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 決裂した日以降、リーンハルトから気まぐれに届いていた手紙がぱったり途絶えた。事務連絡みたいな手紙は、恐らく彼の父親からの指示で出していたのだろうがそれすら無くなった。手紙が来なくて寂しいといった感情は特に無い。あるのは罪悪感だった。

 騒々しいオリヴィアも快活なレティも、淡々と日々を過ごしているため、パチル家の屋敷は水を打ったように静かである。オリヴィアがいかに毎日騒いでいたかがわかると同時に、屋敷で働く使用人達は物足りなさも感じていた。彼女の賑やかさに慣れ親しんでいたからだろう。

 そんな昼下がりのこと。火が消えたみたいになっていた屋敷に来客があった。


「ステラ様が?」

「はい。お嬢様のお見舞いにと…」


 感情面はさておき、体はすこぶる元気なのに見舞いとはいったいどういう訳か。不思議に思いつつ玄関先まで出て行くと、小さな花束を抱えたステラが立っていた。


「こんにちは。オリヴィア様」

「ご機嫌よう。中へお入りになったら?」

「いえ。長居してはお体に障りますから、すぐにお暇します」

「別に、どこも悪くないですわよ」

「えっ?でも…」


 どうやらリーンハルトは独りで園遊会や夜会に赴いているようだ。その際、自分の婚約者は体調を崩しているので出席できない、と話してまわっていたとはステラの弁である。彼女が参加した園遊会で、偶々見かけたらしい。


「心なしか、お声に元気が無いような気がしますから、やっぱり休んでおられた方が…」

「…そうさせてもらいますわ。わざわざ来てくださって、ありがとうございます」

「いえ。お体を大切になさってくださいね」


 ステラが置いていった情報によると、リーンハルトは夜会で楽しそうに談笑し、大勢の令嬢達とダンスに興じていたという。お伽話の王子様のようでした、そう夢見がちに語るステラを、オリヴィアは醒めた気持ちで眺めていた。仮にも病欠としている婚約者がいる身でそういった行動をとる意味を、彼が知らないはずはない。軽い男だと誤解を生んでしまう可能性がある。いや、オリヴィアが相手に限り「あのご令嬢が婚約者では…ね」などと、同情を誘うのかもしれない。どちらが彼の狙いか不明だが、はっきりしているのは婚約を破棄したいとの言葉は本心だったという事だ。


(そうなればお父様はがっかりなさるでしょうし、先方にもご迷惑をかけてしまうわね…)


 もし、オリヴィア達が貴族でなかったなら。嫌いな相手とは結婚したくないと口に出すのは、もっと簡単だった。リーンハルトだってさっさと見切りをつけ、新しい相手を探せただろうに。オリヴィアの縁談はリーンハルトしか纏まらなかったが彼は違う。


(わたしは侯爵家であるという、唯一の価値すら守れないのかしら…)


 相手の気持ちも考えず、身分に固執するばかりの人間には当然の報いなのかもしれない。オリヴィアは目を伏せて、唇を噛むのだった。




 不意を突くかのように、リーンハルトからの手紙は届いた。彼と手紙のやりとりなど、遠い昔のことと錯覚し始めていたオリヴィアに衝撃が走る。正式に婚約破棄されるのか、それとも別件か。恐る恐る封を切り、手紙を開く。便箋は白紙に近かった。何せ、記載されている日時に迎えに行く旨しか書いてないのだ。これは一応、デートのお誘いという事になるのか。だが、推察するにロス家当主から指示されて、嫌々書かざるを得なかったのだろう。僅かな文面からでも、不本意なのがありありと見てとれる。


 そして約束の日、オリヴィアは支度を済ませて外で待っていた。空は快晴だが、彼女の心は雨雲に覆われている。茶会だって気が重かったけれども、今日の比ではない。

 徐々に近づいてくる馬蹄の音に、思わずオリヴィアの肩が跳ねた。久しぶりに見るリーンハルトの顔からは感情が削げ落ちており、背筋が薄ら寒くなる。これならまだ、喧嘩腰でいた時のほうが余程ましだった。軽蔑を孕んだ冷たい視線が刺さると、オリヴィアは顔を上げていられなくなった。


