事件編《前編》
統計学助教授 神田川 耕太郎
1
とある大学のキャンパスに新しい太陽が訪れた。7千人の学生を抱えているこの大学の朝は、信じられないほど静かであるが、セミの鳴き声だけはうるさかった。
長かった梅雨も明け、ようやく全国に夏空が広がった。青空の向こうに入道雲が立ち昇り、朝からセミが鳴きやまない。気温は既に30度近くまで上がり、今日もまた暑い1日になりそうだ。天気予報によると午後はところにより一時雨になるらしい。その予報は外れるのではないかと思うほど、今は見事に晴れていた。
7月に入ると、どの大学も前期試験が待ち受けている。この大学もそうだ。試験がいよいよ5日後の月曜日に迫っていたのだ。前半の講義も残り1回になると、講義に出席する学生が増えてくる。皆、試験の情報を得る為にやって来るのだ。
1時限目も佳境に迫ってきた頃、茶色のスーツに重そうな荷物を肩に担いだ男が、ハンカチを手にして大学の玄関に入り込んだ。今年で55を迎える彼は、頭の毛の後退と中年太りの腹を気にかけていた。彼は自分の講師室には行かず、そのまま目的の場所へ向かった。
神田川耕太郎54歳。大学で統計学の教鞭をとっている。この大学に通い始めて今年で4年目になるが、毎週1回しかこの大学には来ない。なぜなら、非常勤であるからだ。つまり、この大学の人間ではない。他大学専属の教授なのである。
彼は眼鏡をずり上げながら額の汗を拭い、階段を駆け上がった。
2階には講義で埋まっている教室が4つあった。神田川の講義はこのあと2時限目からだ。まだ少し余裕がある。
階段を登った正面には印刷室がある。神田川は辺りを見回して誰もいないのを確認すると、いつものようにその印刷室に忍び込んだ。中は雑然としていて、インクの臭いと紙の臭いで充満している。床には白紙のわら半紙が何枚も落ちている。包装紙に包まれたプリント用紙がサイズごとに仕分けされて鉄の棚に置いてある。何が入っているのか、大きなダンボール箱が所狭しと積み重ねられ、狭くて小さいはずの印刷室は部屋全体を見渡すことができなかった。何よりもこの部屋の状況、そして、この印刷室の正面に階段があることが神田川にとっては最適だった。
神田川はいつも90分の講義を60分で終わらせていた。すなわち、15分遅刻して講義を開始し、15分早めに終わらせる。これは学生に好まれる条件の1つであったが、彼にはそれしかなかった。講義は1時間だが、出席はとらない、評価は筆記試験とレポート、講義形式は問題を出して学生に答えさせる学生参加型。挙句の果ては、留年や卒業がかかっていようと容赦なく単位を落とすという、学生から最も嫌われる教授だった。
学生に好かれる教師なんてならなくてもいい。教師は学問を教える、ただそれだけやればいいのだ。どうして学生相手に気を使わなければならないのか。
試験の出来が悪いのは授業を聞いていない証拠だ。留年や卒業がかかっているから落とさないでくれ、と頼み込んでくる学生が後を絶たないが、それは学生自身が悪いのではないか。自分で崖っ淵に追い込んだのではないか。学生というのは自分勝手で悪知恵だけはよく働く動物なのだ。
肩に担いでいたカバンをおろす。中にはビデオカメラが収められていた。それをバカ丁寧に取り出して床に置き、印刷室の床窓を少し開けると、廊下に向けてカメラを設置した。カメラのレンズには神田川が自作した特殊なレンズが取り付けられている。カメラの電源を入れて録画スタンバイ状態にすると、画面には下から見上げた階段が映し出された。
なぜ出席をとらないのか。そんなことは当然である。出席をとって何の意味があるのだろうか。それはただ、その瞬間に返事をしただけに過ぎないのだ。出席をとり終えれば、喋り出す者、寝てしまう者、果てはこっそり教室を抜け出す者もいる。そんな学生に、一体何の為に大学に来ているのかを問いたいものだ。
