猫かぶりお嬢さんは絶対零度な義兄がこわい
ジュリエッテはその日、新しい家族を得た。
父を亡くしてから塞ぎがちだった母が資産家の男に見初められ再婚することになったのだ。
「さあジュリエッテ、ここが今日からきみの家だ」
「うわぁ……!」
見れば見るほど立派なお屋敷に、きれいなお仕着せをきた使用人たち。今までも暮らしぶりは悪くなかったが、予想以上の華やかさにジュリエッテはひそかに頬をひくつかせる。
(ていうか、あのぽやぽやしたママがどうしたらこんなお金持ちの人と再婚することになるの)
昔から人前に出るためのマナーは習っていたけれど、いざこの豪邸を前にするとそれが通用するのか不安になってくる。
(ううん、めげちゃダメ。新しいパパたちに気に入られて、ここで楽しい暮らしを送るの!)
目指すはハッピーわくわくな毎日。お得意の猫かぶりで相手の懐に飛びこむのだ。母と暮らしていたときはこれでだいぶ得をしていたし、使わない手はない。
新しい父は母よりも少し年上で優しそうな人だった。それにスマートで、上品で、ナイスミドルな風格がとてもすばらしい。奥さまは早くに亡くなってしまい、ひとり息子と使用人と共に暮らしてきたと聞いている。その息子も今年で十六歳。ジュリエッテより七歳も年上だ。頼りになる兄がほしかったジュリエッテは義兄の存在がとてもうれしかった。
「彼がきみの兄になるレグラスだよ」
そう言って義父が紹介したのは長身の青年。
ジュリエッテは自然とレグラスへ視線を向ける。ワクワクした気持ちは一瞬にして凍てついた。
(うわあああああ怖いいいいいいい)
彫像のような美しい顔が、ジュリエッテを冷たく見下ろしているのだ。顔が整っているのがいけないのか、それとも生まれ持った気品が圧を生みだしているのか、とにかく怖くてたまらない。ジュリエッテは笑顔を絶やさずニコニコしていても内心では滝のような汗をかいていた。
(ひいいいいいん怖い怖い怖すぎるうう)
視線の温度がぐんぐん下がっている気がする。たまらなくなってジュリエッテはすがるように義父へと目を向けた。
「こらこらレグラス。そんなに熱心に見つめてはジュリエッテが照れてしまうよ」
(そんなワケないもん絶対嫌われてるってえええ)
気持ちとは裏腹に、ジュリエッテはふたりを見上げて笑みを深めた。かわいいと評判の猫かぶりスマイルだ。こぼれそうになる涙を気合いで押し込めて、なんとか無邪気でお淑やかなお嬢さまを演じる。大事なのは第一印象だ。はじめが肝心だ。精いっぱい愛想よく、丁寧に、かわいらしくと自分に言い聞かせて口を開く。
「ジュリエッテといいます。これからよろしくお願いします、お父さま、お兄さま」
ギンッと迫力を増すレグラスの視線に、ジュリエッテはほほえみを返し、そして失神したのだった。
◇
そんなこんなで始まったジュリエッテの新生活はおおむね順調だった。母もうまくやっているし、新しい父はジュリエッテにとても親切だ。猫かぶりが功をそうして屋敷の使用人たちからもちやほやされている。
「ジュリエッテお嬢さまは本当にかわいらしいですな」
「ありがとう、じいや」
「お体が弱いのですからあまり無理をなされぬようお願いしますぞ」
「はい。でもわたし強いから大丈夫です」
お勉強もがんばっているし、使用人たちの名前も覚えて声をかけるようにしている。文句を言わず、笑顔をたやさず、たまに甘えて相手の庇護欲をくすぐることはもはや使命。
途中で入り込んだ異分子だからこそ、ジュリエッテは自分の居場所を確保するために努力をした。
ひとつ誤算なのは、体が弱いと屋敷のみんなに認識されてしまったことだ。これは初日に失神してしまったことに原因があるのだろう。そのせいでジュリエッテは壊れもののように大事にされているのだ。
ふと、一緒にいた家令が何かに気づいたように顔を上げた。
「おやレグラス様、いかがなされました」
(ひいいいいいいいいいっ)
ジュリエッテは反射的に悲鳴をあげていた。もちろん心の中だけなので誰にもばれていない。見ると、遠く廊下の端から冷たい視線を容赦なく浴びせる義兄レグラスがいた。
「…………」
何も言わず、じっとジュリエッテを見つめる義兄。背中にじわりと汗がうかぶ。ジュリエッテは目をそらしたら命が危ないと思い、小さな足にふんばりをきかせて義兄と向かいあった。もちろん笑顔を浮かべたままだ。
