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"最上の麗人"ウルバノ・ダイアーが、ロス伯爵家の門を叩いたのは初夏の風が吹く日のことだった。
「本日はどのようなご用向きですか」
来客が公爵令嬢ともなれば、応対するリーンハルトの猫被りも厳重になる。初夏の風に負けない爽やかな笑みを浮かべて、ウルバノを招き入れていた。
「アルベール様がお手持ちの絵画を譲ってくださるというので、受け取りに参りましたの」
「では父を呼んできます。こちらに掛けてお待ちください」
アルベールは有名画家との交流が多い。しかし、息子には芸術への情熱があまり受け継がれなかった模様である。リーンハルトは絵画を見ても、上手いか下手かくらいしか分からない。だが、興味が薄いことを絵画好きのウルバノの前で見せる男ではなかった。"稀代の美青年"として望まれる人物像を、そのまま映し出したリーンハルトがそこにはいた。
「さすがアルベール様。入手が困難といわれるシャロム画伯の絵までお持ちとは」
「彼とはちょっとした顔見知りでしてな。ウルバノ様のご要望とあらば、喜んでお譲り致しますよ」
「感謝致しますわ」
絵画を受け取ったら終わりと思いきや、ウルバノはリーンハルトへと向き直った。妖艶な唇にたたえた微笑みは、ぞっとするほど美しい。故に思考が読めないのだ。読ませないために、そうしているのかもしれない。
「リーンハルト様。少しお話したいことがございます。お時間をいただいても?」
「もちろんです」
周囲の人間はお似合いだと持て囃すが、とんでもない。彼はウルバノに拒絶されているし、リーンハルトもまた彼女を苦手としている。双方には甘い感情など微塵も存在しないのだが、何かの折に婚約者という話題が持ち上がったところで、ウルバノにはっきり言われたのだ。貴方は友人としてなら申し分ない。けれども生涯の伴侶としてはお断りだ、と。
『身分、容姿、賢さ…それぞれ生まれ持った武器を活かさないのは愚の骨頂。生きるとは闘うことだと、わたくしは思っております。しかし戦士にも休息は必要ですわ。心の拠り所を求めているのに、腹の底を明かさない方がいては休まらないでしょう?ですからわたくし、"仮面夫婦"は絶対に嫌なのです。貴方と結ばれるとは、そういう事だと思っていますの』
リーンハルトとて、一瞬たりとも気が抜けないこの輝かしい麗人は扱いにくくて困る。心が休まらないのはお互い様だろうとは口が裂けても言えなかったが、世間の憧れに反して二人は相容れない関係だったのだ。同族嫌悪とまではいかないにしても、まあ似たようなものに違いない。
場所を応接室に移した二人は、机を挟んで向かい合う。先に口火を切ったのはリーンハルトだ。
「お話とは何でしょうか」
「いっときは毎晩のように遊び歩いていた方が、ぱたりと姿を見せなくなったのですもの。気にならない方がおかしいと思いますわ」
父親にオリヴィアとの不仲が知られてからというもの、彼は社交場へ出ることを控えていた。溜まった鬱憤を発散ができればと、適当に参加していただけで別段、夜会が好きな訳でもない。鬱憤は消えるどころか沈殿していく一方だったので、止める明確な理由ができて良かったくらいだ。
「…お気遣い、痛み入ります」
「ふふっ、茶番はやめて本題に入りましょうか。オリヴィア様と何があったのです?」
貴族界を時めく麗人は伊達ではない。断定するような口調から察するに、オリヴィア達が仲違いをしたことは、すぐにでも耳に入っていただろう。もしかすると、原因までも突き止めている可能性だって考えられる。それでも敢えて問いかけるウルバノの真意とは如何に。リーンハルトは言葉を慎重に選ぶ。