1時限目が終了するまで少し間があったので、その時間をつぶすことにした。カメラの状態を録画スタンバイからビデオに切り替え、カバンから別のテープを1本取り出すとそれをカメラに挿入する。
バカな学生だから、やることなすこと全てバカだ。だから身なりもバカになる。
ビデオカメラの液晶画面にはテープに収録された画が映し出された。床窓から見えるのと同じ階段が映っている。そこに茶色い髪をした女学生が階段を登ってきた。彼女にとって2階は通過点だった。だから、くるりとカメラに背を向けて引き続き階段を登り始めた。その彼女は、やけに丈の短いスカートを履いていた。よって、スカートの中がわずかに見える。その瞬間、神田川はニヤリと笑う。
画面が切り替わる。今度は前の女学生よりも更に派手な、これまた短いタイトスカートを履いた女学生が階段を登ってきた。同じくわずかに見える。
一体、学校をなんだと思っているんだ。お前らは男を口説きに来ているのか? そんな格好しやがって。
神田川が見ていたテープにはそんな映像ばかりが収録されていた。
1時限目が残り10分になると校内が騒がしくなってきた。講義が終了して次の教室へ移動する学生もいれば、2時限目からやってくる新しい学生もいるからである。
神田川は録画用のテープをカメラに入れ替えると再び録画スタンバイ状態にして、画面を見つめてそのときを待った。
階段を上って来る足音、下りて来る足音。間合いを見計らって録画ボタンを押す。最初、まばらに学生が階段を上り下りしていたが、どうやら講義が終わったらしくカメラの前の階段は学生で埋め尽くされた。すぐに録画を停止する。こんなに人が多くてはいい映像が撮れない。再びまばらになるのを待つ。
ようやく人が少なくなってきて期待に胸が膨らむが、そのときは短いスカートを履いている女学生は通らなかった。
やがて、10分の休憩時間に入った。またどっと階段に学生が押し寄せ、いい映像を撮れる状態ではなくなった。
今まで幾度となくこうして撮影をしてきたが、やはり、短いスカートを履いている女学生は学生全体の半分もいない。それに、そのような女学生がこの階段を利用するとは限らないので、いいショットが撮れる確率は低い。しかしだ。最近梅雨が明けて夏に突入したので、着る物が薄くなってきたことは確かだ。必然と巡り会える確率は高くなるだろう。
休憩が終了し、2時限目開始のチャイムが鳴る。
神田川は依然その場から動かなかった。まだチャンスがあるからだ。これから遅刻してくる学生がいるのである。ここが意外に人もまばらで狙い目なのだ。
授業が始まって5分も経たないうちに、何人かの学生が駆け登るようにして階段を通り過ぎた。しかし、カメラに収める学生はいなかった。
それから更に授業開始から10分が経ち、神田川もそろそろ自分の講義を始めなければならなくなった。と、1人の学生が階段を登ってくる。顔は黒く焼けていて、髪にはメッシュが入り、豹柄の丈の短いワンピースを着た女学生だった。
すかさずカメラをまわす。その女学生がこちらに背を向け、更に3階へ上がるとスカートの中へカメラをズームインした。どうやら黒の下着のようだ。
女学生が画面から消えると録画を停止した。最後の最後でいい映像が撮れた。
喜んでいるのも束の間、カバンの中から折り畳まれたダンボールを取り出す。それを組み立てて箱にすると、中にカメラをセットする。ダンボールにはカメラのレンズと同じ大きさの穴があらかじめ開けられていた。
カメラの入ったダンボール箱を床窓のそばに置いて録画ボタンを押す。カモフラージュとして、印刷室にあったダンボール箱をカメラの箱の上に数個積み重ねた。
かくして、彼はテープの回っているカメラをそこに置き去りにし、自分の教室へと向かうのであった。
*
「それじゃ、きりがいいのでこれで終わりにします」
いつものように15分前に終わらせ、ちょうど講義時間は60分だった。今日もまた怒鳴った。女学生だった。講義中のお喋りが原因だ。これも学生の質が落ちたということか。しかも、その女学生、怒鳴った後に講義を抜け出したのだ。バカな学生は死んでも直らない。