「こんにちは、レグラスお兄さま」
「…………」
距離はずいぶんと離れている。ジュリエッテは持てる力すべてを振り絞り声をかけた。本当は小走りで駆けよったほうが仲良くなれそうな気がするけれど、もし嫌われていたら逆効果になってしまうのでためらわれる。
「今日はお休みなのですか? お兄さまのお顔が見られてうれしいです」
家族としてなんとか受け入れてもらいたい。そう思ってジュリエッテは必死に言葉をつむいだ。
「…………」
(ひええええんなんか言ってくださいいいいい)
精神力がガリガリとけずられる。しかしここで白旗をあげてはいけないのだ。ジュリエッテの考えるハッピーわくわくな毎日のためには少しでも不安要素を少なくしたい。義兄にこびを売って好かれるのなら全力で売りにかかりたい。
しばしの沈黙がふたりの間におりる。
空気は完全に氷点下だった。
(やっぱり、わたし、好かれてない)
ジリっとした痛みが胸にわいたその瞬間、レグラスは顔をそらし、屋敷の奥へと行ってしまった。残されたジュリエッテは思わずその場に座り込んでしまう。力が抜けてしまったのだ。
「大丈夫ですかお嬢さま」
「……ええ、だいじょうぶ。少し足が疲れてしまったみたい」
家令に抱き起こされながら、ジュリエッテはまた貧弱認定されてしまったと悔しく思った。五体満足の健康体なのに貧弱と思われるのはなんだか負けた気がするのだ。貧弱を理由にちやほやされたいのではない。
「ご覧になりましたか、レグラス様のあの嬉しそうなお顔。ジュリエッテお嬢さまと奥様がいらしてからこのお屋敷はぐんと明るくなりました」
(どこをどう見たらあれがうれしそうなの)
「そうだったらいいな」とだけ言うと、ジュリエッテはこっそりため息をついた。おおむね順調とはいえ、レグラスの問題は大きすぎる。
レグラスは次期当主になる男だ。
彼に嫌われてしまえば、今後大変な思いをするかもしれない。それはごめん被りたいジュリエッテである。
(うん、どうにかしてお兄さまと仲良くなる! チャレンジあるのみ! 怖いけど!!)
そうしてジュリエッテの「お兄さま仲良し大作戦」が始まった。思えば一緒に暮らしはじめてひと月、顔を合わせることがほとんどなかった。おそらく避けられているのだ。初日の顔合わせと先ほどの廊下、あとは遠く離れたところから姿後ろを数度見かけたのみ。それとなく家令から義兄の予定を聞き、それとなく廊下で待ちぶせし、運良く顔を見ることができた日は積極的に話しかけた。
「お兄さま、おはようございます」
「お兄さま、このドレスわたしに似合いますか?」
「レグラスお兄さまー!」
(怖いよおおおひいいいいいいいん)
心の中で恐怖を叫びながらも、きらきらの笑顔でそれらを押し込め義兄レグラスに突撃していった。その甲斐あってか、最近は距離が縮まってきたように思う。
最初は五メートルは離れていないと義兄は相手をしてくれなかった。それ以上距離が近くても義兄はするりと移動して距離をとるのだ。そして絶対零度の眼差しでジュリエッテを射抜く。五メートルごしの挨拶にはなかなかの声量が必要で、肺活量と腹筋、そして背筋がずいぶん鍛えられたと思う。
しばらくすると距離が三メートルに縮まった。
レグラスの無言は相変わらずでジュリエッテがしゃべってばかりなのだが、「どんどん話しかけてあげてください」と家令が言うのでなかばヤケクソだった。きっと涙目になっていただろうと思う。
距離がまた一歩近づき二メートル半になったかなというある日のこと。ジュリエッテはいつものように話しかけていた。
「ーーそれでお母さまがお土産をくれたんですよ。わたしもいつかお兄さまといっしょに行ってみたいです。……えっと、じゃあジュリエッテはこのあとピアノのお稽古なので、ここで失礼しますね」
それでは、と一礼してジュリエッテは背を向け早足でその場を立ち去る。無意識ににぎりしめていた手は汗でしめっていた。
(うう、わたしとお出かけなんて興味ないですよねごめんなさいいいいいい)