「ウルバノ様ならご存知ではないのですか」
「お二人の間で"何か"があった、わたくしにわかっているのはそこまでです」
ウルバノとオリヴィアが何度か会っている事は、リーンハルトも把握していた。そのために手紙のやりとりもしているであろう事も簡単に予想がつく。だからウルバノが知らないはずはないのである。
「彼女からお聞きになっているでしょう。わざわざ俺の口から言う必要もないかと思いますが」
「いいえ?オリヴィア様は何も仰らなかったですわ」
「まさか」と思ったし、何なら声にも出ていた。リーンハルトの嘲笑を、ウルバノは優雅に否定する。
ウルバノによれば、どれだけ心配する言葉をかけても、相談に乗ると伝えても、オリヴィアは口を割らなかったという。それこそ、リーンハルトに対する悪口はただの一度も言わなかったらしい。
「原因は自分にあると、辛うじてお聞きできたのはそれだけですの。だから貴方にお聞きするしか術がないのです」
そんな馬鹿な。女は陰口を叩く生き物だ。親友だと宣言したその口で、汚く罵るものだろう。あのオリヴィアのことだから、いつもの剣幕で相手を悪く言ったに決まっている。そう思っていたのに、ウルバノは違うと言う。信じられるわけがなかった。
「…ウルバノ様の手前、良い格好をしているだけですよ。あれは、そんな殊勝な性格ではありません」
「そうでしょうか」
ウルバノはいっそう笑みを深めた。少し細めた瞳には、全てを見透かすような煌きがある。この瞳だ。これがリーンハルトは昔から大の苦手なのだ。
「オリヴィア様は思慮深い方と、お見受けいたしますわ」
「…貴女は彼女の醜い部分をご存知ない」
「ええ。わたくしはオリヴィア様の一面しか存じません。ですが、それは貴方も同じではありませんこと?あの方を多角的にご覧になった事がおありなのですか?」
「いや、それは…」
軍配はウルバノに上がった。だってリーンハルトが知っているのは、唇を折り曲げて睨んでくるオリヴィアが精々だ。意外と博識なのはウルバノも知るところであり、それ以外の側面は見たことがない。見ようともしなかった、のかもしれない。
「同年代の中でわたくしのお喋りについてきてくださったのは、あの方だけでしたわ。何よりもご自分の意見を臆せず告げる清々しさに好感が持てます。ですのに、貴方がオリヴィア様を連れて来てくださらないから、とても寂しく思っていますのよ」
「………」
「言葉にして伝える事を軽視してはいけませんわ。次の夜会には是非お二人で、出席なさってくださいね」
ウルバノは首尾一貫して艶やかに微笑んでいた。まったく隙が無い彼女が心の拠り所として誰を選ぶのか、興味は尽きない。だが今は、他人の事はいい。
かつてウルバノが語った言葉は、非常に痛いところを突いてくれた。リーンハルトは人が羨む面の皮を武器に、社交界で闘ってきた。整った顔立ちだけで何もかも成功するほど、この世界は甘くない。親の前であっても完璧な仮面を被り、巧みな話術で人心を掌握し、上がり続ける期待に応える。そうやって"稀代の美青年"は誕生したのだ。けれども彼には憩いの場が無かった。生まれ育った屋敷に居てもである。それを苦痛とも感じぬほど我武者羅に駆けてきたが、指摘された途端に足元がぐらついた。
この先何年も、何十年も、他人が望む仮面を被り続けるのか。期待に応えようと心をすり減らし続けるのか。そんな生き方は、虚しくないのか。
爵位を継ぐ者として生まれたからには、負わねばならない責任がある。よくよく理解していたからこそ、ウルバノは『心の拠り所』が必要だと言ったに違いない。力を貰える源があれば闘える。それをどこに求めるかは自分次第だが、貴族に与えられる選択肢は多くない。数少ない選択の一つが伴侶なのだろう。故にあの時、リーンハルトは婚約者となる令嬢に伝えようとしたのだ。仮面夫婦が嫌だったのは、きっとリーンハルトの方だ。