「はやく乗れ」

「…はい」


 前回も同じ命令をされたはずなのに、全然違う音としてオリヴィアの耳朶を打つ。まともな会話が無いのも同様だったが、重い空気に押し潰されそうだと感じることはなかった。決定的な違いは、目的地に着いた直後に別行動を強要された事である。


「二時までにここへ戻って来い。あとは勝手にしろ」


 背中を追いかけようとしたオリヴィアを冷徹に突き放し、リーンハルトは振り返りもせずに姿を眩ませたのだった。




 婚約者を蔑ろにして単独で夜会を渡り歩いていた醜聞は、やがてロス伯爵の耳に入るところとなった。憤慨したロス伯爵ことアルベールは、息子を部屋に呼びつけ、婚約者を軽んじるな浮ついた行動をとるなと叱りつけた。しかし当の本人は「人を軽んじていたのは向こうが先だ」などと言って、一切聞く耳を持たない。挙げ句の果てには、彼女を選んだアルベールを責める言葉まで口にした。


「ロス家の人間である以上、当主の命令に逆らうことは許さんぞ」


 厳しく諭されたリーンハルトは、更に「婚約者と直ちに和解するように」とも厳命されてしまい、苛立ちを募らせたのだった。心の底から不本意であったものの彼は渋々筆を取り、逢瀬の約束を取り付けた。

 しかし、リーンハルトが従ったのはそこまでであった。父親の手前、婚約者を連れて出掛けはしたが、外出先では父親の命令もオリヴィアのことも無視したのである。彼女とは一分一秒も同じ場所にいたくないと思ったのだ。とはいえ、仮にも侯爵家の令嬢に大事があっては叱られる程度で済まなくなるため、護衛を一人残しておいた。


(配慮してやっただけ感謝しろよ、性悪女)


 立腹のリーンハルトは、誰にも言えない台詞を心の中で思い切り吐き捨てるのだった。


 同じ頃、ぽつんと残されたオリヴィアは、長いことその場に立ち尽くしていた。日傘を握りしめる手が、微かに震えている。


「…オリヴィア様。今日は日差しが強いですから、あちらの木陰に移動しませんか?」


 動かない彼女を見かねて、リーンハルトが残した護衛が控えめに声をかけた。


「…そうですわね」


 小さく頷いたオリヴィアは、とぼとぼ足を動かす。護衛の位置からは日傘に隠れて表情はわからなかったが、小さくなった後ろ姿は同情を誘うものだった。職務中の会話は最低限にしなければならないのだが、護衛の青年は消沈するオリヴィアに励ましの言葉をかける。前回はあんなに溌溂としていた人間が肩を落とす様は、見ていられなかったのである。


「元気を出してください。私はリーンハルト様の護衛を務めて六年になりますが、あのようにご自身の感情を露わになさるお姿を拝見したのは初めてです。きっとオリヴィア様だけが特別なのですよ」

「特別だとしても、悪い意味に違いありませんわ」

「決してそのような…」

「でも、ありがとうございます」


 日傘を持ち上げて護衛を見遣るオリヴィアは、ほんの僅かに眦を和らげていた。常と異なる表情を目にした護衛は、妙にどきりとしてしまう。今までのオリヴィアといえば、主人であるリーンハルトと言い合うばかりで、険を含まない面持ちを見せるのは初めてだったのだ。


「い、いえ…」

「ただ立っているだけでは疲れますわね」


 彼女の言う通り、直立不動を保つのは思いのほか辛い。動いている方が幾分楽なのである。

 オリヴィアはそう告げてから、前を向いて歩き始めた。特に行きたい場所もないが、人々の雑踏に紛れた方が沈みがちな気分も誤魔化せそうだった。


 当てもなく美しい街並みを散策していたオリヴィアであるが、鼻先を掠めた甘い香りに思わず立ち止まった。香りの出どころは、菓子の名店からだ。そういえば、兄のサンディがよくここの菓子を買っていたなと、看板を見上げながら思い出す。オリヴィアはお土産に買って帰ろうと考え、賑わう店内へと入っていく。

