解決編
4
間もなく3限目が始まろうとしていた。
神田川は少し気分を害していた。まさか、水咲があんな手を使ってくるとは思ってもいなかったからだ。はめようとしたのだ、教師を。あいつはろくな女ではない。あの女が社会に出たら、どうなるんだろうか。
しかし、一瞬の閃きで水咲の罠に気が付いて間一髪だ。危なく犯行を認めるところだった。こんなことで残りの人生を終わらせたくはない。趣味は趣味として終わらせたい。
神田川は足早に自分の講師室に向かう。その道中、足を露出させた女学生がすれ違う度に、彼は横目でそれを追っていた。
講師室に着くと、タバコを1本咥えて窓の外を眺める。さっきまで快晴だった空は、今はすっかり曇っていた。
今まで半年間撮影をしてきて、今日は本当に厄日だ。今日撮った映像は持っていかれるわ、ビデオカメラは持っていかれるわ。もし、彼女が自分の授業をとることになったら、絶対に単位はやらないと決めた。あの顔は一生忘れない。
そんなことを考えながら荷物を手早くまとめる。空になったカメラケースをバッグに放り込み上着を着る。すると、ドアを叩く者がいた。あの女だった。
「先生、帰るんですか?」
カメラを肩にかけた水咲は、ノックをすると勝手にドアを開いて入ってきた。
「まだなんか用か?」
「はい、最後に1つだけお話したいことがあって。ただ、雨が降ってきそうな天気ですね。早くお話ししないとまずいかな? 天気予報では、午後の雨の降る確率は50パーセントだって言ってましたから」
「天気予報は、あんまりあてにならないと思うけどな」
「どういうことですか?」
神田川はカバンを担ぐ。
「雨の降る確率っていうのはな、非常に曖昧なんだ。何県北西部地方の雨の降る確率とかいう言い方するだろ? 北西部には、A市もあればB市もあるんだ。A市は雨が降っているのに、B市は降ってないということがあるだろ? これだと、A市の人にとっては確率が当たったことになるけど、B市の人に見れば外れたことになる。だけど、天気予報は当たったことになるんだ。北西部にはちゃんと雨が降ったんだから」
「あっ、そうなんですか。それは知らなかったです」
「確率ゼロパーセントのときも同じ。ゼロパーセントだからって、絶対に雨が降らないってわけじゃないんだ。もし雨が降ったとしても、降水量が1ミリ以上いかなかった場合は、やっぱり確率ゼロパーセントという予報は当たったことになる。天気予報の雨の確率というのは1ミリ以上の雨の降る確率だからな」
「あ、そっか。勉強になりました」
「今日は雨が降るかどうかわからんが、降られたらまずいから今日はこれでお開きにさせてもらう。君の話はまた今度」
一方的に喋ってその勢いで出口に向かう。
水咲はカメラをテーブルの上に置くと単刀直入に切り出した。
「ビデオカメラとテープ、返して欲しくないんですか? これ高いんじゃないですか?」
またしても部屋を出るのに足止めを食らった。
「違う。私のじゃない。私じゃないんだ。何度言ったらわかる。帰りなさい。私も行かなきゃならないんだ」
しかし、水咲はそこにあった椅子に座り込んだ。
「わたしは先生とお話しするまで、ずっとここに座ってます」
水咲は脚を組んだ。神田川は思わずそこに目がいった。かなり際どい。もう少しで見えそうだった。
「どこ見てるんですか?」
「な、なにも見てない。早く帰りなさい。私は忙しいんだ。君とくだらん話に付き合ってる暇はない。頼むから出てってくれ!」
「ダメですよ。わたしのパンツ撮ったんだから。だいたい、そんなの撮ってどうするつもりなんですか? 撮っても触れないし、画面のわたしはそれ以上脱がないですよ」
それに対する言葉が見つからなかった。代わりにバッグを床に放り投げると水咲を怒鳴りつけた。
「どういうつもりだ? まだ私をはめる気か? いいか、これ以上私に付きまとったら、君を名誉毀損で告訴する!」
「名誉毀損? 名誉を毀損してるのは先生ご自身じゃないんですか?」
「だから証拠もなく私を犯人にするな!」
「それは大丈夫です。理由もなく犯人にはしません。ただ、証拠というか、先生が証言してくれるんですけどね」
神田川は水咲の意味深な言葉に声を発するのをやめた。
「先生の証言の材料になるものがこの中にあります。今度は嘘じゃないですよ」
水咲はカメラを指す。
「証言? どういうことだ? 私の声が入ってたのか?」
「うーん、残念ですけど、先生はどこにも映ってなかったです。声すら。映っていれば、すぐだったんですけどね」