神田川は教科書類を置くため一度自分の講師室に戻り、すぐに例の場所へ舞い戻った。そこへ向かうときはいつも足取りが軽い。何せ1週間に一度の楽しみである。今日は何人捕らえることができたのだろう。2人捕まえられたらいい方である。1人も映っていない日だって少なくないのだ。
彼は胸を躍らせて中央階段の2階まで登り切った。ところが、登り切った正面の印刷室前に数人の男女が集まっていた。ざっと見たところ、どうやら学校関係者と学生3人だ。学生は、1人は男でもう2人は女だった。一方の女は赤いミニスカートを履いている。しかし、黒のストッキングを履いていたので、この女がファインダーに映ったところで、そんなに期待できる映像は撮れそうにない。
神田川は何食わぬ顔をして3階へ登った。幸い、そこにいた連中には誰にも見られず上に行くことができた。
それにしても一体何事か。そこで何をしているのだろうか。瞬間、胸騒ぎがした。そして、考えたくもない考えが脳裏をよぎった。まさか……。
3階に登り切ったところで、彼はどんなに些細な微音でも拾い集めることができるように聞き耳を立てた。
「まさか学内でこんなことする奴がいるなんて。まったく、いったい誰なんだ」
「犯人は男だと思いますよ、茅ヶ崎さん」
「そりゃそうだろうよ。こんなことをするのは男以外に考えられないからな」
彼らが何の話をしているのか、神田川には何の弊害もなく理解することができた。そう、ビデオカメラが発見されてしまったのだ。今までこんなミスはなかったのに。
「悪質ないたずらですね」
「いたずらなんかじゃ済まないよ。犯罪だよ、こんなの」
「多分、犯人は今日だけじゃないでしょうね。こんなの撮って、どうするつもりなんでしょう?」
「まさか本人に脅迫して売るつもりじゃねぇだろうな。おいおい、やめてくれよ。そんなことしてマスコミが押し寄せてきたら、たまったもんじゃないよ」
彼らと同様、神田川にとっても、そんなことになったら一大事である。これ以上彼らに変な想像を植え付けられたくなかったので、彼は静かに別の階段を使ってその校舎から抜け出した。
2
神田川には何の不安もなかった。犯人がわかるはずがない。この大学は7千人の学生が在籍している。教師だけでも百人はいるのだ。そんな中から、どうやって1人に絞ることができようか。まず不可能だ。
だから、彼はすぐに大学を去ろうとはしなかった。むしろ、堂々と昼食でもとりに学食に行こうと思っていた。
講師室には事務机と椅子、書棚、そして、ガラスのテーブルを挟んで2つのパイプ椅子が向かい合って置かれている。それ以外には何もなく、閑散としていた。
神田川は事務机に両足を乗せて、先ほどの印刷室前の光景を思い出していた。
それにしても、撮られた本人にビデオを送り付けて金を取ろうなんて発想は微塵も考えていなかった。大学もそこらあたりがはっきりとわかっていないから、警察に捜索を頼むなんてことはしないだろう。いや、そんなことをしたら逆に大学の立場が悪くなる。きっとそう考えて内密に処理するに違いない。
けど、あのビデオテープを取られてしまったのは痛い。どうにかして取り戻すことはできないだろうか。今、あのテープは誰の手にあるのだろう。可能性が高いのは教務課の人間だ。きっと教務課室のどこかに保管されるに違いない。教務課の人間をうまくごまかして取り戻せないだろうか。それともこっそり忍び込もうか。
ビデオテープ奪取の手段をあれこれ考えていると、あと数分で2時限目が終わろうとしていた。間もなく学食は込み出す時間なので、神田川はそろそろ行こうと立ち上がった。と、そのとき、講師室のドアをノックする者がいた。
ドアを開けると、外には頭にブルーのサングラスをのせた女学生が1人立っていた。ヘアーワックスで湿らせた漆黒のロングヘアーが特徴の女学生だ。
