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「ダイアー公爵家で夜会だと?」
「ええ。そう仰っていました」
膨れっ面が直らないオリヴィアは、捨て鉢になって父親へ報告していた。デートの詳細は話していない。喋っている最中にも怒りが込み上げ、捲し立ててしまうのが目に見えていた。だから彼女は伝達事項だけを述べたのである。
「…いいか、オリヴィア。くれぐれも、」
「わかっていますわ!淑やかにしろ、でしょう!?」
「わかっているなら、すぐに声を荒げるのをやめなさい!」
「…申し訳ありません」
「今回は本当に粗相が許されん。いや、今までも許された訳ではないが…とにかくダイアー公爵家となれば、気を引き締めなければならんのだ」
メルヴィンの真剣な口調に、オリヴィアは思わず生唾を飲み込む。父親曰く、ダイアー公爵家はロス伯爵家と懇意にしているらしい。つまりリーンハルトへの無礼は、筆頭貴族への無礼に繋がり、筆頭貴族への無礼は我が家の終焉に繋がるのだ。
「…既に手遅れな気がしますけど」
「なんだと!?」
顔合わせでもデートでも、互いに最悪の印象しか残していない。リーンハルトが公爵に告げ口でもしたら、一発で没落の危機である。
「どんな手を使ってでも挽回しなさい!」
「お兄様をドレスアップさせた方が、まだ希望がありますわよ!」
「そ、そこまで取り返しのつかない事に……って、馬鹿者!何を言い出すか!自分の力で何とかするのだ!」
「それができたら苦労しませんわ!」
「開き直るんじゃない!」
メルヴィンは長い溜息を吐いた後、娘の肩に手を置いた。
「オリヴィア。出来ない事をやれとは強要せん。だがこれだけは約束しなさい。言葉を発する前に一度、深呼吸をする事。いいね?」
「…わかりました」
「お前はダンスも、勉強もよくできる。パチル家に何ら不足のない娘だ。リーンハルト殿もいつかきっと、お前の良いところに気付いてくれる。だからお前も、彼の良いところを見つけるように頑張りなさい」
「…はい。お父様」
部屋に戻ったオリヴィアは、机に向かいながら父親の言葉を思い返していた。
(リーンハルト様の良いところ………ああもうっ、他の人なら簡単に出てくるのに!)
一生懸命考えに考えて、オリヴィアは婚約者の長所を捻り出そうとする。しかし一向に浮かばず、ペン先は止まったままだ。うんうん唸って出てきたのは「皆が褒める容姿」のみであった。ちなみに彼女は、リーンハルトの顔があまり好きではない。整っているとは思うが、整いすぎて隣に立つと惨めになってくるからだ。それに優しく微笑みかけてくれたのは初対面の一回だけで、あと彼が笑ったのはオリヴィアを「滑稽だ」と馬鹿にした時くらいである。自分を嘲る顔を、そう簡単に好きにはなれない。
「…ねえ、レティ」
「はい、何でしょうか?お嬢様」
「あなただったらリーンハルト様の、どこが素敵だと思うの?」
考えあぐねたオリヴィアは、掃除の真っ最中だったレティに助力を求める。レティは手を止め、しばらく考え込んだものの「詳しく存じ上げないので、顔が良いということくらいしか…」と面目なさそうに項垂れた。
その後二時間、考えた末に見つかったのは、容姿と声と身長という、外面的な美点でしかなかった。オリヴィアは書き連ねた紙をくしゃくしゃに丸めて捨てるのだった。
(そういえばあの時…何を仰ろうとしたのかしら?)