神田川は再生の準備をしている水咲の様子をじっとうかがった。
「わたしね、カメラを発見してから今までずっと、映像ばっかり見てたんですよね。なんか手掛かりはないかなって。だけど面白いことに、手掛かりはテープの外にもあったんですよ」
水咲はテープを取り出すと、テープの背面を見せた。
「見て下さい。これ、ラベルを剥がした跡ですよね? うまく剥がれなかったみたいで残ってますね? 先生、どうしてせっかく貼ったラベルを剥がしたんですか?」
彼女は神田川を確かめるように覗き込んだ。
「ここんところ見て下さい。ラベルの右端。文字がかすかに見えますね? これ『己』って書いてあります。しかも、これは漢字のつくりです。先生。ここにはどんなタイトルが書いてあったんです?」
水咲は実に楽しそうな表情だった。
それを見て神田川は、彼女が何を言いたいのか分かってきた。
「つくりに『己』がある漢字ってなんだと思います? 『記録』の『記』という漢字がそうですよね?」
水咲は膝の上で頬杖をついた。
「どういうタイトルをつけたんですか? 『○○日記』ですか? それとも……『○○成長記』、ですか?」
神田川は彼女の質問には答えず、彼女の次の言葉を待った。
「1年前に撮ったキャンパス内を歩く1組のカップルのシーンがありました」
水咲はテープをカメラに入れて再生する。その場面が映ると女学生の顔のアップで一時停止をする。
「このシーンです。これ、女の子のスカートの中ではなくて、ちゃんと顔を映しています。けど先生は、この女の子に多額のお金を請求するなんてことは絶対にしません。なぜなら、このテープの元々のタイトルは『○○成長記』だからです」
液晶画面に映っている女学生は満面の笑みだった。
「このアップで映っている女学生は、先生の娘さんですね? そういえばテープの冒頭に、どこかのお部屋の柱が映ってましたよね? その柱に黒い横線が数本引いてありました。あれの意味が分かったんです。わたしも子供の頃やってたんですが、あれって娘さんの身長を記録してたんですよね。娘さんを柱のそばに立たせて頭くっつけてマジックで印を」
神田川はこの女の鋭い洞察力に恐れ入った。たったこれだけの短い時間でそこまで見抜くとは。
しかし、この女学生と自分が親子であるという繋がりはどこにもない。
「いいや、娘ではないよ。私に娘はいない。それは考えすぎだな」
「このシーン、実は先生にとっては重ね撮りなんてできない貴重なシーンなんじゃないんですか? だって、この映像の直前と直後の盗撮映像は、盗撮日付が同じなんです。時間もたったの1分しか差がないんです。つまり、この映像だけは消したくなかった。だから録画を一度止めて、早送りしてこのシーンを飛ばしてからまた録画したんです。この部分の録画は避けて、1年前の映像を未だに残しているのには、よっぽど大切な映像なんでしょうね」
水咲はその大切なシーンの頭までテープを巻き戻すと、録画スタンバイ状態にする。
「さてと。先生はこれから自分の罪を認める証言をしてくれます」
「だから娘ではないと言っているだろう」
神田川は最後のあがきをしてみたが、証言せざるを得なかった。水咲が意地の悪いイタズラをしようとしたからだ。
水咲は脚を組むのをやめると、自分にカメラのレンズを向け、録画ボタンに指を添えた。
「今なら、わたしのスカートの中を撮ってもいいですよ」
部屋に明かりは灯っていなかったが、足首のアンクレットは太陽の出ていない外の明かりだけでも十分に輝くことができた。
講師室の窓に水滴が1つ2つとついた。ついに、雲の水滴は自身の重さに耐え切れず、地上へ落ちてきてしまったようだ。
「分かった。もういい」
水咲はカメラの電源を切ると、静かにそれを机の上に置く。
暗くなった講師室の床を見つめていた神田川は何も言えずにいると、水咲がその静寂を打ち破った。
「娘さんの成長記を編集したこのテープに重ね撮りして消しちゃっていたのに、男の人と腕を組んで歩いているこのシーンだけは消せなかった。それには何か特別な理由があったんですね。というより、そもそもどうしてそんな永久保存のテープに重ね撮りなんか?」
神田川は水滴が十数滴ついた窓の外を見つめながら答えた。
「もう娘の成長記なんてテープは必要ないんだよ。結婚して、私の手から離れていった娘の成長記なんてもう見たくない。あいつは嫁いだんだ。しかも、まだ娘も相手も学生だよ。学生結婚だ。どう思う?」
「反対しなかったんですか?」