手応えはあるようなないような。あの視線は恐怖であるものの、義兄はジュリエッテに暴言を吐くわけでもない。適切な距離で話しかければちゃんと立ち止まって話を聞いてくれる。ただ冷たい視線をジュリエッテに浴びせるだけだ。
もしかしたら嫌われてはいないのかも。
怖いけど。
足を動かしながらそんなことを思っていたその時だった。
「おい」
ジュリエッテの背後から声が聞こえたと同時に、足の力がかくんと抜けた。
(あ、まずい。こける)
急に崩れた体勢のせいで顔面から着地しそうだ。さいわい廊下にはカーペットが敷いてあるのでそこまで痛くはないだろう、とのんきな考えがよぎる。こういうことはたまにあるのだ。しかし、眼前にカーペットが近づいたところでうしろから誰かに抱き抱えられた。
「……お兄さま」
顔が見えたのは一瞬。
つまずこうとしたところを義兄が助けてくれたのだと理解したと同時に、あの凶器にも似た氷の眼差しをゼロ距離でくらって、ジュリエッテは意識を失った。
◇
ジュリエッテは決して病弱でもないし貧弱でもない。ただちょっとだけ肺が弱かったり、心臓が弱かったり、足が弱かったりするだけだ。季節の変わり目に熱を出すことはあるがそれは誰しもあることだろう、とジュリエッテは思っている。
「目が覚めたか」
声のした方を見ると、可愛らしいウサギのお面をつけた男がベッドの横にいた。椅子に腰かけてジュリエッテの様子を見ていたらしい。
「……お兄さま」
背格好からしてレグラスに間違いない。なぜお面をつけているかわからないが、あの視線がないだけでずいぶんと恐怖心が減る。これなら平常心で会話ができそうだ。
「人を呼んでくる」
「あ、あの!」
腰を浮かせたレグラスをジュリエッテは慌てて呼び止めた。
「助けてくださってありがとうございました。そのうさぎのお面、とてもかわいいですね」
ジュリエッテは小さくほほ笑んだ。
演技ではない、自然な笑顔だった。まさか義兄が助けてくれるとは思ってもみなかったし、お面までつけて看病してくれる面倒見のよさに心が温かくなる。
お面の奥でふっと笑う息づかいが聞こえた。
「気に入ったか」
「はい」
レグラスはお面をつけたまま、今度こそ立ち上がった。
「無理をせず、ゆっくり休め」
そう言うレグラスの声は柔らかい。彼が部屋を出ていったあとも、ジュリエッテの胸の内はずっとぽかぽかしていた。
◇
レグラスはこの日以降、常にうさぎのお面を着けるようになった。そうするとジュリエッテが本当に嬉しそうにレグラスへかけよってくるのだ。
初対面でひどく怖がらせてしまい、レグラスはしばらく距離をおこうと思っていた。しかし、怯えながらも仲良くなろうと一生懸命話しかけてくる妹の姿に感心し、以来どうやったら怖がらせないかを考えていた。このお面との出会いは思いがけない幸運であった。
明るくてがんばり屋で、みんなを笑顔にすることができるジュリエッテ。猫をかぶっていようが犬を巻いていようが、それは本人の気づかいや努力によるものだ。賞賛に値する。それに、だいぶか弱いのにそれを認めないところが憎めず、放っておけない気持ちになる。
たまに、怖がりながらも一生懸命話しかけるジュリエッテのいじらしい姿をみたくてレグラスは仮面をわざと外したりするが、その辺りはご愛嬌だろう。
そんなことを考えていると目の前に愛らしい少女がちょこんと顔を出した。
「おはようございます、お兄さま」
(ひいいいいいい今日は仮面をしてらっしゃらないいいいいいああああ怖いいいいい)
そんな妹の心の声が聞こえてきそうだ。ジュリエッテの完ぺきな猫かぶり笑顔もレグラスには見抜けてしまう。レグラスは少しだけ口元をゆるめると、懐から仮面を取り出したのであった。
「今日は少し遠出になる。体は大丈夫か」
「はい。お兄さまとお出かけできるのがうれしいので、元気いっぱいです」
「そうか。無理はするなよ」
ジュリエッテの満面な笑顔を見て、つられてレグラスもほほ笑む。
さっきいじわるなことをしたお詫びに今日はめいいっぱい甘やかしてやろう、とレグラスは心に決めるのであった。
◇◇◇
氷槍の貴公子と呼ばれていた男がある日突然ファンシーなうさぎのお面をつけるようになり、以降は素顔を見せなくなった。いったいどういう心境の変化があったのか、憶測がまた憶測を呼び、界隈がざわついたという。
お面貴公子爆誕