「失礼します。わたし、水咲と申します」
水先と名乗るその女学生は、かなり挑発的な格好をしていた。半袖の黒のブラウスの襟を立てて上2つのボタンを外し、その中に潜む胸の谷間をわずかに見せている。ヒップにフィットした真っ赤なマイクロミニスカート、かかとの高い白のサンダル。花柄模様の黒のストッキング。その長い脚をこれでもかと言わんばかりに露出させていた。
薄っすらと塗ったブルーのアイシャドウ。さらに、鮮やかなピンクの口紅にグロスを塗っているので、唇が光を照り返して妖しく艶めかしい。だけど、化粧と呼べるのはそれくらいで全体的には薄化粧だ。
アクセサリーは左手首に腕時計と右足首にシルバーのアンクレットを身に付けているくらいだった。その風貌から遊び人であると判断しがちだが、どこか落ち着いた雰囲気が漂っている。
「神田川先生でいらっしゃいますよね?」
やけに透き通った声だ。神田川にはとても理解できない服装ゆえに、その女学生は賢そうには見えないのに、言葉遣いがちゃんとしていることには少し驚かされた。
「そうだけど」
「初めまして。初めてお会いして申し訳ないんですが、実はちょっと先生とお話ししたいことがあるんです」
神田川はその女学生がビデオカメラを肩に提げていることに気が付いた。その瞬間、さきほど印刷室前で集まっていた学生の1人であることにも気が付いた。
どういうつもりなのだろうか。なぜ、こんな女学生が自分の大切なビデオカメラを持っているのだろう。
神田川は疑心暗鬼を作って水咲を部屋に通すことにした。
「どうぞ」
「失礼します」
彼女を部屋に入れると間もなく、いい匂いのする香水が飛び交い始めた。
神田川はパイプ椅子に彼女を座らせ、自分は事務椅子に座って少し彼女と距離を保った。ところが、少し距離を置いたことにより、神田川の頭にさきほどの統計学の講義がオーバーラップした。もしかしてこの学生、さっき講義中に怒鳴りつけた女学生なのではないか、と。
カメラをテーブルに置いた女学生はその長い脚を組むと珍しそうに講師室を見回した。
「先生は統計学ですよね? わたし本当はとりたかったんですが、かなり人気があって、抽選もれちゃってだめでした」
「君、名前なんだっけ?」
「水咲です」
出欠をとらないから確かなことは言えないが、その名前に全く聞き覚えはない。だが、その服の色具合から見ても、さっき怒鳴りつけた女学生に限りなく似ている気がする。
自分の記憶に確信を持つため、神田川はダイレクトに聞いた。
「君、さっき私の講義に出てたよね? 私語がうるさくて私に怒鳴られた学生だよね?」
「え?」
そのときの水咲のうろたえた表情を神田川は見逃さなかった。間違いない、この学生だ。
神田川はここぞとばかりに目一杯の皮肉を込めて攻撃した。
「間違いない。確かに君だ。私が怒鳴ってしばらくしたら、教室を出ていったよね? あれはどういうこと?」
さて、どんな言い訳が返ってくるのだろうか。
「ああ、ごめんなさい。あれ、先生の授業だったんですか。実は教室間違えちゃったんです」
やっぱりバカはバカな言い訳しかできない。そんな見え透いた嘘が通じるとでも思うのか。私は騙されない。
「そりゃ嘘だろ? だって君、誰かとコソコソ話してたじゃないか。私はしっかり覚えているよ。一緒に授業に出てる友達だろ? だから私は怒鳴ったんだよ」
思い切り言ってやった。が、彼女は依然笑顔だった。
「ああ、それは隣の人に、ここは何の授業か聞いていたんです。そしたら先生に怒られちゃって。ごめんなさい」
何だかしっくりこない言い訳だが、それについて他に意見することがなくなってしまったので、それ以上深く追求することはやめて本題に切り替えることにした。
「それで話って?」
「実はついさっきのことなんですけど、これが発見されたんです」
水咲は目の前のカメラを指した。
「どうしたんだ、これは?」
そんな質問はどうでもいいことだった。本当に知りたいのは、どうしてこのカメラを彼女が持っているのか、である。
