7
夜会で気疲れしたオリヴィアは翌日、寝坊をしてしまった。しかし家族は誰も咎めず、兄のサンディは妹が起きるのを待って、一緒に朝食を摂ってくれた。この優しい家族のため頑張った甲斐があったと、オリヴィアは安堵するのであった。
ほっと息をついたのも束の間、オリヴィア宛にどっさりと手紙が届けられた。殆どが茶会や夜会のお誘いである。当分は遠慮したいのだが、婚約者が時の人だとそれも難しい。オリヴィアは辟易しながら、一通一通封を切っていく。
「ウルバノ様まで…」
一緒にお茶でも、というのは社交辞令で言われたのかと思っていたが、どうやらウルバノは本気だったらしい。手紙には「公爵家にある絵画のコレクションを共に鑑賞しないか」とも書いてある。オリヴィアは夜会で見た、この上なく麗しい令嬢のことを思い出していた。こちらが気後れするほどの美人でありながら親しみやすく、かといって品位も損なわず、"最上の麗人"と謳われるに相応しい女性だった。オリヴィアの噂は知っているだろうに、親切に接してくれたのは嬉しかった。恐らく、交友のあるリーンハルトの手前、無下にもできなかったのだろうが嬉しいものは嬉しい。美術品を眺めるのは好きだし、オリヴィアにしては珍しく、緊張の中にちょっとだけ楽しみを混ぜながら筆を走らせるのだった。
「次で最後ね。まったくもう!手が痛いじゃな…あら?ステラ・バートン…?どこかで聞いたような気がするけど、誰だったかしら」
小さめの封筒に、これまた小さな文字で書かれた名前。その名に見覚えがあるような無いような。少なくとも父親や兄と繋がりがある人物ではない。もしそうならば、すぐにピンときたはずだ。暫し、記憶の引き出しを開けたり閉めたりしていたオリヴィアは、以前参加した茶会にて登場した名前だと思い至る。
(男爵家のご令嬢で、とにかく可憐で、あとは…ウルバノ様と双璧を成すとか何とか……だけどどうして、わたしのところに手紙が届くの?)
何かの手違いで我が家に届いてしまったのか。しかし宛先を何度見返しても、間違いなくオリヴィア宛になっている。意味がわからないまま、彼女はとりあえず手紙を読んでみた。
『突然のお手紙で驚かれたことと思います。しかし、どうしてもオリヴィア様に感謝をお伝えしたかったのです。私は先日の夜会で助けていただいた者で、ステラ・バートンと申します。あの後、オリヴィア様をお探ししたかったのですが、私のような者では皆様の輪の中に入って行けず、お礼も言えないままになってしまいました。ですので、こうしてお手紙を差し上げた次第です。改めて感謝の気持ちをお伝えしたいのですが、お目通りすることをお許しいただけませんか?お返事、お待ちしております』
…いやはや。まさかあの時、多対一で囲まれていた令嬢が噂のステラ嬢だったとは。全く気が付かなかった。というか顔すら見ていなかった。
(別に助けたつもりはないけど…返事をしない訳にはいかないわね)
とはいえ、何と書けばいいのやら。こんな手紙を貰うのは初めてだったため、オリヴィアは文章に悩み、四回も描き直す羽目になった。もう一度会うくらい差し障りはないだろうし、最悪の場合、三度目はないかもしれない。彼女の経験上、大体そうなるのだ。
ステラからの返信はすぐに届いた。文面から滲む歓喜に、オリヴィアもむず痒い心地になる。それから日取りを決め、オリヴィアは彼女に会いに出かけたのだった。
「ご機嫌よう、ステラ様」
「オリヴィア様っ、来てくださってありがとうございます!」
勢いよく頭を下げた拍子に、ステラのプラチナブロンドが肩からこぼれ落ちる。
「どうぞ中へお入りください」
「お邪魔しますわ」
満面の笑顔でオリヴィアを招き入れる令嬢は、ウルバノと双璧を成すと言われるのも納得の可憐さだった。ステラは愛らしい花弁のように色付いた頬に、丸く大きなラベンダー色の瞳を持ち、声は小鳥のさえずりのようであった。天使の微笑みを向けられながら、オリヴィアは勧められた席につく。
「お会いできて本当に嬉しいです」