『お前に言っておくことがある───俺は今まで望まれるままの人間を演じてきた。これからもそうするつもりだ。だけどお前に対してだけは、演じるのをやめたい。理想を押し付けられても俺は応えない。失望させるかもしれないが、俺なりの誠意であることを理解してもらいたい』
無論、多少の怒りは覚悟の上だった。もしかしたら泣かれるかもしれないとの心構えもしていた。ところが蓋を開けてみれば、肝心な言葉を伝える前にオリヴィアは怒り出したのだった。よもや杞憂ごと木っ端微塵に蹴散らされるとは思わなかった。しかしながら裏を返せばいちいち念押しせずとも、オリヴィアの前では仮面を被るまでもなかったという事である。何もかもが初めて尽くしの令嬢だ。
("最上の麗人"に言われたら、行くしかないな…後が怖い。でも、あくまで仕方なくだ)
内心で負け惜しみを呟きながら、リーンハルトはようやく重い腰を上げたのだった。
「リーンハルト様?どちらまでお出掛けですか」
納得がいかない、といったていで出て行こうとする彼を、護衛が慌てて引き留める。唸るような声で返ってきた「パチル侯爵家」との答えに、護衛の表情が変わった。リーンハルトは怪訝そうな視線を向け、そこで思い出す。この青年はオリヴィアの件で口を挟んできた護衛だ。
「…お前はあの日、何か見たのか」
リーンハルトは、オリヴィアが己を擁護するための嘘でもついたに違いないと決めつけていた。しかしウルバノの話を聞いた後では疑念が浮かんでくる。護衛は言い訳じみたことは聞いていないと断言していたが、事実なのかもしれない。だとすれば護衛の彼は何を根拠に誤解があると告げてきたのか。
「私が見たのは、使用人の女性がオリヴィア様を心から慕っているご様子です」
それは、リーンハルトが目にした光景とはかけ離れたものであった。
ウルバノは百歩譲って良いとしても、何故、一介の護衛が婚約者を差し置いて、オリヴィアの知られざる一面を目撃しているのだ。そこはかとなく腹立たしいではないか。
渋面を濃くしたリーンハルトは、パチル家へと馬車を急がせるのだった。
先触れも出さずに訪ねたものだから、オリヴィアの驚き方は尋常ではなかった。びっくりしすぎて、血の気が引いたほどである。硬直する彼女に代わり、兄のサンディが来訪者の対応に当たった。妹とは百八十度異なる雰囲気のサンディに、リーンハルトは若干の戸惑いを感じつつも好青年ぶりを崩さない。
「突然の訪問をお詫びします」
「いやぁ構わないよ。妹に用事かい?」
「はい。近くを散策でもいかがかと思いまして」
「それは素敵だ。行っておいで、オリヴィア」
「えっ。お兄様っ!?ちょっとお待ちに…っ」
依然としてろくに身動きできないオリヴィアは、兄に帽子を被せられ、日傘を握らされと、されるがままである。最後に背中を軽く押され、ようやくオリヴィアは動き出す。ぎくしゃくして変な歩き方になってしまう妹を、兄は微笑ましく見送るのだった。
パチル邸から緑地公園までは大して離れていない。今日は日和も良いので、リーンハルトは歩いて向かうことにした。散らかった考えを纏めるのにも丁度良かったのだ。馬車を使わない事に関して、オリヴィアも文句は言わなかった。彼女は足が痛くても、意地を張って歩調を乱さない令嬢だ。この程度の距離を歩かされようが何の問題も無いし、彼女は今それどころではなかった。