 店内に並ぶ菓子はどれも美味しそうだった。香りだけでお腹が鳴りそうになる。さて兄が好んで買っていたのはどれであったか。オリヴィアは商品名をまじまじ眺めて、記憶と合致する菓子を探した。しばらくして見つかったのはいいが完売となっている。


「大変申し訳ありません。そちらの品はたった今、売り切れとなってしまい…」

「そう…」

「ですが、あと二十分ほどで新しいものが焼き上がりますので、お待ちいただければ焼き立てをお渡しできます」

「じゃあ、外で待っているわ」

「かしこまりました。お包みできましたら、お呼び致します」


 こうして出来上がりを待つことになったオリヴィアは一旦外に出て、噴水の縁に腰を下ろした。青い空と涼やかな水音、その清々しい心地に浸るべく、ゆっくりと瞼を閉じる。護衛の青年も邪魔しないよう、静かに佇む。


「……オリヴィアお嬢様?」


 躊躇いがちな呼び声が聞こえた気がして、オリヴィアはぱっと目を開ける。突然の眩しさに何度か瞬きをする彼女の視線の先にいたのは、パチル家が雇っているメイドでアンヌという名の少女であった。買い物の帰りなのか、アンヌは両手で抱えるほどの荷物を持っている。


「オリヴィアお嬢様っ!」


 燃えるような緋色の髪が揺れた途端、アンヌは顔を輝かせて駆け寄ってきた。急に走り出すものだから、抱えている野菜や果物が転がり落ちそうになっており、オリヴィアは目を剥いた。


「そんなに慌てたら危な…」

「その節は本当にありがとうございました!!」


 オリヴィアが声を上げようとしていたのにも構わず、アンヌは勢いよく一礼した。案の定、ジャガイモがころころと地面を転がっていく。眉間に皺を寄せつつジャガイモを拾ったオリヴィアは、ぶっきらぼうに手を突き出すのだった。


「言ったそばから落とすんじゃないわよ!」

「えへへ、すみません」

「お母様のご容態はどうなの」

「はい。おかげさまで随分よくなりました。お嬢様には感謝してもしきれません」

「休暇をとるのは当然の権利でしょう。あなたの感謝はお門違いよ」


 話がまるで見えてこないので、護衛の青年は黙って成り行きを見守っていた。


「お嬢様お一人でお出掛けですか?それに、見かけない護衛の方ですけど…」


 オリヴィアは大抵、父や兄と共に外出するので、独りなのは珍しいのだ。オリヴィアは一瞬、言葉に詰まったものの、単調な声音で有耶無耶に終わらせようとする。


「…ここでわたしと会った事は、あなたの胸に秘めておいて。いいわね?」

「え?はい、わかりました…」


 丁度その時、菓子が焼き上がったとの声がかかる。オリヴィアが受け取りに向かった隙に、護衛はアンヌに説明を求めた。するとアンヌは、見知らぬ顔の青年にも嬉々として語り始めたのである。


 アンヌが長期休暇を貰ってから、まもなく半年ほどになる。一人暮らしの母が病で倒れたのだ。アンヌには姉もいるのだが、遠くへ嫁いで行ってしまったため、彼女しか母の面倒をみれる者がいなかった。しかしアンヌはまだ新人のメイド。休暇の申請は言い出しにくかった。家計にもゆとりがなく、休暇と引き換えに解雇を言い渡されれば、今後の治療代すら危うくなってしまう。だからといって病気の母を一人にはできない。

 困り果てて、しくしく泣いていたアンヌを見つけたのがオリヴィアだった。空き部屋で啜り泣くメイドを発見した彼女は、仰天するあまり強い口調で詰め寄ってきた。オリヴィアの剣幕に気圧され、アンヌはしゃくりあげながら事情を訴えたのだった。恐らく支離滅裂な説明になってしまっただろうが、オリヴィアは最後まで耳を傾けていた。そして話を全て聞くなり、大声で怒ったのである。