ステラは感動の言葉から始め、繰り返し感謝を述べた。オリヴィアがもういいと制止しても、なかなか止まらなかった。
ステラの感謝がとりあえず終わると、次は夜会で絡まれるに至った経緯について説明し始めた。お伽話のような世界に憧れていたステラは、招待されていないにも関わらず、公爵邸へと行ったのだという。
「そんな事をしたら駄目じゃない」
話を聞いていたオリヴィアはつい、駄目出しをしてしまった。けれどもステラ本人も自覚があったのか「そうですね。だから私の自業自得なんです」と弱々しく微笑んでいた。
「私も会場へ入る気はなくて、窓の外から少し見れたらそれで良かったんですけど…」
そう思って周囲をうろうろしていたところ、通りがかった見ず知らずの伯爵がエスコートを申し出たそうだ。どう断ろうか迷っている間にあれよあれよと連れて行かれたと語るステラ。危機感の欠片も感じられない彼女にオリヴィアは眉を吊り上げた。
「そんな誘い、断固として拒絶しなくては危ないでしょう!」
「す、すみません…」
しゅんと項垂れる姿に、オリヴィアはまた悪い癖が出てしまったと思った。
「…わたしの声が大きいのは生まれつきですから、気にしないでください」
「いえっ、私のことを気遣ってくださったんですよね。むしろ嬉しいです」
話を戻すと、会場に入ったものの雰囲気に圧倒されたステラは、伯爵の手を振り切ってすぐさま踵を返したらしい。だが途中で例の四人組に見つかり、足止めされたところをオリヴィアが見つけたという訳だ。
「場違いなところへのこのこ行った私が悪いんですけど、足が竦んでしまって…オリヴィア様が助けてくださらなかったら、帰ることもできなかったかもしれません」
「助けようと思ってした事ではありませんから、お礼など不要ですわ」
こうして話を聞いてみるとステラにも落ち度があったようだが、だからと言って口汚く罵って良い理由にはならない。
「オリヴィア様にとってはそうかもしれませんが、それでも私は感謝したいんです」
どちらの味方をするつもりは無かったが、ステラの熱意に押され、オリヴィアは彼女からの感謝を受け取るのだった。
いつもならオリヴィアがいるだけで会話が途絶え、気まずい空気になるのに、不思議とステラとのお喋りは緩やかに続いていた。ステラの柔らかな雰囲気が、幼馴染と似ているからだろうか。気をつけてはいてもきつい物言いになりがちなオリヴィアを相手に、ステラは可憐な笑顔を絶やさなかった。
「オリヴィア様の婚約者は、リーンハルト様でしたよね。すごくお似合いだと思います。私はまだお相手が見つからなくて…お二人に憧れているんです」
「ステラ様のように可愛らしい方なら、お相手くらいすぐに現れますわよ。わたしこそ実家が侯爵家でなければ、縁の無い婚約でしたわ」
「そんな事ないですよ。私、結婚するならオリヴィア様みたいに、素敵な方が良いです!」
「わたし?リーンハルト様ではなくて?」
「リーンハルト様も素敵ですけど、オリヴィア様はもっと素敵です!」
そんな馬鹿なと思えど、褒められるのは満更でもない。けれども胸中に冷たい鉛が溜まるような感覚もあった。
(…貴女の方が、よっぽどお似合いよ)
稀代の美青年と、可憐な美少女。
口を開けば怒鳴ってばかりのオリヴィアよりどんなに相応しいか。その言葉を、彼女は紅茶と共に飲み込んだのだった。
まともに終えることができた茶会は、これが初めてかもしれない。バートン家から戻って来たオリヴィアは過去を振り返り、しみじみと思った。お世辞抜きで「また私と会ってくださいますか?」なんて言われたのは、間違いなく初めての経験だった。ステラもまた、オリヴィアと同様に友人ができなかったらしい。性格に難が無くても、友人作りは容易でないと知ったのは衝撃的であった。あんなに可愛らしくて、話が上手で、絶えずにこやかでも友人ができないなんて…ステラに悪いので言いはしないが、オリヴィアは少しだけ勇気付けられた。