「したさ。でも、子供ができちゃってね。いわゆる、できちゃった婚か。学生結婚でできちゃった結婚だ。ほんとどうしようもないバカ娘だ。どうして今の子は何でもやることが早いんだろう」
神田川は眼鏡を取ると、顔に湧き出た汗を拭って続けた。
「奈津美っていうんだ。子供ができる数年前、高校生の頃からその男と結婚するって言い張ってた。それで何度もケンカになったよ。まだ結婚は早い、お前には無理だってな。そしたら、駆け落ちするって言い出して、家出をしそうにもなったよ。それで数年間、奈津美とはまともな会話をしなかった。家の中は暗かったよ。楽しい家庭なんてどこかへ消えてしまっていたよ。親子で街を歩いている家族を見ると妬ましかった」
神田川は埃を拭き取った眼鏡を再びかけると、水咲の向かいのパイプ椅子に座った。
「そしたらあるとき、奈津美と男がうちにやって来て告白した。子供ができたって。私は怒って2人を殴ったよ。今すぐ子供を下ろして別れろ、って捨て台詞も吐いてね。2人を追い出した」
水咲は驚いていたが、黙って熱心に聞いていた。
「けど、私と妻はよく考えた。本当にそれでいいのかを。それで次の日、2人を講師室に呼び出してこう聞いたんだ。『子供が生まれる前に結婚式をやるんだろ?』ってな。そしたら奈津美、堰を切ったように泣き出してな」
顔をほころばせた水咲は、うなずきながら耳を傾けている。
「そのあと、講師室を出るときは男の方は嬉しそうにしていたのに、奈津美は神妙な顔つきで『ありがとうございました』とか何とか言って急に他人行儀になってな。そのまま出ていった。それで、2人が去っていく姿を見ようと窓の外を見たんだ。そしたら奈津美のやつ、今まで見たことのないほどの嬉しそうな笑顔を見せていてな。私はとっさに手元にあったカメラを回したんだ」
神田川はテーブルに置いてあるそのカメラを指した。
「久しぶりに見たよ、あんなに嬉しそうな奈津美を。ほんとに嬉しそうだった。暗闇からようやく開放されたって感じだった。同時に、奈津美は別の世界に行ってしまったんだ。だから、これが最後の映像になるだろうと思いながら撮っていた。他のは見たくないから重ね撮りして消してしまったが、このシーンだけは残しておいた」
水咲は何度もうなずいていた。
「でも、そんな大事な映像だから、バックアップはとってあるんですよね? 他のテープかなんかに」
「ああ、もちろん。だけど、このテープに映ってる映像はオリジナルだから、なんとなく消せなくてね。ダビングしたのよりも画像が綺麗だし」
話はこれで終わった。あとは事後処理をしなければならない。
「私のこと、軽蔑してるだろ?」
「いいお話のあとですけど、かなり」
「そうだろうな。けど、別にいいさ。軽蔑してくれて結構。私だって男だ。スケベ心はある。いや、男なんてみんなそうだ。これは男の性だ、仕方ないじゃないか」
すると、水咲は目を丸くさせて神田川の意見を否定した。
「先生。男の性だから仕方ないと言って、事を片付けてしまうのは良くないと思います。そんなことをしない男性だっているんです。むしろそっちの方が多いんです。もし、奈津美さんが誰か別の男にそんなことされていたらどうしますか? 男の性だからしょうがないって言うんですか?」
神田川はうつむくしかなかった。水咲は何も特別なことを言っているわけではない。当たり前のことを言っているから何も反論できなかった。目的も何もないバカな動物とけなしていた学生に、自分の恥ずべき秘密を暴露され叱責され、なんとも皮肉なことだった。
水咲はカメラを肩に提げて立ち上がった。
「奈津美さんはご健在なんですよね?」
「すぐには会えない所へ行ってしまったけどな」
神田川は冷たそうな灰色の床を見たままつぶやいた。
「だったら、このテープが最後の映像にはならないじゃないですか。撮りに行けるじゃないですか。先生が顔を出せば、このテープに映っている以上の笑顔をいくらでも撮ることができると思いますよ」
「そうかな?」
「わたしが保証します」
奈津美と同じくらいの年頃の水咲の言葉は妙に説得力があった。
「今日は、先生が学生を悪く思ってる理由が何となくわかりました。けど、わたしが奈津美さんに代わって一言お説教を」
神田川は水咲に鋭い目付きでにらまれると、力強く叱責された。
「学生はバカだって、悪く言える資格はないわよ。バカなお父さん」
神田川は再びうつむくと、決して水咲とは目を合わせずに講師室を出た。
第2話 最後の映像【完】