうであろう恐怖だ。グレッグソンは勢いよく立ち上がった。
(それは――それだけは絶対にだめだ!
グレッグソンは走り出した。
ラーメン屋の裏手にある勝手口から侵入するのは簡単だった。夕立はますます激しくなっていて、防犯装置などもついていないのは知っていたから。勝手口から慎重に中に入ると、幅の狭い廊下があって、片方は厨房とホール、もう片方はロッカールームにつながっている。グレッグソンはロッカールームに向かった。
幸い、中には誰もいなかった。狭苦しくて換気の悪い小部屋の空気は冷え切っていたが、その温度は今のグレッグソンの心のほうがずっと低かった。
グレッグソンは自分の使っていたほうのロッカーに近づくと、パスコードを入力する。番号は変わっていなかった。ロッカーを開ける。目当ての銃はまだ棚の上に置いてあった。スライドに『K・G』のイニシャルが入った、古めかしい拳銃……。
「よかった……」
「なにが『よかった』んだ、ええっ?」
後ろから声をかけられて、ゆっくりとグレッグソンは振り返った。見ると、メイスンが顔を真っ赤にして部屋の入口に立っている。
「なんでおまえがここにいるんだ、グレッグソンッ!!」メイスンは怒鳴るが、グレッグソンは眉ひとつ動かさない。
「……忘れ物を……」
「知るかこの馬鹿野郎! おまえはもううちのバイトじゃないんだぞ!! 不法侵入だこのドロボウ野郎!」
口から泡を飛ばしながらわめくメイスンの姿がなんだか小さく見えて、グレッグソンは鼻で笑った。メイスンはますます顔を赤くした。
「なにがおかしい! このクズが――!?」殴りかかろうとしたメイスンにたいしてグレッグソンは素早かった。ロッカーにある拳銃をひっつかみ、手際よくスライドをひいて、その先端をメイスンに向けた。彼はさっと青ざめた。
「な……なんだそれは!」
「銃だよ……見てわかんないのかよ……」グレッグソンは言った。その声に怒りはなく、感情らしいものは何もなかった。
「ま、まて落ち着け! それを下ろすんだ」
「落ち着いてるよ……もう何も感じないくらいにはな」
実際、グレッグソンはこれっぽっちも動揺していなかった。死人のようなどす黒い闇が瞳の中にわだかまっていて、心拍数は少しも上がっていない。表情は冷たく、体も頭も冷え切っていた。
「もう俺は死んだほうがいい……俺が生きている限り、みんな不幸になる……」
「待て待て! なにがあったか知らないが、きっとそれはおまえのせいじゃないぞ! おまえが死んだら悲しむ人だっている! おまえの母ちゃんとか――」
そのとき、グレッグソンの視界の端にひとつのメッセージの通知が飛び込んだ。差出人は警察で、件名は『ケイト・グレッグソンさん死亡のお知らせ』――グレッグソンは爆笑した!!
「ははははははははははははは!!!!」
突然にグレッグソンが笑い出したので、メイスンはますます恐怖した。
「いっいったいどうし――」「――残念だったな、もういねぇよッ!!」銃声があった。
――一瞬だった。頭骨からこぼれた柔らかい中身が赤い液体とともに床にぶちまけられた。液体から立ちのぼる湯気と、独特な臭いがひとりの若い青年の鼻孔を通じて脳を震わせた――
「はははははははははははははははははははははははははは!!!!」
メイスンの死体を踏みこえて、グレッグソンはロッカールームを飛び出した。そのまま勝手口から外に出て走り出す。
銃声を聞きつけた誰かが悲鳴を上げるのが壁越しに聞こえる。死体を見つけたのだろう。グレッグソンはかまわず走った。
夕立ちは止んでいた。そればかりか、空を覆っていた分厚い雲までいつの間にか晴れていて、はるか遠くに月が見えた。グレッグソンは口端を吊り上げながら、ひとりブツブツと、同じことをつぶやき続けていた。
「もう許さねぇ……! どいつもこいつも見下しやがって……!! 全員殺してやる……!! この世界に思い知らせてやる……!!!」
グレッグソンは『都市』を疾走する。途中、視界の端にポスターが目に入る。『スパルタクス』のコンサートのポスターだ。公演日時は、ちょうど今の時間だ。
決まりだ。
次はあいつだ。
グレッグソンはまた笑った。
『都市』は電子の光に満ちて、頭上の星はそこにあるのかもわからない……。
おわり