頬杖をつきながらリーンハルトと過ごした少ない時間を振り返っていた彼女は、ふとある事に気付く。それは「お前に言っておくことがある」という前置きに続く言葉を、聞かずじまいになっている事であった。直後にオリヴィアの怒りが炸裂してしまったせいで、すっかり忘れていたのだ。思い出した途端に気になり始めて、彼女の頭はその事でいっぱいになってしまった。来週になれば一緒に夜会に参加するのだから、その折にでも尋ねてみよう。オリヴィアはそう考えて、今度は話を切り出す台詞を練るのであった。
「わぁ!お嬢様、とってもお綺麗です!」
「お世辞はいいわよ」
「本当ですって」
一週間後。夜会のために着飾ったオリヴィアは、鏡の前に仏頂面で立っていた。支度を手伝ったレティは惜しみなく褒めてくれたが、当の本人はあまり嬉しくなさそうだ。
(どんなに綺麗な格好をしたって、"稀代の美青年"と比べたら見劣りするわよ)
内心でいじけるオリヴィアだが、彼女の容姿だって悪くない。吊り目に気の強さは滲み出てしまっているものの、緋色の髪が透き通る碧眼を際立たせ、上背のある体躯はしなやかで女性らしい。口を開かねば美人なのに、とは父親の口癖だ。ただし、彼女が望む可愛い女の子とは方向性が違う。彼女としては一度で良いから幼馴染に「可愛い」と言ってもらいたかったのだ。といっても、今となっては何の価値も無いことである。
「お迎えの馬車が来たみたいですよ。素敵な一夜になるよう、私、お祈りしてますね」
「…ありがとう。行ってくるわ」
レティの天真爛漫な笑顔に、オリヴィアは少しだけ癒された。階下へ行くと、彼女の父親とリーンハルトが談笑していた。オリヴィアといる時の無作法はどこへやら、そこにいたのは完璧な美青年だった。
他人の目があるところでは優しげな微笑みを浮かべていたのに、馬車に乗り込むとすぐに沈黙が落ちる。リーンハルトはオリヴィアを一瞥しただけで、褒めることはしなかった。文句をつけられなかっただけ上出来かもしれない。だいたいオリヴィアも、最初から褒めてもらえるなんて期待は持っていない。
「…お聞きしたい事があるのですが」
「…何だ」
相変わらずオリヴィアの声色は刺々しかったが、三度目ともなれば彼も多少は慣れたらしい。割と普通に返事をしてきた。
「初めてお会いした時、わたしに言いたい事があると仰っていましたが、何ですか」
「ああ…あれか。もう言う必要が無くなったから忘れろ」
リーンハルトは面倒くさそうに息を吐き、それから更に言葉を続けるのだった。
「俺も聞きたいがお前、ワルツくらい踊れるんだろうな」
「踊れますわよ!馬鹿にするのも大概にしてください!」
「そうやってすぐカッとなるから、不安しかないんだが?」
喉元まで大声が出かかった直後、耳の奥でメルヴィンの言葉が蘇る。
『言葉を発する前に一度、深呼吸をする事』
そうだ、父と約束したのだった。ただでさえ娘のせいで逆風に晒されているパチル家を、下落させる訳にはいかない。今夜のオリヴィアの一挙一動に、我が家の命運がかかっている。
彼女は平常心を搾り出すことで怒りを鎮め、ゆっくり深呼吸をした。
「…リーンハルト様に恥をかかせるような事はしませんから」
「ふん。どうだか」
夜会の間だけは何を言われようと絶対に我慢する、オリヴィアは己に対し執拗なまでに言って聞かせるのであった。
公爵邸に到着した瞬間から、リーンハルトは見事な好青年ぶりを発揮する。デートの折には一切しなかったエスコートも、馬車を降りる時からスマートにこなしていた。彼の猫の被りように唖然としつつ、オリヴィアはぎこちない作り笑いで応えるのだった。
「ダイアー公爵、ご無沙汰しております」
「おお、リーンハルト。息災にしているか。婚約したと聞いて、是非とも祝わねばと思っていたのだ」
「お心遣いに感謝申し上げます」
もしかして自分の隣にいるのは別人ではないのかと、オリヴィアは目を擦りたくなった。呆気にとられていたらリーンハルトに軽く小突かれたので、慌てて姿勢を正す。自己紹介しろという合図だ。
「初めてお目にかかります。オリヴィア・パチルと申します」
「パチル侯のご息女か。そう聞くと目元が似ている気がしますな。お前とそう歳も変わらないのではないかな、ウルバノ」
ダイアー公爵に促され、娘のウルバノが進み出てくる。
以前、茶会で名前が挙がっていたように、ウルバノは"最上の麗人"と謳われる美貌の持ち主だ。波打つ黄金の髪の輝きは、いかなる宝玉にも劣らない。彼女はリーンハルトとも旧知の仲らしく、飛び抜けて麗しい二人が並べば、目が潰れるのではないかと慄いてしまう。
「初めまして、ですわね。わたくしはウルバノ・ダイアーと申します。以後、お見知りおきを」
「こちらこそ、宜しくお願いいたします」