『そんな大変な時に、何やってるのよ!』


 アンヌを一喝してすぐ、オリヴィアは踵を返した。その足で家令のところへ飛んで行き、アンヌの休暇申請を直談判したのである。ほぼ一方的な話し合いの後、休暇をもぎ取ると呆気にとられて動けないアンヌを引っ張り、用意させた馬車に乗せたのだった。


『はやく帰りなさい!お母様が元気になるまで、働きに来なくていいわ!』


 オリヴィアはかんかんに眉を吊り上げていたのに、アンヌはこれっぽっちも恐いと思わなかった。むしろ胸が詰まって、一度は引っ込んだ涙が溢れてしまったくらいだ。


「普通は下っ端のメイドに、馬車なんて手配しませんよね」


 アンヌは思い出し語りを、そう笑顔で締め括った。相槌を打っていた護衛は、知らないうちに自分も微笑んでいたことに気付く。


「教えてくださって感謝します」

「いえいえ」

「二人は顔見知りだったのかしら?」

「あっ、お嬢様。お帰りなさいませ。違いますよ。ちょっと世間話で盛り上がっていただけです」

「ふうん?」

「もう一つご報告なんですが、私の姉が母の近くに越してくることになったんです。なので予定より少し早く復帰できると思います。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

「この際、休暇はきっちり消化してきなさいよ。部屋の隅でめそめそされる方が迷惑だわ」

「うふふ、ではお言葉に甘えさせていただきますね。ありがとうございます」


 笑顔で去っていくアンヌに、オリヴィアは唇を曲げながら手を振る。そんな彼女に、護衛の青年は敢えて知らないふりをして尋ねた。


「とても感謝されているご様子でしたが、何をなさったのですか」

「家に帰りたいと言うので帰しただけですわ」

「左様でしたか」


 オリヴィアが日傘の影に隠れているのを良い事に、護衛は微笑ましい視線を送るのだった。




 二時きっかりに戻って来たリーンハルトは、来る時と同様にひと言も喋らず、また一瞥もしなかった。オリヴィアも黙ってついていくだけで、やはり俯いたままであった。

 彼女をパチル邸に送り届け、あとはリーンハルトが帰るだけとなった際に、護衛の青年はおもむろに口を開いた。


「リーンハルト様。差し出がましいようですが、オリヴィア様と今一度、お話し合いなさってはいかがですか」

「…あいつに何か言われたのか」

「いいえ、何も。職務中の談話はご法度ですゆえ」


 護衛の彼は、婚約者同士の間でどんなやりとりがあったのか知らない。二人の仲が決裂したあの日、パチル邸に入っていく時のリーンハルトは至って普通の様子だったのに、出てくる頃には怒り心頭に発していた。全身から滲む怒気に、護衛は声も出せなかった。仮に出せたとしても問い質す権利など無いのだが、今日のオリヴィアを見た後では何も言わずにはおれない。


「仲違いなさったままでは、お互いに心苦しいだけかと」

「…部外者に口出しされる筋合いはない」

「仰る通りですが、私には何やら誤解があったようにしか思えないのです」

「いい加減にしろ。あいつの本性も知らないくせに」


 取り付く島もなかった。護衛の進言はことごとく跳ね除けられ、これ以上何を言ってもリーンハルトは聞く耳を持たないだろう。そう判断した護衛は、説得を諦めて引き下がった。「貴方様こそ、オリヴィア様の本当のお姿をご存知ないのではありませんか」と、はっきり伝えられない立場を歯痒く思う日が来ようとは。さっさと背を向けたこの主人は知らないに違いないが、オリヴィアはしがない護衛に向けても無言の会釈をしていた。単に誤解されやすいだけで、本当は人一倍思いやり深い令嬢なのではないか。護衛の彼はそう思えてならなかった。目を閉じると浮かぶのは、影を背負うか細い後ろ姿であった。

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[良い点] リーンハルト……いくら何でもその仕打ちはないよ……。 護衛さん! オリヴィアちゃんのすんばらしい所を、もっと言ってやってくれー! (ノシ 'ω')ノシ バンバン
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