「誰のかはわからないんですが、問題なのはここに映っているものなんです」
彼女はカメラの電源を入れ、再生の準備をしながら事の発端を語り始めた。
「ある学生のカップルが最近ケンカしたらしいんですが、今日彼の方があやまって、よりを戻したらしいんです。で、そこまではいいんですけど、それがそのままお互い気分が高まったらしくて、近くの印刷室で愛を確かめようとしたらしいんです……」
ほんとに何を考えているんだ、最近の学生は。どうしようもないバカどもだ。ここをどこだと思っている。
すると、目の前の女学生はまたバカなことを言い出した。
「あのぅ、愛を確かめるっていう言葉の表現の意味、わかります? エッチする、ってことですよ」
「いちいち言わなくてもわかる」
「そうですか、ごめんなさい。ちょっと遠回しに言い過ぎたかなぁ、って思って。愛の確かめ方も人によって色々あるじゃないですか。手をつなぐとか、抱き合うとか、キスするとか、とにかく言葉で攻めちゃうとか……」
「わかった! もういい!」
今日2度目の絶叫だった。
まったく、よくも平気でそんな言葉を口にできるもんだ。親の顔が見たい。
「ごめんなさい。それで、エッチしようと思ったんですが、そこで邪魔が入っちゃったんです。学生課の茅ヶ崎さんという方がいらっしゃるんですが、茅ヶ崎さんが、そのカップルが印刷室に入るのを偶然見たそうなんです。それで『なにやってるんだ』っていうことになって、そのカップルをそこから追い出したそうなんです」
水咲は一呼吸置いて再び話し始めた。
「それでそのカップルのせいで印刷室に積まれていたダンボールが倒れたらしくて、茅ヶ崎さんがそれを片付けようとしたら、一番下のダンボールからこのビデオカメラが出てきたんです。しかも、そのときテープは回りっぱなし。ずーっと録画されてたんです」
なるほど。そういう経緯で発見されてしまったのか。
「テープが回っていたということは何かを撮ってたんだな?」
神田川は話を合わせる為に答えを知っている質問をした。
「これです」
彼は立ち上がり、水咲の向かいのパイプ椅子に座る。
水咲は再生ボタンを押そうと、体を前に屈めた。スカートの奥に隠れている残りわずかの太ももが少し露出した。神田川はそれを見逃さなかった。その光景をしっかりと目に焼き付ける。もう少しで見えそうだ。あともう少し屈めば……。だが、水咲の長い髪が垂れて膝を覆ってしまった為、見えなくなってしまった。
「それじゃ、再生しますね」
彼女の言葉で我に返った神田川はすぐに視線をカメラの液晶画面に戻した。
数秒間、画面は霧がかかったように真っ白だったが、次第に何かが浮かび上がった。それは室内だった。画面の中央にはどこかの部屋の柱が映っている。柱には黒い横線が数本引いてあるのが見える。そんな映像も束の間で例の階段の場面に切り替わった。
「どうやら重ね撮りしたみたいですね」
液晶画面は誰もいない階段を20秒ほど映し続けると、階段を上って来る1人の女学生を映し出した。彼女はズボンを履いている。
「何なんだこれは? 何を撮っているんだ?」
学生の頃に演劇部に入部していたわけではない。俳優を目指していたわけでもない。だが、人間必死になると、とてつもない力を発揮する。今の芝居は、学生の頃に演劇部に入っていた、と言えるほど迫真に迫っていた。
「ちょっと待って下さい」
水咲はテープを早送りした。学生の行き来が激しくなったり衰えたりする。やがて、目的の位置までくると再生に戻した。
「ここです。見てて下さい」
1人の女学生が上って来る。豹柄のワンピースを着ている。それは今日、印刷室を出る直前に映したやつだ。彼女は背を向けると階段を更に上る。すると、それを追うようにカメラはズームインし、画面いっぱいにスカートの中が映し出された。
「どう思いますか? わたしが見た感じだと、カメラの目的はこれだと思うんです」