気品あふれる優雅な挨拶に対し、オリヴィアは固い返事しかできなかった。それでもウルバノは気さくに話しかけてくれて、オリヴィアもぎこちなくはあるものの、丁重に言葉を返していく。
好青年の仮面を貼り付けながら、横で二人の会話を聞くリーンハルトは気が気ではなかった。いつ、自分の婚約者が見苦しい本性を表すか、不安だったのだ。ロス家がここまで上り詰められたのは、地道に人脈を確保してきたからに他ならない。彼の猫被りもその一環である。今まで積み重ねてきた時間と労力を、オリヴィアの言動で台無しにされてはたまらないのだ。
「素敵な首飾りですこと」
「お褒めいただき光栄です。ウルバノ様の髪飾りも素晴らしいですわ」
「嬉しいですわ。苦心して手に入れたものですので」
「もしかしてジェベル地方からお取り寄せになったのですか?」
「あら。よくお分かりになりましたわね。その通りです」
リーンハルトの心配をよそに、オリヴィアは彫金の細工から産地を特定し、さらにはカメオのブローチをちらりと見ただけで、彫刻家までも言い当てる芸当を披露していた。ウルバノから芸術家について蘊蓄を聞かされれば、オリヴィアも知る人ぞ知るような逸話で返す。愛想こそ無いが、オリヴィアには侯爵令嬢に恥じぬ教養があった。
「とてもお詳しいのですね」
「祖父が骨董収集を趣味にしておりまして、その影響を受けたのだと思います」
「わたくしも絵画が好きですのよ。オリヴィア様とはお話が弾みそうですわね」
「恐縮です」
婚約者の意外すぎる姿に、リーンハルトは密かに目を見張る。ここだけの話、頭が悪い人間だと決めつけていた。普段の彼女の言動からして、そうとしか思えなかったのだ。
そして彼が驚いたのは、オリヴィアの博識さだけではなかった。夜会とは言い換えれば舞踏会でもある。当然ながらパートナーと踊る時間がある訳だが、誰からも誘われることがなかったオリヴィアは、誰にも踊る姿を見せていない。それゆえ彼女は踊りが下手だの、全くできないだの、不名誉な噂が囁かれていた。もちろん、それらの噂はリーンハルトの耳にも届いており、だからこそ夜会への参加に懸念があったのだ。
実際はどうか。オリヴィアのダンステクニックは一級品だった。パートナーへの配慮だけでなく、観客を魅せる動き方も熟知している。これで笑顔さえ浮かべていたら完璧だった。むすっとした表情を抜きにすれば"最上の麗人"とも遜色ないかもしれない。後日、オリヴィアのダンスを見ていた人達は「"稀代の美青年"と踊れるのに終始不機嫌で、お高くとまっている」と話すのが精々で、彼女の技量については文句をつけられなかったという。
なるほど、恥はかかせないと宣言していただけのことはある。両親の躾が良かったのか、何にせよリーンハルトは少しだけオリヴィアを見直したのだった。
「…すみません。少し抜けます」
「ああ。わかった」
注目を浴びながら踊るワルツは、想像以上に疲れるものであった。オリヴィアは一言断ってから会場の外に出た。背後で扉が閉じると華やかな音楽が遠のき、ようやく息がつけた気がした。リーンハルトが好青年を演じているおかげで、オリヴィアも幾分やりやすいのだが、やはりこういう場は気を張ってしまう。自室のベッドに思い切り転がりたい気分だ。
少しだけ夜風に当たろうと思い、オリヴィアは静かな廊下を歩いていた。だが、前方に人集りが見えてきたので、彼女は足を止める。避けて通りたくてもここは一本道だ。引き換えそうかとも考えたが、聞こえてくる会話が醜いものだったので、オリヴィアは逆に向かって行く。気に食わないことは放置できない性分なのだ。
その場にいた人間は五人。そのうちの一人に対し、残りの四人が口汚く怒っていたのである。よくある令嬢達の虐めだ。どちらに加担する訳ではなかったが、オリヴィアは徒党を組むやり方が気に入らない。
「言いたい事は一対一で仰るべきですわ。多対一では卑怯でしょう。あと、通行の邪魔です」
突如現れたオリヴィアに令嬢達は目を丸くし、刃向かおうとした。しかし相手がパチル侯爵家の令嬢だと分かるや否や、さっと青褪めて散っていったのである。流石は悪い意味で有名な令嬢といったところか。
逃げ去った令嬢達を追いかけることも、一人残された令嬢に構うこともなく、オリヴィアはそのまま通り過ぎたため、その颯爽と揺れる緋色の髪を見つめる眼差しには気が付かなかった。
大きく深呼吸をしてからオリヴィアは会場に戻り、最後までリーンハルトの婚約者として立派に…かどうかはわからないが、とにかく無事に夜会は終了した。帰りがけ、ウルバノから「今度、ご一緒にお茶でもいかがですか」と微笑まれたオリヴィアは頷くしかなかったが、またお茶会かと少し辟易していたのはここだけの話である。