公園に到着すると、リーンハルトは護衛を入り口に待機させ、自分は少し奥まった所にある長椅子に腰掛けた。逡巡したものの、オリヴィアも彼の手招きに従い、隣に腰を下ろす。二人の間には、もう一人座れるくらいの空間がある。その隙間をそよ風が吹き抜けるが、沈黙までは攫ってくれなかった。オリヴィアは屋敷を出てから俯いたままで、今も膝に乗せた自分の拳だけを見下ろしている。
他方、リーンハルトはというとまだ思考が纏まらずにいた。頭の中で考えている事は沢山あるのだが、いざ声に出そうとすると上手い言葉が見つからない。オリヴィアが勝手に突っかかってくるから、こちらの口も勝手に動いていたのだと、遅まきながら気付かされる。
均衡を破ったのはオリヴィアだった。
「…わたしに何かご用でしたか」
それだけ発するのに五分はかかった。彼女はこれ以上の沈黙に耐えられなかったのである。
「…この間の件だが」
「この間?」
「分からないのか」
「心当たりが多いので」
相変わらずのつっけんどんな態度をとられ、リーンハルトはかちんときた。何だか知らないが、うだうだやってる自分が馬鹿みたいに思える。
「使用人に怒鳴っていた件だっ」
語尾が強まった拍子に、オリヴィアの体が竦む。
「お前の言い分を聞かず終いだった。だから聞きに来たんだ」
「……えっ?」
「わかったら、さっさと話せ」
オリヴィアは恐る恐る面を上げ、隣に視線を向けた。すると、不服そうに腕組みしたリーンハルトの流し目と視線がかち合った。しかしオリヴィアはすぐに顔ごと背けてしまう。
「…あれは……リーンハルト様の言う通り、わたしが悪かったんです」
「俺が聞きたいのは謝罪じゃない」
「わたしがレティを罵ったのは事実ですから」
「事実もいいから、理由を話せと言っている!」
「わたしの口が悪いのはご存知でしょう!」
ああ言えばこう言う、それはいつもと同じなのだが、オリヴィアは肝心な部分について白状しようとしない。頑なに自分の拳を睨んだままリーンハルトを見もしない。その事が何よりも癪に障った。額に青筋を浮かべた彼は、オリヴィアの眼前に立ちはだかる。そうなればオリヴィアも、彼を見上げない訳にはいかなかった。
「なっ、なんです…」
「まったく…いつも喧しいくせに、その口は飾りか!?聞いてもない事はべらべら喋りやがってこの馬鹿!」
「はあ!?馬鹿とはなんです!?失礼なっ!」
もはや脊髄反射でオリヴィアも立ち上がり、二人して睨み合うことになる。
「お前の口も態度も悪いことくらい、よく知ってる。だけど、お前は性格まで悪いかどうかは知らない。お前が本当に理由もなく使用人を虐げる人間なのか、知らないままなのはすっきりしないんだ」
「………」
「だから、ちゃんと話してほしい」
撫然としながらも、リーンハルトは真剣な眼差しをしていた。翡翠の瞳に見据えられ、オリヴィアはたじろぐ。唇を開きかけては閉じるという動作を繰り返し、それから彼女は独り言ちるようにぽつりとこぼした。
「…話したところで、無駄ですわ」
「…何だと?」
「だって…っ、昔っからそうですもの」
眉を吊り上げたオリヴィアの顔は怒っているようにも見え、また、どうしてか悲しんでいるようにも見えた。
「何を言ったって、わたしの言葉なんか信じてもらえない!あなたもどうせ…っ!」
「信じる」
「なっ……」
「信じるから、お前は馬鹿正直に話せばいいんだよ。馬鹿のくせに、ごちゃごちゃ考えるなこの馬鹿」
「馬鹿を連呼しないでください!」
馬鹿馬鹿言われすぎて、一瞬は頭に血がのぼったオリヴィアだったが、次第に怒りが萎んでいく。そして、曲げた唇と丸めた拳にきゅっと力をこめた。彼女の手は強く握り続けたせいで少し震えていた。
(『信じる』なんて言われたの…初めてだわ)
たとえ嘘も方便だったとしてもだ。面と向かって信じると誓われることは未だかつてなかった。今、この瞬間まで。