「なるほど、よくわかった。女性のスカートの中を盗撮している者がいるということだね?」
「そうです」
彼女はにっこりと微笑んだ。
神田川は次の言葉が見つからず、黙ってゆっくりと立ち上がると元の事務椅子に戻った。
「大学はこのカメラだけを押収して、あとは事をうやむやにしようとするみたいです」
彼は心の中で何度もうなずいた。うやむやにするのはお偉い方の得意技だ。
「そりゃ、そうだろう。まず疑いがあるのはこの大学の人間だな。この大学って総勢何人いるんだろうな?」
「約7千人いるそうです」
「7千もいるのか。こりゃ、1人を絞るなんて不可能だな」
「いいえ。もし、大学関係者なら、正確には7千人の半分ですよ。だって、どう見たって犯人は男ですから」
水咲はビデオを停止させて早送りした。テープは唸りを上げて回り始める。
「7千人の半分と言ったって3千5百人だ。それでもまだ多い。それにその人数は、犯人がもし大学関係者の場合だろ? 関係者以外だったらどうする? 外部の人間かもしれない。学内には勝手に入ってこれるからな」
これで容疑者は無限に広がったことになる。ここから犯人を特定するなんてまず不可能だろう。
ところが、目の前のバカな女学生は脚を組みなおすと、神田川の考えを否定した。
「うーん、外部の人間がわざわざ校舎に忍び込んで、カメラを隠す箱まで作って撮ろうとするかなぁ。別にうちの大学じゃなくてもいいと思いません? 撮影できるポイントなんて外の方がたくさんあると思います」
「いや、それはわからんよ。大学なら確実に若い女性がいるじゃないか。実は大学は一番いいポイントなのかもしれない」
「あっ、そっか。それも考えられますね」
犯人は学内にいるという彼女の考えをうまく回避したかのように思われたが、ここで神田川は重要なことに気が付いた。なぜ彼女は、この話を自分のところへ持ってきたのかだ。容疑者は最低でも3千5百人いると言っておきながら、彼女は真っ先に自分の下へやってきたように思われる。ということは、はなから疑われていたということだ。だとすると、なぜ? どういうことだ?
神田川は少し様子をみようと、とりあえず差し障りのない質問をしてみた。
「しかし、どうして君がビデオカメラを持ってるんだ?」
「大学はうやむやにしたくても、わたしはうやむやにしたくないんです。わたしも女なんで。だから大学に『わたしが犯人を捕まえます』って言ったら、喜んで受け入れてくれました。そんなことがあっただなんて、外部に知られたくないですからね。それに、このまま犯人を野放しにしておいたら、これからも撮り続けますから」
何を偉そうに。学生は学生らしく、勉強だけやっていればいいんだ。女ならもっと女らしい格好をしろ。パンツが見られたくないなら、丈の長いスカートかズボンを履け。見えるような格好をしているから悪いんだ。撮られたって仕方ないだろ。大体なんだ、そのファッションは。羞恥心も何もあったもんじゃない。
そんなことを考えていると、言わずにはいられなくなった。
「ちょっと聞きたいんだが、君もそうだけど、どうしてそんなに短いスカートを履くんだね?」
今の質問が不可思議に思えたのか、彼女はきょとんとしながら答えた。
「好きだからです。短い方が体に合っているっていうか。それに、かわいいと思うし。男の人だって綿パンが好きとか、ジーパンが好きとかありますよね? それと同じだと思います。わたしはジーパンよりもロングスカートよりもミニの方が好きなんです」
「私は別に盗撮犯の味方をするわけじゃないが、見られたくないなら、見られない格好すればいいじゃないか。階段上るときにスカートを押さえている学生がいるが、あれの意味がわからんな。矛盾してる」
それに対して水咲は笑顔だったが口調は強かった。
「見えた見えないが問題じゃないんです。問題なのは観賞目的でビデオに撮るという行為です。それが許せません。たまたま見えたのと覗き込むのとでは天と地の差があるんです」
