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 "稀代の美青年"と名高いリーンハルト・ロス。彼の父親から届いた書簡には「ぜひ貴殿のご息女を我が家に」というような内容が記してあった。実際の文面を見せられても、オリヴィアは未だに信じられない心地でいた。だって相手は社交界における憧れの存在だ。オリヴィアは遠目に頭のてっぺんくらいしか見た事がないが、それでも彼の人気ぶりは知っている。夜会に参加する令嬢という令嬢がこぞって色めき立つのだから、どれだけ無関心でも知らざるを得なかった。

 ちっとも手放しで喜べない娘をよそに、父メルヴィンは随分と浮かれていた。


「手当たり次第、駄目で元々と自棄を起こして申し込みまくっていたが、素晴らしい相手が見つかって良かった」

「聞き捨てなりませんわ!どういう了見ですの!?」

「馬鹿者!確かに結婚が必ずしも幸福に繋がるとは限らんが、未婚のままだったら後ろ指をさされるだろう!今以上に後ろ指を増やしてはいかんという親心がわからんのか!」


 ぐうの音も出なかった。血筋を絶やさない事が絶対条件ともいえる貴族階級において、独身者の肩身は途轍もなく狭い。なおかつオリヴィアは侯爵家の令嬢だ。外聞の悪さは平民の比ではないのである。


「…感謝しますわ。お父様」

「うむ。わかれば宜しい。来週、署名のために彼方へ伺うから、その心積りでいなさい」

「わかりました」

「くれぐれも淑やかにだぞ」

「わかっています!」

「できる限り笑顔でな」

「それもわかっています!!」

「声が大きい!!」

「…当日は静かにしています」

「頼むぞ。本当に…」


 腱鞘炎になるまで書簡をしたため続けた父親を思い、オリヴィアは最大限の努力を約束した。もともと、彼女が夢見た結婚は叶うはずもなかった。ならばもう、あとは貴族に生まれた娘として家のために全力を尽くすのみだった。


 リーンハルトとの顔合わせまで、残り七日を切った。

 来る日のため、オリヴィアは笑顔を作る練習に励むことにした。彼女は自分の口が災いのもとであると自覚している。故に、いつ頃から始めたのかはうろ覚えだが、人前では極力喋らぬよう気を張るようになった。…のはいいとして、あまりに必死に口を噤もうとしたせいで、絶えず唇がへの字に曲がるようにもなってしまったのはいただけない。そこへ生まれつきの吊り目が加わり、誰がどう見てもご機嫌ななめに映ってしまう。何とかしなければと思っても、気を抜けば鋭利な言葉が出てしまうし、それを押し込めようとすればするほど仏頂面になってしまうし、もはや八方塞がりだった。

 しかしオリヴィアはめげずに鏡の前に立ち、自分の指で口角をぐぐっと持ち上げる。間抜け面もいいところだ。笑顔どころか、他人に見せられない顔がそこにはあった。だが、頬に赤い指の跡が付いても、彼女は微笑む練習を止めない。


(侯爵家という身分にしか価値が無いなら、それを失う訳にはいかないわ)


 いい加減、父親の苦労に報いるべきだ。優しい家族だからしつこく言いはしないだけで、オリヴィアの将来を案じているに違いない。彼女は自分のことが嫌いだったが、こんな自分を大切にしてくれる家族のことは大好きなのだ。"稀代の美青年"だか知らないが、家族が喜ぶなら何が何でもこの縁談を成功させなくてはいけない。


「オリヴィア?どうしたんだ、その顔」

「少し気合いを入れておりましたの」


 廊下ですれ違った兄が、変な風に頬を赤くしたオリヴィアを見てぎょっとする。彼女は澄ました表情で返事をしていたが、内心は不安でいっぱいだった。のしかかる重圧もさることながら、幼馴染以外の異性とまともに話した事がないオリヴィアは、対面する前から手に汗を握っていた。

 噂に聞くリーンハルトは容姿端麗なだけでなく、近付いてくる相手にすこぶる優しいという。幅広い年齢層の女達が骨抜きにされる理由は、まさにそこにあった。リーンハルトに微笑みかけられ、気を失ったという令嬢の逸話は嘘か真か。

 良い意味で有名な令息と、悪い意味で有名な令嬢。これはまた極端な組み合わせであった。




 こうして迎えた顔合わせの日。

 オリヴィアは愛想笑いの一つも浮かべられずに、ロス伯爵家の門をくぐっていた。辛うじて唇はへの字ではなく、一文字に引き結ばれていたのは、涙ぐましい特訓の成果なのだろう。隣に座る父親から感じるはらはらした気配を汲み、オリヴィアは静かにロス親子との会合に臨んだ。


「ご足労いただきまして、恐縮でございます」

「こちらから申し込んだお話ですから」

「それにしても素敵なご息女でいらっしゃる」

「いやいや!貴殿のご子息の前では娘など霞んでしまいます。足元にも及びません」


 父親同士が談笑している最中、オリヴィアは件の美青年に視線を向けてみる。なるほど確かに、近くで見ると芸術品のような容姿であった。翡翠の瞳が、黒曜石の髪の隙間から優しく光っている。名画を鑑賞するかの如く眺めていたら、彼とばっちり目が合ってしまう。途端に真顔から、変に強張った顔付きになるオリヴィアだったが、リーンハルトは優しげに微笑みを返してきた。下手をすれば精巧な人形より整った顔の青年に微笑まれると、何だか落ち着かない気分になって、オリヴィアは思わず目を逸らしたのだった。