だがしかし、良い事と悪い事は交互にやって来るものである。ウルバノやステラと知り合えて、唇の曲がり具合がやや緩和されていたオリヴィアに不運が襲いかかったのは、夜会からわずか十日後のことであった。
その日は朝から曇天で、気分も塞がりがちな空模様だった。しかしパチル侯爵家では天気などお構いなしに、オリヴィアの怒声が響き渡っていた。
「このっ…役立たず!!今すぐ床に両手をつきなさい!!」
この屋敷で過ごす者達にとっては日常茶飯事でも、偶然訪れていたリーンハルトからすれば異様な事態に思えたのだろう。彼は出掛けついでに父親からの書簡を届けに来たのだが、尋常ではない声が聞こえたため、リーンハルトは音の出所へと向かい、部屋の中に踏み込んだ。
そこで見つけたのは、顔を真っ赤にするオリヴィアと、土下座しているメイドだった。部屋を見る限り、このメイドが何か失敗をした形跡は無い。怪訝に思った彼は、自身の婚約者に詰問した。
「声を荒げるような事があったのか」
しかし、オリヴィアからの返答は無く、ばつが悪そうに視線を逸らすだけである。それはまるで、何も無かったのに怒鳴ったのだと言っているも同然に見えた。その姿にリーンハルトは業を煮やす。
「お前は自分に仕えてくれる人間を、理由も無くこき下ろすのか」
そこまで言われてもなお、オリヴィアは黙っていた。常にへの字になっている唇が、リーンハルトの目には不貞腐れているように映った。ついに彼は激怒し、オリヴィアを強くなじる。
「心底、見損なった。最低なのはお前だろう!!」
父がいてくれたら、リーンハルトももう少し穏便に対応しただろう。或いは兄がいたら、仲裁に入ってくれたはずだ。だが生憎と、オリヴィア以外の家族は留守にしていた。
「あ、あのっ違うんです、お嬢様は何も悪く…」
土下座させられていたレティが口を開きかけるものの、リーンハルトの怒声に掻き消されてしまう。
「できるものならお前との婚約を破棄したい!それが叶わないのが、ただただ口惜しい!!」
忌々しく吐き捨てた彼は、オリヴィアに書簡を投げつけてから背を向けた。
(ここまで噂通りの人間も珍しいが、とことん最悪だなっ!)
烈火の如く怒るリーンハルトだが、実のところ、自分でも何故これほど感情を乱しているのか、よくわかっていなかった。身分の高い者が格下をいたぶるなど、往々にしてある事だ。主従関係に限った話ではない。それを目の当たりにするのは確かに胸糞が悪いけれども、何も他家の問題にあそこまで激昂する必要は無かったのではないか。
リーンハルトは自覚していなかったが、彼は失望していたのだ。少しは見直してやろうと思った矢先に、あっさりと裏切られたようなものだったから。普段はあんなに姦しい口が閉ざされていると、こうも腹が立つなんて思いもしなかった。
棒立ちになっていたオリヴィアは、彼が去った後もしばらくそのままであった。やがて、床に落ちた書簡をのろのろと拾い上げる。目を伏せる彼女は、いつもとは対照的にとても静かだった。その横では顔をくしゃくしゃにしたレティが、主人に縋りついていた。
「申し訳ありませんっ、申し訳ありませんっ!すぐに追いかけて、私が弁明してきます!だからっ、」
「しなくていいわ…今さらよ」
オリヴィアは力無い声で、レティの言葉を遮った。
諸般の事情はあれど、自分のメイドを罵倒していたのは事実だ。彼の怒りは尤もであり、そして何より───
(誰もが煩いと耳を塞ぐ。だから、わたしの声は届かない。いつだって、わたしの言葉は信じてもらえない)
オリヴィアの味方でいてくれたのは、ほんの一握りの近しい人達だけ。
(リーンハルト様はその一握りに入らなかった、それだけの事よ)
オリヴィアには、それが当たり前の事になっていた。怒りや悲しみさえ、もはや忘れたのだ。
「お嬢様…でも…っ」
「悪いと思っているなら、今後は自重しなさいよ」
「うぅ…っ、はい…」
「もう!泣くことないでしょう!」
オリヴィアの語気が少しきつくなる。しかし、いつものような力強さは、終ぞ戻ることがなかった。