それは、未だ姿の見えぬ犯人に対してではなく、自分に言われている気がしてならなかった。
「ちなみに、わたしはスカートは押さえませんけどね。見えちゃったら仕方ないです。あっ、勘違いしないで下さい。決して見せたがりではないですよ。純粋にミニが好きなだけです。わたしの場合、ミニはミニでもマイクロミニなんですけどね。普通のミニよりもさらに短いんです」
「そのうちどんどん短くなって、しまいには履かなくなるんじゃないか?」
軽く皮肉を言ってみたが、全くと言っていいほど水咲に効果はなかった。
「ああ、逆にそれはいいかも。最初は刺激が強いけど、慣れてきたら男の人なんて見向きもしなくなるかもしれませんね。盗撮もなくなるかも。先生も最初はまともに授業できないけど、慣れればきっと大したことないですよ」
神田川は呆れ果てた。自分から話をふったとは言え、それが相乗効果となって返ってくるとは思わなかった。
「あのね、君は教師に向かってなんてことを言うんだ。これだから今の若者はだめなんだ。私はもう失礼させてもらうよ」
うまい具合に話がそれてキリがよくなったので、その勢いで講師室から出ようと思い立ち上がった。しかし、人生そう思い通りには行かない。
「大学が1つ気にしているのは、犯人は盗撮した女学生にビデオを送り付けて多額の請求をするんじゃないかってことです。でも、わたしの考えでは犯人はただの趣味ですね、これは」
それを聞いて神田川は足を止めた。
「なぜ趣味だと?」
「犯人はスカートの中を主に撮っています。もし本人に送り付けるなら、まずしっかりと顔を撮るはずです。けど、顔は一切撮ってないんです。下半身ばっかり」
この推測を期に、この女は容姿に似合わず意外に洞察力があるのではないか、と思い始めた。
気が付くと、2時限目はとっくに終了していた。いつの間にかこの女学生の話に付き合っていた。
「わかった。君の話はよくわかったよ。でも、私は昼食をとったら学校を出ないといけないから今日はここまで。また来週にしてくれ」
こうして神田川は、中途半端に話を終わらせた。この女は鋭いと察したからだ。いつまでも一緒にいると、いつかボロを出してしまうかもしれないので早く彼女から離れようと思った。しかし、彼女はそれを許さなかった。
「ちょっと待って下さい。じゃ、お昼ご一緒していいですか? わたしもお腹減ったので」
なんなんだ、この女は。まだしつこく付きまとう気か。
「私は学生と一緒に飯を食うつもりはない。飯がまずくなる」
「えー、それはひどいですよ。それはわたしだからですか? わたしがご飯をまずくさせるんですか? そんな女に見えるんですか、先生には?」
「いや、だから、今まで学生と一緒にご飯を食べたことないからさ、だから……」
「わたしだって、先生と食べたことなんてないですよ。大丈夫ですよ。大丈夫ですから、行きましょう」
神田川はまだ彼女を受け入れることができず、渋々立ち上がり、水咲に背中を押されて仕方なく外へ出た。
「あっ、忘れた」
そうつぶやいた水咲はもう一度講師室に入り、カメラを肩に提げて出てきた。
「重要な手掛かりを忘れるところだった。危ない危ない」
そうして2人は肩を並べて歩き出す。神田川は仏頂面でポケットに手を突っ込み、少し水咲と離れて歩いた。校舎の外に出るまで彼らは無言だった。
結局、重要な疑問がまだ解決されていない。どうしてこの女は、盗撮の話を私にしにきたのだろうか。彼女は私の授業をとれなかったと言っていた。ということは、私も彼女も今日が初対面だ。それなのになぜ?
ついに神田川は、核心へ迫る質問を口にした。
「1つ教えてくれ。どうして私にビデオのことを言いにきたんだ?」
水咲は横を向くと、にこりと笑った。
「そのことお話ししたかったから、先生とお昼、ご一緒したかったんです」
彼女は再び前を向き、学食まで黙って歩いた。
第2話 最後の映像~事件編《前編》【完】