 どうにか恙無く署名までこぎつけ、こうしてオリヴィアとリーンハルトの婚約が正式に結ばれた。思い描いていたような、幸せな緊張は一切無かった。あったのは、粗相をしないかという嫌な緊張感だけだ。オリヴィアは機械的に署名し合った書類をぼんやりと見ていた。


「リーンハルト、ご令嬢を庭に案内して差し上げなさい。外の空気を吸えば、緊張もほぐれることだろう」

「はい。父上」


 オリヴィアとしては「お気遣い無く」と遠慮したいところだったものの、リーンハルトが行きましょうと促すので、諦めて退室するほかなかった。

 彼の後ろを歩くオリヴィアは、かける言葉を探しあぐねていた。こういう時、普通だったらどんな会話をするのか、彼女にはてんでわからない。兄や幼馴染には頭に浮かんだ事をそのままぶつけているだけだし、他の人を相手にする時は話しかけられるまで口を開かないようにしているから、世間話の仕方を知らないのである。

 しかし、庭に出るとリーンハルトの方から話しかけてくれたので事なきを得た…と思ったのも束の間だった。開口一番、彼はこう告げた。


「お前に言っておくことがある」


 その時のリーンハルトは甘い微笑みを消し去り、冷めた表情をしていた。だがオリヴィアからすれば、そんな事はどうでも良かった。自分も似たような顔をしているであろう。彼女は「お前」と呼ばれた事に対してカチンときたのだ。


「…何か言いたげな顔だな」


 知らないうちに、唇が思いっきりへの字にひん曲がったらしい。オリヴィアを見下ろす彼も、負けず劣らずの皺を眉間に寄せていた。聞かれればはっきり返答するのが常のオリヴィアだが、今回ばかりは「何でもありません」と根性で耐えてみせた。しかし残念なことに、彼女の顔は全然何でもないように見えず、リーンハルトは再度「言いたい事があるなら言え」と、語気を強めて催促してしまった。ここでまだ我慢ができたなら、彼女は性格のことで苦悩などしていない。


「情勢がロス家に傾いているとは承知していますが、仮にも爵位は我が家の方が上ですのよ!?ましてや初対面ですのに『お前』とは何です!?無礼ではありませんこと!?」


 吊り上がる双眼で睨みつけ、緋色の髪を燃えたたせながら、オリヴィアは堂々と文句を言い放っていた。突然の音に驚いた小鳥達が、木々から飛び去っていく。やってしまったと思うが手遅れだった。いつだって言葉が先に飛び出してから、彼女は後悔する。

 オリヴィアの言い分にまず返ってきたのは、あからさまな溜息であった。


「はあ…身分に拘る柔軟性の無い人間か。下らない」

「下らないですって!?これは当然の礼儀というものですわ!」

「その耳障りな声はやめてくれないか。不快だ。喚くお前こそ育ちが知れる」

「地声ですわよ!ほっといてくださいまし!」

「まったく…可愛げのない女だな」

「っ……」


 可愛くないなんて、そんなのオリヴィアが一番よく知っている。痛いところを突かれた彼女は押し黙った。


「誰でも構わないとは言ったが、父上ももう少し考えてほしかったな。噂を知らない訳でもあるまいし」


 嫌味たっぷりにリーンハルトは独り言ちる。それから、俯くオリヴィアに向かって傲然と命令するのだった。


「その喧しい声は控えろ。不細工な面もよせ。俺の恥になることはするな」

「……善処はします」

「お前、本当に侯爵家の娘なのか?替え玉じゃないだろうな。それにしてもお粗末すぎるが」

「失礼な!わたしは正真正銘メルヴィン・パチルの娘ですわ!!」

「言ったそばから大声を出すな。見苦しい」


 "稀代の美青年"が聞いて呆れる。"稀代の性悪"の間違いではないのか。悪態が口をついて出そうになったが、すんでのところで踏みとどまった。誰かを悪く言えるほど、自分はできた令嬢ではない。そう言い聞かせることで、オリヴィアは再び唇を引き結んだのだった。とはいえ肩が怒り、彼の言う不細工な面になるのは止めることができなかった。




 帰りの馬車の中で、父親から婚約者の印象を尋ねられたオリヴィアは無言を貫いていた。露骨なまでの様子に顔色を失っていく父親を目の前にして、オリヴィアは「ごめんなさい」と謝罪を口にする。彼女の眉根はきつく寄ったままだったが、心なしか悲しげにも見えた。


「…まあ、元気なのは悪いことではない」


 覇気をなくした娘に、メルヴィンはそう言って慰めるが効果は薄いようだ。未婚でも苦労するが、この様子では結婚しても苦労するかもしれない。父親の悩みの種が、また一つ増えてしまった。

 暗雲が立ち込める形で、顔合わせは幕引きとなったのである。

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